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第19話 ジョンとマーガレット AnimaⅧ

←第18話


現在。
マーガレットは今回のイアンとアレックスに起きた珍事の収拾のために、
誕生日にもかかわらずタラ教授が来たお詫びと御礼にと食事に誘った。

「おめでとう、タラ。友情と娘の恩師にすっごい感謝」と、グラスを掲げると
「ヴィンテージのシャンパンにドレス?すっかりセレブママだな、マーガレットよ」と流れるようなからかいが返ってくる。
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「そこは素直に褒めてくれてもいいんじゃないの。庶民がネット使ってお店探しまくったんだから!
 今住んでるところじゃ、スーパーの安いスニーカー履いてるだけで玄関ホール中の視線が集まるんだよ。面倒臭い世界」

娘ダイアナがサウス家の養子になり、さらにイアンと結婚してたことで住処は安全性が優れている高級マンション、
さらには生活費などというレベルでない保証も当然あり、巻き込まれる形でセレブ界へ放り込まれた。
マーガレットがそんな生活について悪態をつける存在はほぼおらず、タラ教授は貴重な存在だ。

「実にくだらなぬな。金なぞ有りすぎると悩む楽しみがなくなる。何事も程よく飢えてるのがよい」
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「ほんと人間、普通が一番だよ。いまあたし職探ししてるんだけど学歴も資格も目立つ職歴もないし、中々見つからないの」
「今は売り手市場だろう?スーパーでも本屋でも店員をすればよいではないか」

生活のためではなく社会動物として仕事がしたいマーガレットの気持ちを汲んでタラ教授が言う。

「苗字と顔でダイアナの親ってバレて、2回面接で断られてるの。ご近所のひとには募金集め?パーティとか誘われて、
 そういうこと皆してるんだよね。でもあたし興味ないしさーぁ。━━ あ~~~、も~~~誕生日なのに愚痴ごめん」
「気にするな、お前の本音は楽しい。それで最近ジョンとは会ったのか」

マーガレットは止まって、「先月ね。同じ本読んで、読書会みたいなことをしたよ」と呟いた。
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そう。
なんと実はジョンとマーガレットの話はまだ続いている。







『マーガレットは夜の仕事で君はいつも家にひとりで残されてたらしいね。
 苦労もあったんだろうが、さすがに子供が育つには少々相応しい環境とは言えな』
『は!? 種撒くくらいしかしてないくせに、お母さんのこと何か言えると思ってんの!!?』
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このとおり娘ダイアナとジョン・サウス議員の初対面が見事なケンカ別れとなった翌日。
母に会うなと言われたもののジョンは別にそんな通達を守ることもなく、
二十数年ぶりにジョンとマーガレットはブリッジポートで会っている。
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「久しぶり」
「・・・・・久しぶりだね、マーガレット」
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ジョンはかつてマーガレットがサンセットバレーのキャバレー歌手としてどんな仕事っぷりだったのかは調べさせていない。
・・・どんな客をとっていたのかなぞ知りたくもないと。
元は公爵家当主として議員として壮年の男として、世の中を広く見れていると自負のあるジョンであれど、
結局のところ人の常識なんてものは所詮その人間の周辺が基準でしか作られない。

そのためかつてよりも年を重ねたのにもかかわらず、
不思議と美しくなったマーガレットを嫉妬と悲しみの思いで見つめてしまう。

「なーんか、久しぶりすぎて照れるねえ!ジョン。・・・お互い老けたし」
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「・・・・老けたといえるのは私だけだな」
「そうかな」

皮肉っぽく響いてしまうイントネーションの、このジョンの婉曲な褒め言葉をわかる人間は
相変わらず少ないんだろうかとマーガレットは微笑む。

「昨日ダイアナと会ってみてどうだった?
 あのコ、あたしには普通だとか言ってたけど電話で妙に早口だったから、な~んか嘘ついてるみたいだったけど」

その問いに昨日ダイアナが強烈に言い放った一言がまたジョンの脳裏に巡る。
”種しか撒いてない”。
ジョンはぐうの音も出なかった。
生まれてこの方言われたことのない罵倒にジョンは唖然としてしまってダイアナが退出するまで言葉を紡げなかった。
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「ダイアナさんには『私は父親ではない』と見事に嫌われたよ。君にも会うな、ともね。
 彼女が言うとおり、親らしいことは何もしていないから当然だね。
 遠ざけていたとはいえ、それなりに父親をしてやったつもりのアレクサンダーにすら好かれてはないから無理もない」

歳を重ねたジョンは相変わらず他人事のように言う。
男というものは30を過ぎたら成長はしないのかとマーガレットは「ああ、もおー」と肩の力が抜けに抜けた。

「つまりダイアナにもその通りにやったわけだ?」
「私はいつもの通りだよ」
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涼しい顔でジョンは自ら紅茶を注ぎ、マーガレットへ提供した。
昔のこういう部屋での逢瀬でもホテルの執事がいたものだったが、それすら人払いされて本物の密会となっている。

「ダイアナはね。勉強が出来るのは置いといて、母親からすると結構おバカで分かりやすいところがあるんだ。
 ・・・昨日結婚式の準備の話題で『あたし、絶対結婚式で歌ってもらうから』って妙~に鼻息荒くしてたんだよね。
 それが関係してる気がしてるんだけど?」

暗に”私が歌手してたことを悪くいったんじゃないの”、という指摘にジョンは静かながら電気のような怒気を発する。

「・・・何故そんなことをするまで私に言わなかった」
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「はあ・・・・?」

なかなかマーガレットはこういう子供っぽいキレ方はしないが、ジョンの台詞は頭に来た。
そして、まるで低俗なチンピラじみた返事を零したマーガレットの態度には彼もまた頭に来る。

途端、時間の隔たりなどなかったように20年以上前のことを巡って凄まじい怒鳴りあいになった。

私はそんなに頼れない男か。
頼れるわけないでしょ。そもそも私のこと実際追いかけても来ることすらしなかったのに偉そうに何言ってるの。
あんな居なくなり方をしてカメラにまで伝言残していたからだろう。追えるものか。
それでも本気で心配なら追えばいいじゃない。結局ダイアナが跡継ぐってなった途端に会おうとか虫が良すぎると思わない。
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最初に終わりにするときには君からと言った手前追うわけに行かないだろう。囲わせ続けろと言いに行くような男だと思うか。
大体なんで私がブリッジポートまで出てこなきゃいけないのよ、あんたが来なさいよ。
今は議会の開会中だ、その間は私はここを離れられない。
議会だあぁ?政治家なんかしょっちゅう仮病してるじゃない。私の娘と、私に関わる問題なのに仮病のひとつも使えないわけ。
私はそこらの安い議員とは違う。背負っているものがある者には義務というものがある。
ああそう、じゃあ世界で一人しかいない父親の義務はどうなるってのよ。いつも二の次にして頂いて、どうもありがとう。


ここでマーガレット、なんとハイヒールを脱いでジョンの足元に投げつける。
21年分のケンカはますますヒートアップしてゆく。


一体何をする。そういう悪い染まり方をするから、食べていくためでもあんな店で働くなと言うんだ。
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ぶつからないように投げただけ有り難いと思えば。そもそもあんな店って何よ、あの店じゃただ歌っただけよ。このエロオヤジ。
エ・・・ そうであっても。私を頼るまいとして、する仕事か。
そんなもの、あたしが決める。事実一緒に働いてた友達のほうが、あんたよりずっと育児のこと助けてくれてたから。
私たちの娘をキャバレーの連中と付き合わせていたのか。
ばかみたい。皆普通だよ。あっちこっちで女買ってるから変な目でしか見れてないだけでしょ。くだらない偏見だよ。
私が女を買うだと。この私は自分では誓って、そんなことをしてきたことはない。
うそっ。うそばっかり。最初あたしと会った時だって誰でも良かったじゃない。偉そうに自分ばっかり高潔ぶらないでよ。
うそではない。そもそも私はあれ以来していない。君が何も言わずに居なくなって、私がどれだけ傷ついたと思ってる。

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年配のジョンのほうがもうケンカはお終いだとソファに腰掛けて、ひと呼吸ついた。
ジョンにそんな吐露をされて、マーガレットは適当な冗談ぽく笑おうとする。

「うそ。あ~・・・・年齢的に出来なくなっちゃった~とか。なんでしょ?」
「機能的な問題じゃあない。心情の変化だ、マーガレット」
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マーガレットに”捨てられ”て以降、当時男盛りといっていい年齢だったのにもかかわらず
ジョンはもう今更遊びで女を抱く気にもなれずだった。
対してマーガレットといえば、
その時その時でダイアナに悪影響のない範囲で付き合った相手はちゃっかりいてきたので気まずい。
友人ともよく話すが、こういう面は男のほうが不器用で引き摺るケースが多いというけれど。

無言のまますっかり冷たい紅茶を口に含み、少しだけ互いに落ち着いた。

「・・・さっき、育児のこと。何もしてないって怒鳴ったけど、あれ、ウソ。お金が必要で、ジョンのプレゼント全部売ったの」
「・・・・そうか」
「あれがなきゃ、ここまでダイアナと来るのなんて絶対に無理だった。・・・・こうなるの、分かってた?」
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「何かの助けになればとはね、思ってはいたよ。 かといって金を渡すのも違うだろうからね。換金しやすいものにしたんだが」
「だったみたいだね!オーダーの変わったやつじゃなかったから全部鑑定が簡単で・・・すぐにお金になったんだよ」

ジョンの考えが、やっぱりそういうことだったと答えが分かって笑ったあと、
マーガレットは当時の気持ちが涙と共にせり上がりそうになるのを飲み込む。
でも違う涙が出た。結局ダイアナはサウスの家に関わる羽目になってしまったのだ。

「~~~ ・・・・あのときっ・・・別れたの間違ってなかったはずなのに・・・全部無駄になっちゃった気がするよ。
 あたし、ジョンが、あれだけ家のこと嫌ってたからっ・・・ダイアナには関わらせたくなかったのに・・・あたし、何のために」

「大丈夫だよ、時代は変わる。アレクサンダーもいるし、ダイアナさんが継ぐとしても何十年も先だ。
 関わらなければ慣習も文化も私の代で消える。アレクサンダーも好き放題してるだろう?君の心配も杞憂となるよ」
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昔のように抱きしめたりはしないが「私が請け負うよ」というジョンの声がマーガレットを暖かく包む。
しかし結果助けられたことになっても彼女にはアレックスに対しては複雑な思いがある。

「あたしは・・・・いまアレックスが結局ジョンに家のこと全部押し付けて暮らしてるのは・・・ひどいと思ってる」
「アレクサンダーは生来、人の顔色を見過ぎて自分を抑えるきらいがあってね。性格は似てないが性質は私に似たんだろう。
 今くらい好き放題して我を出しているほうが親としては安心しているんだよ。
 家督も箔をつけてやるためだったし、50代の私を本物の隠居扱いさせられても正直困るというものだよ。マーガレット」

アレックスの話題が出て、また沈黙。
先程マーガレットは『いつも二の次にしてくれてありがとう』という一言をとうとう言い放ったのだ。
いま同じことを考えている中でジョンが口火を切った。
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「・・・・アレクサンダーが爵位返上と王室周辺の法律を変えたが・・・・ あんな方法があったとはね。考えたこともなかった。
 気付いたときにはただただ驚いたよ。戻ってきて随分強気な男になったとは思っていたが、あそこまでするとはね」
「・・・・・・・」

ジョンだけはその力を使って何故アレックスがあんなことをしたのか、今やエリンの正体も含めて真相を知ってるが
マーガレットは知らない。
けれど娘ダイアナがイアンに巻き込まれるとどうなるのかを目の当たりにしたことで
アレックスは異母妹のダイアナだけじゃなくエリンも含めて
サウス家に関わらせたくないということだったんじゃないか、というのは分かっていた。

「マーガレット。私は、君が私の元から去る前に、君のために同じことを出来なかったことは最期まで悔いるだろうな」
「・・・・・・」
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もし仮にジョンがマーガレットのためにアレックスと同じことをしていれば
2人はもしかしたら今のアレックス夫妻のように結ばれる道もあったのかもしれない、ということだ。
ジョンは愛していた自分のためにすら、周りに逆らうことをしなかった、できなかった、考えてくれたことすらなかった。
マーガレットの涙はしばらく静かに流れ続ける。
でも、それでいい。

「・・・でもね。ジョンがそういうことが出来ないひとだから、あたしは好きだったんだと思うよ。
 自分よりも皆のために、求められるまま暮らしすぎて疲れてて。顔怖くって、ひどい口下手で誤解されてばっかで・・・
 すごいひとなのに、何のとりえもない普通のあたしを必要としてくれて、甘えてくれたのが嬉しかった。嬉しかったの」
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「・・・・。私は、自分が特異な世界で生まれ、さらに特異な環境に育ったのは分かっている。
 だからこそ君でいうところの『普通さ』に惹かれたんだろう。自分が得られてこなかったものを君にすべて満たしてもらってた。
 30をとうに過ぎた男が同じ歳の学生のように熱を上げて、毎日次会うことだけを楽しみにしていた。
 それが実に、本当に楽しかったよ」

今でも夢見る心地で遠い日々を彼は良く思い出す。
もちろん、マーガレットも。

「あたしが間違えた?あたしが、ジョンを信じて、・・・逃げないでちゃんと飛び込んでたら変わってた?」
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「どうだろうね。君が間違えたのならば、私は君に私の事を信じさせられなかったし、ないがしろにしていた。
 情けなさすぎる過ちだ。・・・・・こういう仮定の話は私には非常に辛いものがある」

ジョンは空気を揺らがせる程度に苦笑を零す。

「アレクサンダーがやったことは私と妻との夫婦関係も法的に終わらせることもできるようにしたんだがね、マーガレット」
「・・・うん。そうだよね」
「妻と別れた場合になんだが、君は」
「それはね、実は飛行機の中で考えてきた。ムリだと思うんだ。ムリムリ!」
「・・・・。即答だね」
「だって、ジョンって燃えるゴミの出しかたも分からないでしょ?うまくいきっこないよ!」

マーガレットが笑うと、ジョンも首を振りながら「女性は男よりも現実的だとは言うがそう来るかね」と彼にしては大いに笑った。
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自分は彼女のこういうところを愛した。ジョンはそれがいまも変わっていないことを実に嬉しく愛おしく思う。
そしてマーガレットは笑いをすぐ引っ込めて真剣な声音で、

「付き合ってたの1年未満で、別れて21年、22年だよ。あたしも変わったし、ジョンも変わったよ。でしょ?」
「若かった君からしたらそうだろうな。しかし私くらいの歳になると変化は少ないものだよ」

今のジョンの返答を翻訳すると、『君が変わろうとも、僕は変わらず君をまだ想っているよ』 
━━ この、アレックスなら笑顔で平然と言ってしまうだろうセリフを言えない彼に、マーガレットも愛おしさを覚える。

「っていうかね。そもそも奥さんとは別れてから言おうね。あたしはもう二度と不倫はしない」
「私だってするつもりはないよ。もうあれと別れることは決まっていて作業を進めている。財産分与の煩雑な手続きの関係で、
 2年程かかるだろうがアレクサンダーにも電話で知らせたが平然と『やっとだね』とだけ返されたよ」
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「・・・そっか。あと、やぱりアレックスとかダイアナの手前、焼け棒杭に火がついたってのもね。
 せっかくダイアナはアレックスの妹じゃないって記者会見で発表するんでしょ。
 愛人と元鞘したら全部バレるよ?」
「周りのことはどうでもいい。私は同じ過ちはもうするつもりはないよ。もう50代でもあるからね」

自分は何も変わってないと宣言していたがやはりジョンにも変化は訪れている。
昔と同じ過ちは繰り返さないと彼から静かな熱を感じられた。
マーガレットは「ゴミ捨てとかマスコミへの公表とか、そんな現実もどうでもいいようになるといいね」と微笑んだ。
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なんのしがらみもない場所があればいいのに。
ダイアナという娘が再び自分たちを再び結び合わせたけれど、娘を想うからこそ簡単に戻れない事情が自分たちには多すぎる。

「ジョン、デートじゃない、ただの食事とかをする・・・お茶飲み友達程度にしておこう?」
「・・・。そうだね。でもちょうどいい。ダイアナさんの思い出話を聞かせて欲しいと思っていたんだ」
「うん。そう言ってくれて嬉しい」

しかし昨日、当の娘ダイアナはジョンとは決別してしまっている。

「ダイアナのことだけど、少しあたしが話そうか?ジョンてば言葉足らずで分かりにくいから、ちょっと誤解されてると思う」
「誤解ではない。彼女の前で君を侮辱した、私にそういうつもりがなかったとしても彼女には事実だ。これは私と彼女の問題だよ」
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「あ~そ~。ジョンがそこまでカッコつけるなら助け舟もう出さないけど、
 言っておくけど、あたし娘が嫌うひととは付き合うつもりないから、そのつもりでね?歩み寄る努力はしてよね、父親なんだから」

きっぱり言い放つマーガレットの言葉には、やはり母の強さが加わっている。
同性の息子達とですら上手く付き合えてこれなかったのに、昨日が初対面の娘でさらにはマイナス好感度からのスタート。
ジョンは非常に困難な政治問題のように眉根を苦しそうに寄せながら「努力はしてみよう」と呟いた。
そもそも娘と二度目の面談自体が相当難問である。

帰り際、マーガレットは愛情ある声で言い残した。

「あとね。ジョンは髭は無いほうが可愛いよ」
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結局ジョンは娘ダイアナの結婚式には招かれなかった。
しかし、こうした経緯で数ヶ月に一度、不定期に我が子の思い出話に華を咲かせる秘密の友人ジョン・サウスができた。
元鞘には戻っていない。酒も飲みかわしていないし、手すら握っていない。
しかしマーガレットはこのジョンを理由にイギリスから同じ国内のサンセットバレーに戻り、ジョンは髭を落とした。









「読書会とはな。老人ホームの爺婆のほうがもっと生々しい恋愛をしているぞ、マーガレット」
「でも結構面白いよ。あのジョンにあたしが中学生のとき読んでたやつ読ませたりしてみちゃったりしてね」
「サウス議員がティーン小説とはな。表紙を隠してコソコソ読んでる様を想像するだけで笑えるが、
 ・・・・お前たちは何年そんなことを続けるつもりなのだ?」

結局、初対面から2年ちかく経った今もジョンとダイアナ父娘は再会をしていない。
マーガレットがこんな風に娘にも伏せて彼とまた会っているなんて夢にも思っていないだろう。

「さあて、どうしようかね。そのうちそのうち、って思ったけどダイアナは今妊娠して大変そうだしさ~」
「そうやって次はダイアナに赤子がいるから、子供がいるから、子供が増えたからと、お前は言い訳を続けるのだろうな」
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「それの何がダメなの?娘に全部自分の恋愛の話するわけでもないし。
 アレックスなんかは実は勘付いてるかもしれないけど。・・・正直いまが一番楽だし、たのしいんだよ。変えたくない」

ジョンは今月離婚する。
しかしジョンとマーガレットが正式に関係を持つということは、議員である彼、旧公爵サウス家にも関わるということだ。
また娘を一番に考えて、せっかく良い関係の唯一の兄であり正妻の息子アレックスと娘ダイアナとの仲に
波風も立てなくない。
この2つがマーガレットには大きいため、ジョンもまたそれを尊重してプラトニックな関係が密かに続くこととなってしまってる。

「誤解をするな。責めているわけではない。そのままジョンが墓の下に行ったあとは女同士でよろしく老人ホームで過ごすとしよう」
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「タラ。それ、あたし結構本気でいいって思ってるんだからね。ただ住むなら海外はイヤだから、そっちがこっちに来てよね」

マーガレットにはタラ教授はもちろん気持ちは明かしていない。
腹心のシムボット・アルテイシアを除いて他人に明かしてもいない。
親友という顔のまま、
途中下車の感覚で他の男や(時には女とも)恋愛を楽しみながらタラ教授は気長に気長に待つのだ。

「独身でいることを恐れる心配はないというのは、なによりの誕生日プレゼントだ。老後を楽しみにしているぞ」
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途中でマーガレットとジョンが結婚することもあるだろうが、それでもよいのだ。
どうせ女のほうが生物的に長生きするように出来ている。

タラにとっては女の寿命の長さだけが唯一ジョンに対抗できる武器だ。



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第18話 マーガレットⅣ AnimaⅦ

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マーガレットが妊娠すると明かした友人は諦めろと言い、
両親は相手の男のことも一切明かさないうえに子供を諦めないなら知らぬと縁を切られた。

「相手の男も逃げちゃったんでしょ?学校辞めて、どうやって暮らしてくの!?」
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当然ジョンは逃げてなどいないし妊娠すら知らないがマーガレットは妊娠を知らせた皆にそう説明していた。
ジョンとの不倫関係が始まってから平然と嘘を切り貼りすることを覚えた。

「考えてみる。あたし宛の郵便、しばらくは色々来るかもしれないけど全部受取人ナシ扱いで戻しちゃっていいから。 
 あとね、お願いだから妊娠したことは誰にも言わないでね、ホント。・・・・面倒になっちゃうからさ」
「ねえ・・・・まさか相手の男ヤバイ奴じゃないよね?」
「そう・・なんだ。あんたに迷惑かけたくないし。あたしは出て行くから。黙ってれば平気だしさ。落ち着いたら連絡するよ」
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相手がそんな男だなんて、と友人の瞳に初めて、微かな侮蔑の色が帯びた。
それでいいんだ。連絡するというのも、もちろん嘘。

十年以上前に女王陛下がテロで亡くなって以来、この国のカラッポの王家と、補うように機能している公爵家。
もしマーガレットのお腹の子が女児だったら、既にジョン夫妻のもとにいる男児の双子を飛び越えて
サウス家の後継者となる子であり、さらには王位継承権もあることになる。
ジョンが囚われて苦しんでいる世界に、お腹の子は置かない。
現に彼は双子ですら国外の学校へやって少しでも、あの世界に縛られないようにしてる。
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そしてマーガレットのなかに確固として育っていた愛人の傲慢もあった。
愛人だけどジョンが本当に愛してるのは私だし、
この子はちゃんと愛し合ってできたた子なんだから、と。

ジョンには絶対迷惑かけない。親も友人も頼れない。
学生のマーガレットの貯金なんか、ちょっといい服を数枚買える程度しかない。
そうなると身の回りのものを処分しないとならないと、縋るような気持ちで都市の店を回った。

「全部でいくらになるか見て欲しいんですけど、どのくらい時間かかりますか?今日中に売りたいんです」
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「・・・まあ2時間ほどいただきたいですが・・・大体1000$くらいですかねえ」
「そんなわけない。若いと思って誤魔化さないでください。
 買う気がないならいいですけど、もしあるなら他の店とも合見積もりしにいきますから1時間で鑑定してください」

合い見積もり、なんて言葉は当時学生だったマーガレットは元々は知らなかった。その意義も。
でもジョンとの四方山話で教えてもらったことは彼女を救った。

こうして彼から贈られたものを全部まだ見ぬ赤ちゃんと今後の生活のために掻き集め、
店を歩き回り、見積もりを取って回って、一番高く買い取るという店に売り払って、
そして金だけがマーガレットの手元に残る。

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『これでも何かの助けになるよ、マーガレット』

婚約指輪が高価なのは男が死んでも残された家族を経済的に支えられるようにという説がある。
自分は煌びやかな装飾で飾られて見せびらかされるような種類の愛人ではなかったのに、
ジョンはいつも何かをくれた。

最初ははしゃぐ気持ちのまま大荷物のプレゼントの山。
しかし次からはどんどん贈り物のサイズは小さくなったものの総額は変わらないんじゃないかと思うような、
小ぶりで一見ハデ過ぎないアクセサリー。

(もしかするとこうして何かのときには役に立つようにって、・・・・考えてくれてたのかな)
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マーガレットが街を出るときには人生で見たことないような金額の小切手が残る。

お金で愛情の過多は測れないが、
この事実はますますマーガレットへの愛情の重さを示しているような気がした。

彼の愛情と思い出を売り払って、泣きそうになりながら銀行口座に全額入れた。








その週、初めてマーガレット宛に送った手紙が『受取人不在』扱いで、非常に遠回りのルートを経てジョンの元へ戻った。
試験期間の逢瀬はきちんと把握したうえで避けていたし、招いてもマーガレット側の都合で来れないこともあった。
しかし、こんな事態は一度もない。
受取人不在とは、いったいなんだ?
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前回の逢瀬もいつものように切ない幸せのまま別れただけに訳が分からず、
ジョン・サウス公爵はその力を使ってすぐにマーガレットを捜させる。

すると彼女がもう大学を辞めて学生寮も出ているという事実はさらにジョンを混乱させ、心配させた。

この当時のジョンは運輸省関連の委員会の議員の一人で公共交通機関への影響力があったので、
そのルートから彼女の足取りを辿らせる。
まず無事な姿を確認したいという意図のもと、最初に手に入れたのは
マーガレットが住んでいた都市の駅についている防犯カメラが見つけた映像だった。

暇そうに時間を潰しているらしいマーガレット。なのにありえないことが起こる。
画面越しにジョンと目が合ったのだ。
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いや、つまり彼女は駅の防犯カメラを見つめている。不自然に長く、数秒経って彼女の微かに唇が動いた。

『さよなら』

ジョンが運輸省関連に強い立場を使って、こうして彼女を追跡するだろうと予測してたのか、
戯れに映画やドラマっぽいことをしただけか。
彼女は暫くすると画面の外へ消えると、ジョンはテレビの電源を落として暗い画面を見つめたまま固まった。

マーガレットと愛し合っていたのは確かだが、いつかは終わるはずのものというのも分かっている。
若い彼女を苦しめていなかったわけがない。

しかし彼女は私と別れるために学校すら辞めなくてはいけなかったのか。
こんな逃げ方をしないと別れられないようなことを自分は愛のもとに強いていたか。
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「君の言う通りにしよう」

次の瞬間、ジョンは手元にあったマーガレットの足取りが載った調査報告書を読まずに捨てる。
彼女が望んだとおり、彼女を自由にすることが最後の愛情表現なのだと考えたからである。
そしてそれは一番最初に彼女に誓ったことでもあった。終わりにしたいときは彼女から。
愛人として居続けてくれなどと引き留めていいわけがない。

こうして鮮やかな赤毛と共に、彼の世界から色が消えた。





マーガレットは色々と調べながら転々と移動し、人口減少のなか育児支援に力を入れてるという田舎町に流れ着いた。
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『幼馴染で銀行員だった夫が身重の自分を置いて先立ってしまった、自分にはもう身よりもない』という大嘘で、
この純朴な街にすんなりと馴染み、好意的に受け入れられた。

もちろん妊娠出産の大変さはとんでもなかったが産後のほうが大変だった。
産後で思うように動けないのに、自分では呼吸くらいしかできない昼夜のない赤子を一人で抱えて、
親切な近所の助けだって限りがある。
そこを救ってくれたのは例のジョンからのプレゼントを換金した大金の蓄え。
金は幸せにはしてくれないが不幸を防ぐことはできた。

田舎町のアパートの半地下のワンルームで母子2人きり。
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基本は平凡よりも慎ましい生活をしながらも、金でどうにかなることはサービスだのを頼って苦しい時期を乗り切り、
周囲には『亡き夫が残してくれた、わずかな保険金で助かってます』などと嘘をまた重ね、さらに周囲の同情を集めた。

その頃にはジョンと自分たちについて嘘をつくことになんの抵抗もなくなっていた。
皆安心できる理由があれば、それでいいんだ。



まだマーガレットも理由は分かっていなかったがダイアナは言葉を覚えるのがとても早かった。
ちょっとだけ育児の余裕が出来てきたころ。

「まーま」
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「はいはーい、なあに?ダイアナ」
「しゅきよ。まーま、いちばん。しゅき」
「・・・・うん・・・・」

いちばん、なんていつ覚えたんだろ。
娘ダイアナに言われた瞬間、マーガレットはジョンとの別れ以来はじめて声を出してわあわあと泣いた。

私はずっと何かの一番になりたかったの。
特別な何かになりたかったの。
でもジョンですら一番にしてくれなかったの。
それをくれて、ありがとう。ありがとう。

「ありがとう、ありがとう。ダイアナ、好きだよ、ずっとずっとママの一番だよ!大好きだよ!!
 ママ絶対ずっとずっとあんたの味方だからね!!」
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「・・・・・・ ワギャアアアアアアアーーーーーーー!!!!ワギャアアアア!」

まだ『嬉し泣き』というジャンルを理解できていないダイアナ、
大好きなママの泣きっぷりに本気泣きしてしまったがマーガレットは幸せを噛み締めた。

母一人子一人の田舎での平和な幸せは
ジョンが間接的に与えた貯蓄のもと支えられ続ける。

しかしダイアナが世話になっていた自宅学校をしていた老人が引退することを機に
娘の入学のことも考えてマーガレットはジョンの拠点ブリッジポートとは真逆の方角の都市サンセットバレーに住むようになる。

都市部は支出額が大きい。
ジョンからの贈り物を売った蓄えを含めて考えても、割のいい仕事を探さなければ生活はできるだけで
娘ダイアナの進学を考えると心もとない。
引っ越してきた時点で、まだダイアナの特異性に気づいていなかったマーガレットは
自分が中退しただけに、娘が希望したら大学は奨学金がとれなくても入学させてあげたいと焦っていた。

金銭の救いのありがたさを身を持ってしっていたマーガレットが出会ったのが、
スターライトショアでバーテンダーをしているという近所の住民。
雑談から職探しの話題になる。
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「娘さんに歌ってやってんの聞いたけど、あんた歌うまいよね。ちょっと素人っぽくないレベルで。歌手とかできるんじゃない?
 スターライトショアだと遠いだろうけどサンセットバレーでも結構募集多いよ」
「えっ~・・ダメダメ!歌手ってほら・・・ お客さんと寝なきゃいけないとか色々あるじゃない」
「はあぁッ!?アーンタ、なーに言ってんの?どこの売春クラブの話?!そんなのアタシ、聞いたことない!」

ひとりの母親といっても世間的にはまだ若いマーガレット、そして世界を知ってるといっても狭い階層で生きるジョン。
当たり前ながら世間には性接待せずとも純粋に歌を求められる店が溢れていて、
マーガレットは大笑いされた。
自分とジョンもまだまだ狭い世界しか知らないということにマーガレットも一緒に笑った。笑うしかなかった。

「そうかあ・・・調べてみようかな。ダイアナとも話し合って考えてみる!」
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娘ダイアナもひとりで留守番できるようになり、普通の昼間の仕事よりも報酬もかなりいいので、
マーガレットはキャバレーの歌手の仕事につくことに決めた。
これには一番のファンを自称する娘ダイアナがいちばん喜んだ。






こうしてマーガレット母子がささやかな幸せを育んでいた間のジョンの人生は色を失うどころではなかった。
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まずサウス家の双子の長男ウィリアムが自動車で事故死。
さらに次男アレクサンダーが『キャサリン』と正体を偽っていたエリンと共に船で事故死。(後に偽装と判明したが)
子供たちにすべてに先立たれるという暗闇の人生となり、妻ヒルダとはその悲しみを共有できる唯一の存在となった。

当然マーガレットもそれらのことはニュースで知っていて親になったけに余計に心を痛めてはいたものの、
娘ダイアナを一番に考えて、やはりサウス家には関わらせたくないと生活を続けていた。

そして、「サウス家断絶もやむなし、もはやどうでもいい」といったサウス家当主ジョンの代わりに奮起したのは
公爵家を存続させるために嫁入りしてきた彼の妻ヒルダ。
やはり養子しかないと考え、もしやと思ってジョンの過去の女を調べつくした末にダイアナの存在が判明して
誘拐未遂事件へと発展してしまった。
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”何故か”ヒルダの雇った人間たちは幸いにも失敗し、表沙汰にもならずダイアナは即日マーガレット宅へ帰ったらしい。

そんなヒルダの不穏な動きは当然ジョンの耳に即入り、
まさかの娘がいたという事実でマーガレットが姿を消した答えが十数年ぶりに分かった。
ジョンは静かに激昂する。

「ヒルダ、お前がそこまで愚かだったとは・・・あんなやり方で本当に養子に迎えられると思ったか」
「わたくしなりに考えと作戦もあったことです。そもそもヨークという女も金に困って、あんな店で歌手などしているのでしょう」
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もちろんマーガレットはサンセットバレーでも本当に”ただの歌手”だったが、
ジョンやヒルダの層にとっては歌手などという仕事は売春婦まがいの━━・・・・・ ジョンはそれ以上、考えたくもない。

妻ヒルダのこの暴走は明らかに度が過ぎている。
彼女の胸中も理解はしているため、これ以上は自分が引き受けるべきだとジョンは目を細めた。

「もういい。これ以上はお前がもう何もするな。あとはすべて私が処理させておく。関わらないほうがいい」
「いいえ。いいえ!わたくしがやります!うまくやれるという弁護士もいます!さっさと引き取ってしまえばいいじゃないの!」
「・・・・いい加減にしてくれないか、ヒルダ。そうして振舞える地位も金も、そもそも私あってだということを弁えたらどうだね」

とうとうそこまで言われてヒルダは立ち上がる。
腹の底にある、マーガレットへの強烈な嫉妬━━ジョンについてではなく、1人の母としてのものが痛々しく叫びとなる。

「そりゃあ、あなた方はいいでしょうね!元気な生きている子供がいるのですから!!
 ちょうどいいじゃないですか、わたくしを悪者にして、英雄気取りで、華々しく娘を引き取ると迎えにゆけばよろしいわ!」
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ジョンはすぐマーガレット母子を庇護してやりたいと使いを出した。
すると翌日に死んだはずの次男アレクサンダーが紫色の髪をしてサウス公爵家へひょっこり帰ってきて大騒ぎ・・・・
というわけである。
妻ヒルダも、たかが庶民の中学生とダイアナの交友関係調査まではさせておらず、
まさか実の息子が妾の娘の近くにいることを関知できていなかった。
ジョンはアレクサンダーが生きているのが嬉しく、彼に釘を刺されたこともありマーガレット母子への接触は留まる。

そして、この次男が何故戻ったのかの狙いが分かる頃には政治的有事を方々で起こしたあげく、
最後にはサウス家当主やら全てをジョンに押し付けて、
これまたなんと実は生きてた(アレックスが戻った時に同時に判明はしたが)『キャサリン』ことエリンと暮らすために
次男アレクサンダーことアレックスは悠々とサンセットバレーへ旅立ってしまった。






それから数年。




ダイアナがイギリスに留学中、マーガレットはタラ教授とも顔を合わせる機会があった。
シングルマザーながら娘を常識をもって育て上げた『よき母親』マーガレット・ヨーク。
年齢が近く、タラ教授とマーガレットが親しくなってくると、常に『よき母親』面しか見せないのが正直鼻についた。
にこにこ素敵なママ?なんかできすぎて、つまらんやつだと。

一度くらい腹割って話してみようと親友の顔と酒の力を大いに使ったら、
こんなマーガレットの半生を聞き出せたという次第である。
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「それで結局実はまだジョンが好きなのか?マーガレット」
「え~どうかなー・・・・考えるだけで昔みたいにドキドキーとかは全っ然ないしな~!
 ・・・ぶっちゃけ最初にアレックスに会ったときもねー、『あっ ジョンに似てるっ』とかも思いもしなかったしさ~・・・
 すごい好きではあったんだけどな~ ・・・・ 正直ニュース観るのも避けてきてたし~顔覚えてるようで忘れてるっていうか~」

妙に言い訳じみたことをマーガレットはグダグダ語る。
タラ教授は「でも今まで他の男と結婚しなかったのは、やはり、どいつもジョン・サウス以下ではあったか?」と指摘した。
するとタラ教授が見たことないようなマーガレットの顔が初めてのぞく。
母親ではない女の顔。

「ジョンみたいに、私がいないと生きていけないんだろうなあってくらいの男のひとってさ、・・・・見つけるのは難しいよね」
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マーガレットは自身がどれだけジョンの逃げ場であり、幸せを分け与える存在であったかを十二分に自覚している。

そして不倫によって彼の妻も子もないがしろにしつづけた罪も、他人が思うよりも実は深く苦しんで悔いてないのだ。
だって自分がいなくっても彼ら家族はもうバラバラだったからと。
愛人になる女には愛人になるうるだけの業の強さがやはりあって、
『よき母親』のなかにある、この側面はタラ教授の心をうねるような不思議な興奮を持たせた。

「ジョンのことは心配はしてるんだよねー・・・生きるのが随分ヘタなひとだから」

ねえ、ジョン。まだ私がいないとギターは弾けない?
そして悲しい顔を見せるマーガレットには愛されたまま一方的に相手を捨てた女の驕慢さがあるが
彼女自身にはそんな自覚は一切ないようだ。
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「生きてはいるのだからジョンは平気だろう」
「そういうことじゃないのー、あんたってば~。分からない?」と、酒の入ったマーガレットは大げさに溜め息をつく。

タラ教授が酒の席に任せて、角度を変えて何度問い直しても、
純粋に「本当はまだジョンのことが好き」と言えばよいのにマーガレットは最後までそれだけは認めなかった。
不倫だったし、昔の二十年近く昔の話だし、私がいなくなったとき彼は追いかけてきてくれなかったし、
ダイアナとアレックスが仲いいし、などと頭の悪いことをぐちぐちと言い並べてるばかり。
なんて滑稽なんだろうか。

「あー、こんなのダイアナにも言えないしさー、タラに初めて喋っちゃったー。あ~あ~」
「他の人間にこんな全てを言ったら、お前を見る目は相当は変わるだろうな。
 良いぞ、マーガレット。普段はいい母親面してるくせになかなかの悪女っぷりではないか」
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マーガレットはきょとんとした後、大笑いした。
特別ではない凡人の自分が彼と結ばれるはずはないと諦めることを知ってしまっている大人の女のマーガレット。
他の男のもとへ進むことも、ジョンのもとへ戻ることもできない。
それはなんともいじらしく、日陰の愛人稼業がやはり似合うとタラ教授は思わざるをえない。

恋愛対象は男女問わないタラ教授は、
皮肉にも他の男を忘れられずにいるマーガレットの姿に恋をした。
恋はいつも愚か者がするものだ。


→第19話





第17話 マーガレットⅢ AnimaⅥ

←第16話



若かりし日のヒルダ・サウスは美しい人だった。
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子供の頃からサウス公爵家への嫁入りが決まっていて、そのための教育に疑問を持ったこともない。
むしろ学内でも選りすぐりの美貌と気位であったので当然の責務だと自負してたほどだった。

しかし年頃になれば恋愛小説だので『自然に芽生える恋』へ憧れを抱くようになって、
彼女はセオリー通りに一番身近な距離の近い年頃の男に惹かれた。
それがヒルダの実家の庭師としてバイトに来ていた植物学専攻の男子学生である。

━━ちなみに許婚で後の夫であるジョン・サウスと会うことは当然あったが、あの通りの分かりにくすぎる男だったので
平均的な愛想がある庭師の男の方がずっと分かりやすい魅力があった。

そしてヒルダが庭師との間に芽生えていたプラトニックな愛情の絆を振り切り、義務を果たすべくジョン・サウスと婚姻した夜。
庭師との一件もよくよく知っていたジョンは新妻に言い放つ。
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「君に他にも男がいるのは知っているし、私は無理強いする気はない。私の”心配”も結構。 ・・・・いずれは必要になるがね」

彼なりに彼女への同情があってのこの発言、ヒルダは衝撃と恐怖と複雑な恥辱でいっぱいになった。
後のジョンは宣言の通りに新婚でも外で女遊びしている気配をうっすらと漂わせ、行き場のない新妻は庭師の男の下へ。

で、庭師と男女の仲に結局なったあとで「やはり不倫だから」などと悲劇的に破局し・・・
それからゆっくりと一旦はなかなかの甘い雰囲気の中でジョンとの距離を縮めアレックス達が産まれた。

しかし父親となったジョンは自身が大きな流れに逆らうつもりはないものの、
この公爵家の特異性から息子達は少しでも引き離してやりたい。
母親のヒルダは、双子を海外の寄宿学校になど手放したくないという、育児方針の決定的な違いでジョンとは険悪になり、
子供と引き離された彼女はまた孤独となり庭師のもとへ・・・・。

「支援会発足いただいてありがとうございます。これで研究室も閉じなくてすみました」
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「微力ながら、あなたの大切なものを守れてよかったです」
「・・・・僕は・・・。・・・・なにもできなくてすみません」 
「・・・そんなこと言わないでください」

要するに望まぬ結婚をした夫ジョンと同じく、ヒルダもまた流されるまま生きざるをえず初恋の夢を振り切れずにいるのだ。



そんなジョンとヒルダの不幸で泥沼な夫婦の事情を、子供のころから何となく察していたアレックスとウィリアム。
不幸中の幸いがあるとすれば、
ジョンが望んだとおりに不仲の両親から距離をおいて友人たちの中で楽しく育ってゆき、
ジョンが託した願いのとおり、それぞれ愛せる女性を見つけることもできた。


━━しかし、やはりセオリー通り。
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あまり好いてはいないはずながら、自分たちの母親にどこか似ている女性を選んだサウス家の双子たちである。








「・・・・すごい部屋だな~。わかっては、いたけど」

マーガレットの住んでいた街にジョン・サウス公爵がやってきてから10日後、ジョンの外遊に合わせた外国での再会。
指定された部屋の入り口には黒服の男がやはりおり、非常に気まずい思いをしながら入った。
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「ようこそ、ヨーク様。滞在中にお世話をさせていただきます。お茶でもなんでも、お言いつけを」
「あっ、はい!」

そういえば前もそうだったが、
ホテルなのに家来?執事?っぽいひとがいる!と、正式な滞在者になったマーガレットは大慌て。
とはいえ自分の存在は極秘じゃないのだろうと観光はするつもりないなど滞在予定を大雑把に伝えた。

そして親切な執事っぽい人物に勧められるまま、室内を見て回る。
一角にいかにも買いたて!といった某有名ブランドの箱が山盛りになっていて、
それらが「奥さんと、家族へのお土産なんだろうな」と考え至ったところで
マーガレットは自分のしていることの後ろめたさが募った。
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あと同時に。
確かにちょっと分かりにくいところがあるジョンだけれど、
自分が彼を待っている部屋に妻宛のものを分かりやすく置いておくなんて流石に無神経だよなという複雑ないらつきも。

その複雑な心境のまま、
部屋に篭れという指示もないのでマーガレットは観光未満に海外の街を散歩して、
豪奢な部屋でひとりで夕食を食べ終わったあたりで、もう金持ちの生活に飽きた。

「・・・暇だなー・・・」
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大学の課題を念のため持ってきておいて正解だった。
慰めは空気のように寄り添ってくれる、執事っぽい彼だけ。

「・・・あのう、そちらはお帰りはいつごろなんでしょうか?サウス卿をお待ちになりますか?」
「どうぞご指示ください。
 このままマーガレット様のお手伝いもいたしますし、おひとりで寛がれたいとのことでしたら失礼いたします」

・・・もしかして私が帰れって言べき?いや、でも私がこの部屋の借りてるわけじゃないし・・・、と
一般人のマーガレットは対応の仕方がよく分からないので無難に濁してマーガレットは引き下がった。
(残業にさせてたら、ごめんなさい!と心で謝りながら)ジョンがどうにかしてくれるだろう。

数人を引き連れた賑やかさを伴って重くドアが開いて、ぱっとマーガレットは顔を輝かせる。

「おかえりなさいっ」
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体面もなく熱烈歓迎とばかりにマーガレットが駆け寄ると、ジョンは眩しそうに少しだけ目を細める。
引き連れていた黒服の人間たちはホテルの居室の玄関ホールを境界線に入っては来ていない。
ジョンは慣れた動きで執事にジャケットを脱がせて引き渡し、さらにコーヒーを淹れさせたあとで彼にやっと帰宅の命を出した。

「待たせて悪かったね・・・来てくれてよかった」
「も、もちろん来ます!でも、こういうところって何もすることがないもんですね・・・
 さっきの執事の人もいつまでいてもらうべきか分からないし、もう普通に課題やっちゃってました」
「課題?こちらに呼んで悪かったかな」

勉学に支障をださないように、と気にしていたジョンは素直に顔を曇らせる。

「いえ、これは来月まで時間があるので大丈夫です。そういうのに限って私ギリギリまでやらないので」
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「・・・。着替えてはないんだね。・・・気に入らなかったかな」
「? はい?」
「あちらの部屋のだよ」
「はい。私の着替えは執事のひとがそっちのタンスにしまっちゃいましたけど何で知ってるんです?
 あ、そっか、そういう指示してくれてたんでしょうか?」

マーガレットが話してるのは寝室のことだろう。
話が噛み合ってない具合にジョンは例のプレゼントの山がある部屋へ、微妙な表情の彼女を連れてゆく。

「君に買っておいた、これのことなんだが」
「あっ? ・・・ああ~っ!奥さんへのお土産すごい買ったんだと思ってた!・・・あっ!うっわっ、すいませんっ」
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本音をぽろっと盛大に漏らし、自分への贈り物だったかとマーガレットは赤面した。
マーガレット宛のカードも置いておいたのだが他人宛のプレゼントだと思って覗き見すらしなかったのだろうと、
彼女の純朴さと、誤解を招いた自分のまずさに「妻宛のものはいつもスタッフに適当に任せてある」とジョンは呟くしかない。

「じゃ、これはあなたが選んでくれたんですか?こんなに?お忙しいのに?」
「・・・一つの店でばかり買ってしまってすまない」

庶民で学生のマーガレットには雲の上の高級ブランドの山、さらに妻へのものは他人任せという言葉は
簡単に彼女の心を浮上させた。
そしてすぐに彼女は叱られる子供のようにうなだれて、「・・・あの、実は私。やきもち妬いてしまってました。すみません」と、
ジョンにもとっくに分かりきっていたことだったが隠さず素直に謝る。
その可憐で痛々しいようすにジョンは彼女を強く引き寄せた。
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「やはり君が居なければギターは弾かなかったよ、マーガレット。君が必要だ」

目を大きく丸めたあと
、マーガレットはそれはそれは可憐に恥ずかしそうに下唇をかみながら微笑んだ。

そのあとはマーガレットはクリスマスを迎えた子供のようにプレゼントの開封を楽しんだ。
ワンピースにセーター、コート、帽子、スカーフにバッグ・・・
帰ってきたときのジョンは着替えすら期待していたようだったのでもちろん着替えすらした。

こういう高価な品々が欲しいわけじゃなかったが、
彼が愛情表現として時間と手間を割いてくれたなら素直に喜ぶくらいがきっといいと、大人ぶることすらしない。
本心のまま「でも私こういうこと目当てじゃないですからね!」と笑顔を咲かせる。
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「そのようすでは説得力は全くないがね」と、他人なら嫌味にとられかねないトーンのジョンの冗談に
彼女の笑い声が響いた。
自分のすることを好きな女性がこうしてまっすぐ受け止め、楽しんでくれるという幸せにジョンはすべてが解れてゆく。
飾らない彼女のこの空気が好きだと、彼はさらにマーガレットに静かに惹かれた。






家族で目立つ存在でもなく、
何か特別な才能があるわけでもなく、勉強が出来るわけでもない平凡なマーガレット。
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高級ブランドとスイートルームに包まれ、
国内随一の大貴族の当主であり、議員としても存在感が強いジョン・サウスに自分を乞われていることに陶酔する 。

とはいえ。
若い18歳の女性にはこの再会までの10日という体感時間はとても長く・・・
そのせいでジョンはあの最初の頃よりもう冷めてしまっているかもしれないな。
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自分の恋心が傷つきすぎないように、そう予防線として考え至っていた。

だって特別な何かをあげられるほど、
自分は特別じゃない。
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クラスでも物語でも、ちょっと脇役になってしまう程度の私に対する彼の恋なんて、
きっとすぐ色あせて恋遊びで終わってしまうかもしれないんだから、と。


しかし30代になったジョンからすれば、
既に余生だと割り切っているジョンには10日なんて早いもの。
輝かしい時間を知ったあとの灰色のいつもの日常は、マーガレットへの思慕を凄烈に深めてた。

寝室に彼女を連れ込んだもののベッドに急がず、酒も煙草も介入させず。
ひそやかな笑いを含む程度に静かに話をしては思い出したようにキスをする。
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今までの幾多の遊びの女たちへと違って、定型文の褒め言葉をジョンはひとつも使わない。
夢ではなく現実だと確かめるように指先と唇で、首から上だけを品性をもちつつ撫でて愛でることを繰り返した。
反復するほどにマーガレットが身を捩じらせる動きが大きくなっても、性急にならないようにと動かないまま時を過ごす。

これが恋ということか。
欲しいにもかかわらず、本当にいいんだろうかと性欲を押し付けることに躊躇して
そのかわりに唇同士を前戯してるも同然に重ね続け、高校生のように一線だけ守ってる。

唇がひりつき始めるくらいの時間を重ねたころに、
とうとうマーガレットが悩ましげで少しだけ鼻を鳴らして腰掛けのソファにくったり倒れこんだ。
子供でもあるまいし煽るだけ煽られて辛い。
つらいの、と目で語るマーガレットにジョンは被さり、甘い赤い髪の中で恍惚として潤んでる空色の瞳を見下ろす。
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「そろそろセックスしたいんだがいいかい」
「!?ふへェーっ!!?すんごいことおっしゃいますねっ!でもっ、そうですねっ・・・よ、よ、・・・よろこんで・・・

一瞬のち2人は同時に小さく笑いを噴き出した。

「女性を口説くのは不得意なんだよ。・・・好きな女性には、もう。一体どう言うべきなのか皆目わからない」
「はい。もう十分です」

再度噴出したマーガレットの笑い声でムードはないが、そこは紛れもなく愛情に満ちている。








「・・・・うっそみたい・・・・」

数十分寝ては再戦、飲んで食べて寝ては再戦を繰り返して、時間感覚もないまま窓の外の色で朝を知る。
ジョンもさすがに体力消耗で眠り心地ながら逃さないかのように彼女にまだ重なる。

「ジョン、寝なくてだいじょうぶだった・・・?今日もお仕事、でしょ・・・」
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マーガレットの口調も布以外のものもすべて脱ぎ捨てた距離でジョンに投げかけられ、足で彼を軽くたたく。
対してジョンはといえば低く含み笑いしながらうつ伏せて、起きようとする気配はない。

「・・・今日は土曜で公務はない。どっかのクリケットだかポロだかに確か誘われてたが公式行事でもないし行く必要はない」
「ダメ」
「必要ない」
「ダーメー」
「・・・・私は行かないよ」

もう知らない、とマーガレットがうつ伏せるとジョンは彼女の温かみを逃がさないとばかりにすぐ重なる。
マーガレットは昨夜贈られたプレゼントを横目で見ながら、

「ね。プレゼント、本当にありがとう。嬉しかったよ。でももう最後ね。好きだから会いに来てるのに、ああいうこと目当てみたい」
「・・・。・・・・わかったよ。そうしよう」
「それに、あーんな高いもの、あーんなに沢山。毎回持って帰ったら愛人やってるー!って、皆にわかっちゃう」
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ゆくゆくは娘ダイアナにも引き継がれる鋭い物言いで、でもマーガレットは笑みをふくめた柔らかい声でジョンを諌めた。
愛人、とはっきり自称されたジョンが背後で切なそうに肩口でゆっくり息を吐く。
マーガレットは愛人であるという紛れもない事実をマーガレット自身に戯言で触れられただけで罪悪感で苦しい。
よりによって一番愛しい女性を二番手に押し下げて虐げてるのだ。

「・・・・すまない」

ジョンは他に言葉が見つからない。
外の世界では、いや家族の前ですら堅く閉ざしているジョンの奥深く。
本来はきっとナイーブで、そしてまだ青年のままの部分がこうやって傷つく姿を見て、
マーガレットは自分がどれだけ深く彼の心に食い込んでいるかがわかった。

ホントに遊びじゃないんだね、
浮気相手だからなんて私から割り切ってごめんね。

「ちがう。ごめん。もう言わない。ごめんね」
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一緒に迷い込んだ場所から、もう戻れない。







マーガレットはこのようにジョンの公務にひっそり寄り添うだけでなく、
眠るように出番を待って放置されてる国内のサウス公爵家の領地へも秘密裏に招かれた。
s3-17[8]
そこにも当然の使用人達はいるはずなのに気配はなく、まるで妖精のようにいつも完璧なものが提供された。

大胆不適な行動だとは分かりつつも、マーガレットは豪奢なホテルや煌びやかな外遊より
こちらのほうがとてもすきだった。
どこも地平線の向こうまでサウス公爵家の領地で、黒服の男たちも視界にすらいない。
自由になった気がする箱庭に、相変わらずジョンの素人ギターの音色が平和にどこまでも響く。

「ほら、また中指触ってるよー」
「横から色々と言うからだよ」
「ちーがーうよー。ほら。だ、だだ、だー。こらっ!中指はどうしたのっ!ちゃんとやるっ」
s3-17[37]
「マーガレット?」

スパルタぶったマーガレットの物言いにジョンが手を止めると、「いじめすぎ?」と彼女が笑ってジョンも微かに口角だけあげる。
すぐまえの夏休みの時期にはジョンの息子の双子達も家に戻っていたが、
彼らも彼らなりに国外の友人宅に遊びに行ったりという年齢になっていて、ジョンとは国内外の方々で日々を過ごした。
いまは秋のさかり。高原はすこし涼しすぎてマーガレットは彼の体温に寄り添う。

「この辺は花が多いね」
「昔はここでも狐狩りをよくやっていたよ。私の代で止めにしたがね」
「狐っておいしい?シチューとかにするの?私シチュー好きなんだ」
「・・・食べはしないよ。今日はシチューを作らせようか」
「えっ、狐食べないんだ!?でもダメ~。私ね、○○っていうところの缶詰のシチューが好きなんだ」
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「缶詰・・・?非常用のものをいつも食べるのかい?」

育ちも階級も年齢さえ違うのに、ふたりはその差異を不思議と満喫していた。
どうでもいい話題をいつもいつも楽しみ、すぐに飽きられるかという杞憂は消えて、この関係は次にくる冬で1年となろうとしていた。
言わない・・・というよりも言えないだけで、もはやジョンから寄せられるものが愛であると知っていたし、
マーガレットも同じくらいの愛を抱いていた。

「マーガレット、ピアス似合っているよ」
「要らないって昔ちゃんと言ったのに、いっつも持って来るよね」
「君が気にしていたように沢山でもないし、財布に入るサイズで目立ちもしないからいいだろう。現にいまも髪で目立ってはいない」
「~~~~そういう政治家の屁理屈って、きらいー」

「これでも何かの助けになるよ、マーガレット」
「色々あればまあ、コーディネートには困らないけどねー。ジョンてば、どうでもいいことを難しく言うよね。理系オタクさん!」
s3-17[36]
このときには実験物理学を専攻していたというジョンが、その方面で頭脳明晰だったらしいことは知っていたが
マーガレットはからかって笑って流し、ジョンも黙ったままギターを弾き続けた。







→第18話




第16話 マーガレットⅡ AnimaⅤ

←第15話



s3-14[59]
ジョンが自分の夫婦生活の現実を明かしたあとのマーガレットは明るくいることに努めた。
名曲”スタンド・バイ・ミー”の有名なメロディーを「だ、だ、だだ、だーだ」と、拙い彼のギターに合わせて何度も口ずさむ。

しかし彼の小休止のたびに訪れる沈黙に、先程の彼ら夫婦の話題への気まずさがジワジワと沸いてきた。
なにか気の利いたことを言ったほうがいいんだろうか、と。

するとジョンのほうから「何かな、ソワソワして。訊きたいことが?」と切り出されてしまった。
彼女はうにゃうにゃと濁そうとするも人の上に立ち慣れている柔和さでジョンはさらに促した。

「あのー・・・こんなこと、訊いてしまうのは本当に大変恐れ多いんですけれど」
「今更だが。どうぞ」
「お子さんがいらっしゃいますけれど。さっきのお話で。あの、奥様と・・・別れようとか、そういうのは、ないんですか」
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するとジョンは見事なストロークで、じゃらんとギターを掻き鳴らし、それが上手かったためマーガレットは驚く。
ジョンは「これだけはよく練習したんでね。それっぽいだろう」と、
初対面の昨夜には想像もできなかったような、いたずらっぽい目で微笑んでみせる不意打ちに心臓が変な動きをしてしまう。

「君は歴史の勉強はちゃんとしてきたかな、公爵家の起こりは?」
「そりゃあ上からサウス家、ベンジャミン家、ベイリー家といえば小学生で覚えさせられますから勿論知っていますよ。
 初代の女王様の弟妹が分家となって今の三大公爵家になったと習いました」

王家に跡取りが居ない場合は公爵家から女性優位で王位を継承してゆくというのは、この国の常識。
とはいえ、この当時の時点では女児がいないサウス公爵家には関係ない。
s3-15[1]
ジョンは「あまり知られていないが」と手首をぐるりとストレッチさせながら、

「公爵家というのは王室のベンチ控えみたいなもので、
 既に子がある結婚の場合は離婚をするには当代の女王陛下の許可調印が必要になる」
「なるほど。・・・・えっ」
「そう。こんな法律が残ったまま女王陛下はあの痛ましい事件でお隠れになってしまったんだよ。
 そして現在の王位継承者は即位を拒んでいる。・・・そうなると我々夫婦は一体今どうするべきか分かるかい?」

目の前の議員でもあるジョンが答えを持ってないのなら、一般市民で学生のマーガレットが答えられるわけがない。
彼女が沈黙しているなか彼は続ける。

「現王位継承者に即位するよう説得し続け現行法に則るべきだの、新法はやはり必要だの方々でごたついていてね。
 このあたりの混乱は我が家の夫婦問題とは別にニュースでも時折やるが市井の人々の生活には関係がないから
 議会で話し合われる優先順位も低い。みんな色々大変そうだ」
s3-15[4]
当事者の三大公爵家の当主であるにもかかわらず、このジョンの諦観たっぷりの他人事のような口ぶり。
マーガレットは難しい政治の見識などまったくないが、目の前の1人の人間の夫婦事情に絡みすぎていることを知り、
適当な相槌を打つしかなかった。

そうして時間が経過するとギターを奏でる彼の指は限界を迎え「今夜はここまでだな」と切り上げる。

「マーガレット。明日は店に寄らずに直接こちらへ来なさい。こちらから店には言っておこう」
「あっ、はい!お気遣いありがとうございます。正直今夜は見張られて送迎されるのも恐かったので本当に助かります」

ほーっと大きな安堵の溜息をつく彼女に、ジョンは微笑を浮かべる。
わあ、笑った!笑った!と、非常に珍しいものを見れているのがわかるだけでマーガレットの心は舞い上がる。

「あっ・・・あ・・・でもあの!すみません・・・着るもの、またたぶんコレになっちゃうと思うんです・・・
 私こんなホテルに着てこれるような豪華なドレスとか自分で持ってなんかなくて。いつもはお店で借りてて・・・」

「寒いのにドレスなど着る必要もないだろう。大学に行っているそのままで構わないから温かい格好で来るように」
「はいっ」
s3-15[5]
そばかすを美しく輝かせてマーガレットは大きく笑い返した。





その帰り道、マーガレットは夜遅くまで開放されている大学図書館にレポートの仕上げのために寄った。
あんなサウス公爵家の夫婦の内情を知ってしまっては、やらしい対岸の火事視で新聞も見てしまう。
s3-15[31]
”公爵夫人様がブリッジポートの植物園で支援会”という記事・・・・吊り目がちの美人が写っている。

「ん~~~~~~~~・・・・・・・」

この美人が、ジョン・サウス公爵の妻であり彼らの双子(アレックス、そしてウィリアム)の母か。
今のジョンは外で女を求めてるようだし絶対セックスレスだろう。かといって離婚もできない、と。

(あーあ、なんだかな~)

下世話な想像をしつつ、モヤモヤイライラするような心地のまま記事を読んでいく。
そこには植物園の主幹スタッフでもある若き植物学の研究者が、
昔に公爵夫人の実家で庭師の一人として働いていた縁でこの度の支援会発足となった書かれていた。

一見微笑ましいエピソードに息が止まる。
ジョンが言うには、自分たちの結婚を急がされたのは彼女が実家で庭師に恋をしたからだと彼は語っていた。
で、この新聞記事と合わせて想像するに・・・彼の妻は今でもその庭師とは切れてはないのだ!
s3-15[32]
(なにそれ!)

ただの新聞なのに下品なポルノを見てしまったかのような気持ちになって厭うように新聞を放り投げる。
話を聞かされただけのマーガレットでも連想するのだからジョンだって当然・・・
いや思い起こせば彼の様子からいって確実に彼の妻は元庭師の男とは続いてるに違いない。
・・・セックスが絡んでるか否かなど分からないし、知りたくもないが。

「素敵な恋を」なんて、彼は自分にどんな気持ちで言ったのだろう。
もう30も過ぎて女の接待を受けているのにジョンは恋などしたことないと語っていた。

妻がいまだに他の男と切れず、公務で妻も連れずに国内外を飛びまわり、彼の子供たちも確か他国の学校だとか。
高貴な家の婚姻なんて庶民の自分には分かるわけないが、これは誰が何が悪いんだろうか。
でも不幸だ。間違いなく。
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彼の妻ヒルダ・サウスも同情されるべき立場なのかもしれないが直接知り合いでもないので、
マーガレットは完全にジョンだけが心を寄せる。
無表情な彼がギターに向かい合っていたときだけ見せていた和らいだ目の輝きを思い出し、心臓が縛られるような苦しさが沸いた。

冬の冷えが一層ひどくなってきた。






彼らが知り合って3日目。
ジョンは公務中でも、つい油断すると左の指先を気にする仕草が増えてしまっていた。

しかし昼過ぎから重たそうな雪が降り始めた。
既にマーガレットを派遣してきたナイトクラブには彼女の送迎はこちらですると言い含めたし、この天気で彼女は来ないだろう。
そもそもジョンさえ店側にうまく言ってやりさえすれば彼女が本当にこちらに来る理由はない。
ところがマーガレットはギターを抱えてやってきた。
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いじらしいという表現ぴったりに「こんばんは!仰って頂いたとおりに普段着ですみません!」と鼻を赤くしながら。

「・・・。この大雪に君は律儀なものだね」
「えっ?!ダメでした?あの、あの、でも、お約束していたので今日もやるかなって」
「入って暖まりなさい」
「・・はい・・・・」

ジョンは皮肉ともとられかねないほどの直球な言葉を述べるだけ述べて、相手が戸惑っていようが説明をしない。
感情表現が極めて下手すぎるジョンのこういったところは他人に壁を感じさせ、
特に須らく人当たりがよく、感受性が鋭い彼の息子アレックスにすら誤解を与えて続けている彼の性質のひとつである。

マーガレットはわかりやすくしょんぼりした顔を見せた。

「・・・あの、申し訳ありません。私」
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「座りなさい」

ジョンが暖炉へ導いてタオルを渡してやると、帰ると申し出ようとしていたマーガレットは表情を和らげて礼を言えた。
幸い、彼女には古い時代の無口な祖父がいたので彼の難しい性質にピンときたのだ。

表情が薄く、基本難しい顔ばかりしているようなところも祖父にそっくり。
けれど祖父がギターを弾くときにマーガレットが一緒に歌うと不思議と絆を感じ、祖父の愛も素直に伝わってくるようで
マーガレットは祖父が好きだった。対して祖父もまたそうだったらしく彼女にだけ彼のギターを与えてくれた。

「あ、ギター出します。お弾きなりますよね?」
「君さえよければ自分でやろう」
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「もちろん!どうぞ」

ギターケースから、サウス卿がいそいそとギターを取り出している!
思っていた以上にジョンが楽しみにしていたようなので、ついマーガレットは含み笑い。

「いまの笑いは?マーガレット」
「だって、すごく楽しみにしてらっしゃるようなので」

ほぼ表情が動かないながら、「そうだな。今日も公務中につい動かしてしまったりしたよ」と、ジョンが左指を動かすので
今度こそマーガレットははっきりと笑った。
ジョンがケースを開けると、ギターは濡れ防止のビニールに包まれている。
もはや何のメリットもないのに、こんな準備をして自分のため夜の雪を踏みしめてやってきた彼女のいじらしさが
改めて静かにジョンの胸に迫った。
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「そんなにお好きなら、ご自分のを買い直してたらよろしいかもしれませんね。もう止める方もいらっしゃらないのでしょう?」
「・・・どうかな。ひとりになれば、また私は弾かなくなる気がしているよ」

言ってみて気付く。自分は”彼女と”、ギターを弾ける時間を楽しみにしているようだと。
ごく普通の・・・可憐な学生で、一応彼女の弱みも掴んでいることも手伝い、
他の人間よりは壁を下げて接してもいい状況となっている現状が自分は心地いいらしい。
ジョンはらしくない自分の変化にすこし、気付いた。

一方でマーガレットはふうん、と頷きつつ、昨日と同じようにメロディーを彼のギターに合わせて口ずさむ。
とはいっても本物の講師でもないので指導らしきものは殆どしない。
単純なコードの繰り返しということもあり、だいぶメロディーがそれらしく続けられるようになってきた。
しばらくの時間が経ってから、ふと先程の会話にまたマーガレットが戻す。

「本当にひとりじゃ弾かなくなりそうですか?」
「そうだよ。君は自分が思っている以上にいい先生だよ。君と弾いているから楽しいんだと思うね」
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手元のギターを奏でることに気を取られ、そしてマーガレットがあまりに自然に尋ねてくるので思わぬジョンの本音が出た。
内容も内容だったのでマーガレットは小さく息を吸って目を丸め、彼女の白い肌は赤くなってゆく。

「君は大学でも人気者だろうな、想像が付く」
「え、私、別に中心人物とかじゃないです!勉強もスポーツも特別では・・・普通に友達とガヤガヤやってるけで・・・」
「いいことだ。派手な目立つ者には敵も多いものだよ」
「えーそうですか?でも、そんなこと言ったら、━━━━」

”すごく目立つ”公爵さま”は敵だらけになっちゃうじゃなないですか”、と
ジョンの中のよい部分ばかり見ていたマーガレットは大きく笑い飛ばそうとしてしまったが、
立場と職業柄、実は本当に敵が多いのかもしれないと思いついてしまい止まってしまった。

マーガレットにとっては気まずい沈黙。
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対してジョンも彼女が言わんとしてしまった軽口と、彼女の居心地悪さの察しがついていたので流石に続きは促さない。
ただ助け舟のつもりで少しだけ話題を方向転換してやる。

「私もね。自分の立場は理解してるが、実際の人となりは凡庸だという自覚はあるんだよ」
「えっ。そんなあ・・・」

マーガレットが反射的に否定してやりたくとも、そもそもジョンの人となりを知っているわけじゃない。
まだ共に時間を過ごすようになって3回目の夜だ。

「何か飲もう。君は酒はやめておくかい?」
「ごっ、・・・ご相伴します!でも弱めのでお願いしますっ」

するとジョンはごくごく微かに口角を上げるとギターを置いて、冷蔵庫からビールを持ってきた。
それはこの部屋には似つかわしくない味も薄くアルコールも軽い安い銘柄━━学生のマーガレットのよく飲む銘柄で驚く。
彼は「こいつは学生の頃から好きでね」とわざわざ用意させたらしいことを匂わせた。
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高級暖炉だが火を囲んで床に座り、ギター片手に缶ビール、なんて。まんま学生の飲み会だ。
初日の”セックスを前にしての女のお出迎え”とは大違いの気安さで、ジョンは缶のまま乱暴な乾杯をして2人は語らいだす。
マーガレットの大学であった笑い話を起点に話題はジョンの大学時代の話へ。

「私より少し上の世代にヒッピーが流行ったものでね。それで私は父親にギターを取り上げられたんだが、
 大学の専攻だけは我がままは通したものだよ。といっても卒業後の進路にはこの通り、全く影響がなかったんだが」
「! へえ、そうなんですか?大学では何を専攻なさってたんですか?私は文化人類学です。
 今は近現代の都市部と地方部のファッションの変遷を当時のファッション雑誌の刊行内容に合わせて分析してます」
「私は実験物理学だよ」
「?」
「実験物理学」
「?」
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マーガレットにはサッパリで、頭の中の?マークを誤魔化すように彼女はビールをぐいぐい飲み進み、
その間ジョンに実験物理学において自分がどういったことをしていたかをざっくりと説明してもらって、何とな~くは理解した。

「えっと、つまり発表された他人の論文の内容の実験と同じ事をしてたんですか?」
「そう。再現性の確認のためにね」
「? 誰かがもう実験して結果が出たから論文が出たんじゃないんですか?」
「それが不変の結果だと誰かが検証しなくては意味がないだろう」
「? ? 実験物理学はいつも他人の研究をなぞるんですか?」

これはマーガレット、完全に口が滑った。
初日のように恐ろしい怒りをもらうかと思いきや、ジョンが発したのは「は!」というあからさまな嘲りの発声ののち、

「そっちこそ。ファッション雑誌を見るのにわざわざ大学が必要かい?」
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「! ちょっっとっ!」

彼女が叫んだ拍子に安ビールの缶は簡単に凹み、2人が同時に目を丸めて同時に笑いを噴出した。
そしてマーガレットはわざとらしい納得顔で頷く。

「なるほどなるほど。つまりは、サウス卿は典型的な理系オタッキーなんですね」
「そちらも典型的な文系バ━━ ・・・・ 典型的な文系じゃないかね」
「今!絶対!バカって言いましたよね!」
「言っていない」
「うっそぉ、言いましたよ、殆どおっしゃってましたよぉ~!」

口ぶりとは逆に、マーガレットはケタケタと学生同士の飲み会のような馬鹿笑いまで・・・早くも酒が回ったらしい。
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ジョンは無表情ながら胸中ででおおいに呆れ、食事は摂ったのかと尋ねると
彼女からは「途中で店に入るつもりが雪がひどくで時間がなくなって何も食べていない」と返ってきた。

一転してジョンは顔を引き締めると、外で護衛をしている人物とは別の種類の・・・ 落ち着いた執事のような男性に声をかけ、
また話が盛り上がった頃に軽食が運ばれた。
マーガレットは恐縮しながら、安い学食とは大違いの、凝ったパンで出来たサンドイッチを微笑んだまま齧った。

「あの・・・・あの。お優しいですね、サウス卿。本当に色々すみません」
「謝る必要はない。君は私のゲストだ」
「すごい。私、公爵様のゲストなんですねー。ご馳走様です」

うふふふと赤い髪を揺らしながら、白い肌を染めたマーガレットが気持ちよさそうに1人笑う。
つられてジョンも微かに笑みを浮かべた。

マーガレットが食べ終えて、再びちびちびとビールを飲んでいるうちに
ジョンのギターから出るものは、ちゃんとした音色になってゆく。
食事が落ち着いたタイミングでマーガレットは初めて歌詞をつけて歌いだした。
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単純なコードの繰り返しの曲であっただけに、
歌声がつくだけで途端に豊かな音楽として花開く。
不安定なジョンのギターに上手く上手く合わせてくれている、伸びやかな声。


ジョンももう手元をじっと見る必要もないほど、単純なコードの演奏を繰り返しながら
マーガレットの顔を初めてのように見つめた。
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もしも彼女と同じ大学であったら、
同じ歳であったら。

自分は講義の合間、大学のキャンパスの芝生の上で
こんな素人ギターで遊びながら彼女とどれだけ彩り豊かな時間を過ごせたのだろうかなどと
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眠りにも落ちないうちから、そんな夢を見た。

曲を2回くらい繰り返し、
マーガレットが笑顔と指先で合図してきたタイミングで
流石にジョンも指先の痛みが辛かったので例の素人ながら見事なストロークで演奏のフィナーレを迎える。
若い日の夢にまで見たとおりに自らギターを弾いたのだ。
ちゃんとした曲を。
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指先の痛みすら誇らしいとジョンは思えた。

「━━ すごいっ!すごいすごい!弾けた弾けた!すごーい!やりましたね、指痛かったですよね、でも本当にすごかったです!」
「君が良い曲を選んでくれたおかげだよ。プロの歌が入ると、途端に私の演奏でもそれなりに聴こえる気がするものだ」

プロ、と言ってもらえた!しかも公爵という貴族のひとに!
自分はただのバイトのコーラスガールで、しかも明日にはクラブも辞めようというのに。

「私みたいなのにプロだなんて、ありがとうございます。すごく嬉しい退職金もらっちゃいました」
「事実だよ。私は自分の腕前くらいは分かっているつもりだ」
「・・・・・・わっ、私こそ・・・。 はは、クラブで、歌って、頑張ってましたけど。自分にすごい特別な才能が、ないのは・・・
 知ってるんです」

笑いながら言ったはずのマーガレット、声がずっと震えてしまった。
自分で言って自分で傷ついてしまう。
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対してジョンとしても自覚はあったのかと黙する。
彼のギターに合わせられた先程の彼女の歌声は巧いがそれだけだ。
例えば路上ライブをして”巧いな”と立ち止まってもらえても曲が終わらないうちに、何故か飽きられ去られてしまうだろう。
しかしジョンの鈍い表情筋は、そんなの残酷な感想は幸い表には出さない。

「クラブで他の・・・ソロやってる人の歌って、やっぱりすごいんですよね。売れるために色々あるのかもしれないですけど、
 ・・・・・私じゃ、あんな大きいクラブでステージ持たせてもらえないだろうなって、分かってるんです。
 だから、あの。今回諦めるきっかけもらって良かったと思ってますよ、・・・なんて」

酒のせいで勝手に盛り上がった感情のままに本心を吐露して勢いが止まらない。
酔いで心臓が早い流れのまま、マーガレットは半泣きで続ける。

「あの。わたし、あなたがすき、みたいなんです」
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「・・・・・・」
「・・・酔ってるから。言っちゃいました・・・でも、分かってるんです。どうしようもないって。私なんか」

ジョンの顔は動かない。
1秒、2秒、・・・・5秒経って、
なんとマーガレットから彼に跨るように近づいて目を閉じて唇を重ねた。
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といっても相手が応えなくてもいいように深くではないが重ねるだけ、
けれど気持ちをこめて長く、長く・・・。

マーガレットが離れる気配がして、
共に目を閉じてジョンが彼女を引き寄せてしまおうと手を伸ばしかけたよりも早く彼女は離れてしまう。
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目を閉じていたために彼の挙動にマーガレットは気付かず、
声を震わせながら小声で呟く。
できるだけ軽く、嘘の笑顔で。

「・・・・今日は、私でどうでしょう?」
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手の届かない地位の相手だ。そして彼がこの都市を明日出てしまえば接点などないのだから、二度と会えない。
初めて会った夜にジョンは誰でもいい女を彼は抱こうとしていたのだから、
”誰でもよいなら今夜は私でどうぞ”とマーガレットは申し出たのだった。
そうやって安売りをしないと、庶民で学生の自分など彼には近づけない。

ジョンは恥ずかしさで泣きそうになっているマーガレットの震える睫毛に見惚れる。

初日に好きな人とでないと出来ないなどと彼女は堂々と宣言していただけに、
ジョンとしては彼女にそんな行動を取らせている自分が情けない。

いい歳をして立場もあり、妻も子までもあるくせに、
押し殺し続けて学生の頃のまま、成長させられていられなかったジョンの内側の部分は御し難いほどに彼女に惹かれている。
だからこそ、

「できない」
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そんな安い扱いを彼女にさせるわけにいかないし、したくもない。

しかし説明が足りなすぎる彼の返答はマーガレットの心を殺すには十分な威力で、
居たたまれなさにマーガレットはぼろぼろと涙を零しながらコートだけ引っつかんで部屋を駆け出た。

彼女のギターと共に1人部屋に取り残され、この三夜の彼女との逢瀬を思い起こす。

サウス公爵家の嫡男として生まれてから、
幾度もこんなことはあっただろうと己の心を律するが既にジョンの頭は彼女を追いかけることを考えている。
けれど既に彼女はもうホテルのロビーか、もしくはもう大雪の中を飛び出してしまっているだろう。
s3-15[29]
そこには衆人環視の目が無数にある。
公爵であるジョン・サウスは彼女を追いかけて引き止めることすら出来ない現実。

育ちが良く感情の起伏も乏しかったジョンは、そのとき生まれて初めて憤りを物にぶつけて灰皿を投げ飛ばした。





そして翌、4日目。この都市を訪問してきたジョンが帰る日で、マーガレットがナイトクラブ在籍の最終日。
惨めな心のマーガレットは「もうジョンに会いたくない」と考えたところで、
そういえば彼がクラブに上手く言ったのであればもう本当に彼のところに行く必要はないとやっと気付けてホッとしていた。
でも祖父の形見のギターを置いてきたことは大後悔している。

夕方になって家に帰る途中、ナイトクラブの強面の用心棒に攫われるかのように店に連れて行かれた。
監禁でもされるのかと思いきや、店の出入り口には見覚えのある黒服の人間たち。
促された楽屋で副支配人に相当豪華なドレスを投げられ、この異常な対応にまさかという思いは、
ガランとした客席の中の重圧感ある存在を見て確信に変わった。
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「・・・・・・」
「・・・・・・」

気まずいマーガレットだったが慌てて丁寧なお辞儀をすると、ジョンからは瞬きでだけで返事が返ってくる。
そんな互いの動きの大きさが、そのまま立場の差を示していた。

どうして呼びつけられたのか素直に尋ねようとしたマーガレットに、背筋を伸ばした支配人が指示する。

「マーガレット。サウス卿はこれから街をお発ちになるが、最後にお前・・・君の歌をご所望とのことだ」
「・・・はいっ?私もう今日辞めるんですけどっ?」
「それが何か関係があるかね」

素のまま支配人に素っ頓狂な返事をしたマーガレットに”公爵”が重々しく言い、支配人が小声で急かす。
大混乱のマーガレット、支配人に背中を押されながらジョンと目が合うと、彼は彼女にだけ分かるようにひっそり微笑みかけて
眉の動きだけで茶目っ気を出してステージを示した。

「!」
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失恋はともかく、これがジョンなりのギター教室のお礼ということなんだろうと、ようやく理解した。
やだ、泣きそう。迷惑かけてばっかりで、すごい忙しい人なのに。

この都市でいちばんのナイトクラブのステージの中央にマーガレットは立った。
今まではライトも当たらない位置でコーラスだけしてたのに。
お忍びでやってきたジョン・サウスのため、バックバンドも店の一流どころ。
もう店内の全員からはマーガレットが公爵を身体で篭絡したと思われただろうが、どうせ退職日だ。
他の人間にどう思われてもいい。
ジョンに会えるのもこれが最後なんだと雑念を切り捨てたマーガレットの表情が変わり、歌う曲を彼らに頼んだ。

『突然のことで・・・・一流の皆さんに囲まれて私の粗が目立ってしまうと思うんですけれど頑張ります』
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ジョンもマーガレットも、これから歌われる曲は分かりきっている。
3日間ジョンが奏でていたものよりも相当上質な『スタンド・バイ・ミー』のイントロが流れ出す。
人が居ない店内にふさわしく、水面のように静かで美しい。

懐メロばかりだった少年たちの青春映画では霞んでいたが本来これはラブソングだ。

あなたがいれば怖くないから傍にいて、傍にいてと呼びかけて繰り返す。
マーガレットが飲み込んだ涙はそのまま歌声に乗った。
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行き場のない想いが蔦になってマイクから絡みつくように伸びていき、辛いまま店内を這いずり回ってジョンに向かってく。
明らかにマーガレットの歌の何かが変わっていて、自分自身でも驚いた。

歌い終わったあと彼女を特別に評価していなかった店内の面々も驚き顔で、
バンドメンバーからも贈られた拍手は公爵の手前のお義理ではないだろう。
ジョンが微かにだが頷きながら拍手しているのを見て、マーガレットは会心の出来だったことに確信を得た。

支配人もまた、公爵への媚び半分本気半分で彼女の退職を慰留させたい旨を匂わすと、
ジョンは驚くことに「それは許さんよ」と恐ろしいほど冷たく切り捨てる。
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かと思うと支配人に今回の特別な計らいに感謝すると懐柔もしてみせたあと早々に邪魔な彼を追い払った。

店内は人払いされて、やっとマーガレットとジョンが2人だけで直接言葉を交わすこととなる。

沈黙したままジョンは煙草の紫煙を吐く。
そのときマーガレットはそれはジョンの溜め息なのだと気が付いた。いつも彼は溜め息を煙で誤魔化してるのだ。

「まるで泣いているみたいに歌うんだな、君は」
「そう聞こえたのだとしたら、あなたがそういうお気持ちなんですよ」
「・・・そうか」
「そうですよ、きっと」
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マーガレットは嘘をついたがジョンは納得しているようだ。
そのせいで彼女の中に、少しだけ、もしかしたら彼も別れを惜しんでくれてるのかなという期待が顔を覗かせてしまいそうになる。

「いい歌だった。驚いたよ」
「実は私も驚きました。今のはちょっと、・・・私なかなかでしたよね?」

歌手の夢を昇華したマーガレットが心から嬉しそうだ。
はしゃぎすぎぬように、けれど我慢できないマーガレットが一流ナイトクラブのステージの感想を語るのを聞いているうち、
昨夜鍵をかけるべきなのだと収めた気持ちが零れる。

「君には実に楽しい時間を持たせてもらったよ。・・・私には夢のような時間だった」
「そこまで楽しかったのは私の力じゃないです。サウス卿。やっぱりご自分のギターを買われたほうがいいですよ」

マーガレットが少しだけ苦笑するとジョンは煙草を消した。

「初恋の夢だよ、マーガレット」
s3-15[39]
息を止めたマーガレットの指先の、ほんの爪の先だけジョンが触れると痺れのようなものが走った。

黙ったまま息を潜める。
それでこれから私、いや自分たちはどうするんだろうかとマーガレットが思惑っていると
表情の薄いジョンとやっと目が合って、あまりにそれが辛そうな瞳だったのでマーガレットから彼の手に自分のそれを重ねた。

「去りがたいが・・・今日は私はこのまま・・・ ━━ 家に戻る」
「私はどうしたらいいですか?」

惚けきったマーガレットから発せられる熱はジョンにはかなり魅惑的に届いてくるが、これ以上予定は覆せない。
公爵など我侭放題だろうと思われがちだが実際はそんなことすれば各方面にどれだけ皺寄せが行くのかも知っている。
心を二の次にし、流れに身を任せ自分を律してばかりのジョンの余生のなかで見つけてしまったものが
このマーガレットとの時間だった。
ひとりの人間に戻れる時間。

「日を改めて会おう。それまで君のギターは預かっておく。昨日忘れていっていたからね」
「祖父の形見が人質ですか?じゃあ嫌でも行かなきゃですね!」
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マーガレットとジョンは同時に指を絡めたのち、空気を震わす程度ながら同時に笑った。
そんな心からの笑いで緩んだ途端、
空が崩れ落ちるような恐ろしさに襲われかけるマーガレットの胸中を察するように
ジョンは少し眉根を引き締めた。

「マーガレット。終わらせたいときはいつでも・・・君にからにしていい。私に引き止める資格はない」
「・・・・」

ジョンが背負っているもの━━特に妻と子たち━━を暗に匂わせられて、始まったばかりであるものの
マーガレットは頷くしかない。

「今日はこのままお発ちになるんですよね?連絡・・・私、取れないですよね、どうしたらいいですか?」
「私から手紙を送るよ。君は会えるときに来てくれれば嬉しい。・・・ただし学業は疎かにしないように」
「はい。それにしてもお手紙ってクラシックですね。素敵。さすが”公爵様”ですね、サウス卿」
「ジョンでいい」
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表情も声音も静かで動かぬものなのに、
その一言だけで彼から確実な思慕の情が伝わってきてマーガレットは頬を真っ赤に染め上げ俯いた。

「あのっ!あの、あの、・・・てっ、手汗すごくなってきちゃっててっ、す、すみません・・・!」

さすがのジョンも俯いて笑いを堪えた。







後日、マーガレットのシェアハウス寮にジョン・スミスという、ひどい偽名の手紙が届く。
中にはジョン・サウス議員を含んだ外遊する視察団がオランダ入りしたということで、
一般就航便のオランダ行きの最上クラスの航空券よマーガレットの名前でとってあるというホテルを示したカードが入っていた。




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第15話 マーガレットⅠ Anima Ⅳ

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マーガレットは中流家庭の生まれの次女。
金に困ることもなく、かといって裕福でもなく音大という進路は取れなかったのでサークルで音楽をやっていた。
ギターを弾いて、そのうち歌うようになって・・・若さ特有の『私はこんなものじゃない』という意思に従い、
何人もの有名な歌手がデビューしている老舗ナイトクラブで歌手として働くことなった。

といってもソロシンガーで使ってもらえるわけはなく集団のコーラスの一員だったがマーガレットは美人の部類に入ったので、
店が客層を選ぶレベルの、その都市でも一、二を争う名店に滑り込めたのだった。

ある夜。

「マーガレット!君、今夜ステージには出なくていい!急いでコート着て!」
「えっ、なんで?!私クビにされるようなことしてない!!」
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18歳のマーガレットは特徴的な赤毛を震わせて声高に叫ぶと副支配人はとんでもない!と焦りながら、

「違う違う!○○が今日風邪だかで休んだろう?
 今夜出張ステージさせる頭数だったもんで代わりのバックコーラスが急ぎで必要なんだ。上乗せかなりするから!」
「えっ、あ、OK!衣装は?!これで平気!?」

駆け出しとはいえ一丁前にプロ意識はあったマーガレットは急かされながらも店が貸してるドレスを身振りで示す。
クラブの格を示すがごとく上等なものだがコーラスらしく悪目立ちはしない。

「黒でちょうどいい。他の連中とも揃うよ。頼んだよ、タクシー裏に付けておいてるから大至急。
 約束は8時半だ。急いで!行き先はこのメモにある。今日は出張終わったら、店に戻らないであがっていいからね」
「わっかりました!」
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「じゃ、これ。他の連中には内緒だからね」

早速ひみつの上乗せ分として、紙幣を輪ゴムで束ねた比較的小さなものを握らされる。
とはいえ学生にはありがたいボーナスだ。
直帰できると聞いたマーガレットは自分の荷物・・・ギターケースとコートを引っつかんで店から飛び出した。




そしてメモが指し示す場所は雰囲気のあるドアマンが居る、その都市いちばんの高級ホテル。
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書いてある部屋の名前はホテルのボールルームだろうか?
メモ差し出してホテルマンに行き先を尋ねるとエレベーターを最上階まで登らされ、
黒いスーツの人間が居てメモを見せる身体検査も受けて入室することになった。

とはいってもマーガレットの勤めてる老舗クラブも十何年か前に、この国の寺院で女王陛下が亡くなったテロの影響か
軽い荷物チェックの上での入場があるので違和感はない。
ただドアの感じからいうとレストランだのの店というよりは・・・会員制クラブ?
いや、それよりも客室といった感じで店内はまだ見えない。

マーガレットがキョロキョロすると『suite』の文字が入ったプレートが目に入った。
成程すごい客室での出張ライブかと気合が入る。

「あの、他のシンガーはもう着いてますか?」
「今夜のシンガーはあなただけの予定ですよ」
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かなり驚いたがマーガレットはそれをできるだけ顔に出さないようにする。
もしかしたら今自分はすごいチャンスを前にしてるかもしれない。
だってこのすごい部屋の借り主に気に入られれば、道が開けるのかもしれないのだ!
店で歌われているナンバーは大体頭に入っているから、伴奏者とその場で話し合いながら歌えるだろうと腹を括った。
スイートルームのコネクティングルームを抜けると、広い客室が広がっていたがパーティの気配は全くない。

「あれ?」
「奥へどうぞ」

さらに奥からの声に導かれて歩き進んでいったマーガレットは、その声の主を見て度肝を抜かれた。

「時間通りだね。私は名乗る必要はあるかな。あなたのお名前は?」

熱心にニュース見ないマーガレットでも相手の名前も顔も立場も十分に知っている。
当時のサウス公爵家当主・・・アレックスの、そして後にダイアナの父親となるジョン・サウスがそこにはいた。
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温かい火のストーブの熱と、バニラの甘さをはらんだ紫煙が彼を取り巻いている。
近年出たばかりだという流行に乗るナイトクラブの客が嗜んでる銘柄だ。

「名乗っていただくなんて滅相もないっ!サウス卿!!わぁーっ      ・・・・あっと、すみません!
 今日のお客様のお名前を存じ上げなくて驚いてしまいました。私はマーガレットと申します」
「よろしく、マーガレット。何か召し上がるかな。難しいものは作れないが飲み物は?」

公爵の手前、マーガレットはちゃんと苗字も名乗ろうとしたのに
彼は芸名だとでも思ったのか話題を切り替えてしまった。

「あっ、えと、わあ・・・お構いなく!!」
「そう。でも飲み物もなしに平然と話せるほど私は女性に達者な方じゃあないんだ。付き合ってもらえるかな」
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彼の柔らかい物腰で巧みに促される。
マーガレットは酒が強くないので恐縮しきりながら「じゃあ、お酒はごくごく薄めで・・・弱いので」と申し出ざるをえない。

「カクテルもどきでも作ってみようか。美味しいといいんだが」

本心ではまるで困ってるように見えないが、ジョンはさて困ったといった風に微笑んで
煙草を手離さずに逆の空いてる手でグラスに直接、氷とジュースやらを量りもせずに注ぎ
マドラーで手際よくかき混ぜたものを作った。

まるで旧来の友人でも招き入れてるかのような距離感にマーガレットは戸惑いながらも興奮する。
自分はこんなVIPに歌手として迎えられてるんだ!
グラスを当てずに乾杯をして微笑む。

「美味しいです!きっと同じウィスキーですよね?きつくないです」
s3-14[32]
「それは良かった。君の髪の色に合わせてクランベリージュースでもあれば良かったんだが」
「私オレンジジュース好きですから」

マーガレットは明るく声を出して笑う。
理由は分からないけれど、何やら自分は非常に歓迎されているようだ!幸先がいい。

なんとなく、彼女にはこの状況の想像がついてきた。
副支配人は非常に焦った様子だったから、他の歌手(もっと店の上位の人気ソロ歌手だろう)に渡すはずだったメモを
間違えてマーガレットに寄越してしまったんだろう。
本来なら自分が店に電話でも借りて連絡をして、本来のバックコーラスの仕事につくため引き返すべきかもしれないが・・・
ここまでの大物とのコネクションを結べる機会はそうそうあるもんじゃない!

「店の者からは場所とお時間だけしか伺っていなかったんですが、今夜はどのようなナンバーがよろしいですか?」
「・・・うん?」

そこからマーガレットは、クラブでバックコーラスしているスタンダードナンバーから
少し趣向を変えてカントリーミュージックも歌えると鼻息が荒くなりすぎないようにアピールした。
s3-14[33]
「場所はやはりこちらのピアノ付近でよろしいですよね?
 伴奏者がいらっしゃらないなら私、あまり上手ではないのですけれど自分である程度なら弾けます」

もう少し時間が経つとパーティの来客があるのかもしれない。
いや、こういう人はイベントコーディネーターをちゃんと雇ってそうだから尋ねるのは無礼だったろうか。

「すみません。私、1人でべらべらと話しすぎました。今夜の演奏について、ご担当者の方に伺った方がよろしいですよね」
「・・・・・・」

彼は何かを考えてるかのように暫く静かにマーガレットを眺めた後、グラスを置く。
グラスの中の美しい氷ががらんっと回った。

「君は、どんな言いつけでここに来たのかな?」
「え、店の者からはこちらに、この時間に伺えと・・・」
「歌えと?」
「は、い・・・歌手ですから」

肌が縮むような確実な怒りをジョンから受信する。
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「伴奏者と言ったが他の者が来る?来るのは1人だとしか私も聞いてはいないし、そもそも歌うなんて話などないよ。
 君、どうやってここに潜り込んだのかな」
「っ!」

やばっ、なんでだか簡単にバレた!
マーガレットが分かりやすく表情を崩すと彼は大人の余裕か、ため息ひとつで許すこととなった。

「それを飲んだら帰りなさい」
「はい・・・・申し訳ないです・・・・・でも、でも、私、あの。怪しい暗殺者とかじゃないんです・・・本当に・・・」

その言葉に彼はつい笑いを噴き出しそうになったが得意の無表情でそれをしまいこむ。
さらに彼女はちび、ちび、と本当にジョンに言われたとおり杯を飲み干してゆく気らしく、幼いのか肝が太いのかと内心脱力した。
飲んだら帰れ、というのは定型文みたいなもので額面通りに受け取るものじゃないだろう。

「・・・まあ。外の連中が調べたから危険ではないんだろうが、ね」
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正体を見破られたのに、この娘は気まずくないのか。
逆にこちらの間が持たない。

「それで君は今夜どうやってここに?そもそも君は誰かね、マーガレット」
「私今月からあのクラブでバックコーラスやってる駆け出しの歌手なんです。さっき急に出張ライブ行くように言われて・・・
 たぶん、副支配人が他の歌手に渡すはずのメモをくれたんだと思います・・・」
「なるほど。単純なミスだな」

そして蓋を開ければ出てきたのが公爵の自分で、このマーガレットはチャンスに乗っかってやろうとしたわけか。
あっけらかんとしてるわりに度胸があるといえば聞こえはいいが、分際を弁えない娘だ。

・・・それだけ歌手で大成することを夢見てるんだろう。
ジョンが思った瞬間、わずかに胸が焦げるような感覚を覚えた。夢に邁進している若い彼女への嫉妬。
公爵という自分の地位に安易に飛びつこうとした彼女に灸を据えるつもりでと、嫉妬ゆえの意地悪な気持ちも手伝って
ジョンは鼻で笑う。
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「今夜、あの店が寄越すと私に押し付けてくるのは確かに歌手だったが、別に歌ってもらうためじゃあない。
 クラブが売り出したい歌手に『支援者』をつけてやりたいために熱心に今夜のお膳立てしてただけだよ」

「・・・・? えっ?」

「私は『接待される』側だったんでね。来る予定の歌手の名前も知らない、というわけだ。
 まさか、どんな『接待』なのか分からないということはないだろうね」

つまり店は本当は一押しの”女”の歌手を、この都市にやってきている公爵に宛がおうとしていたわけだ。
気に入られれば歌手も店も、公爵も美味しい思いができる。
惨い現実だが劇的な才能でもない限り、ナイトクラブ歌手なんてものは娼婦まがいだというのがジョンの中での現実だ。

「あの店が有名どころを排出してきた老舗だというのもこういうことだよ。どこの都市でもよくよくある。
 君は先月始めたといってたが、そういう娼婦まがいのことをしてゆく覚悟はあるかい?」

チャンスに便乗しようとはしたものの、そんな予想もせずに歌う気満々で乗り込んできたのだ。あるわけがない。

「・・・━━・・・・・・・」
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泣きはしないが、怒っているような、悲しんでいるような・・・・生々しく傷ついた彼女の表情にぎくりとさせられる。
彼女の中で輝いていた薄く弱い何かが割れる音を聞いてしまった気がした。
現実を必要以上に鋭く突きつけたのは自分だ。

「・・・もう帰りなさい。マーガレット」

ジョンが退出を促すつもりで彼女が出て行くべきドアに目をやると、
マーガレットが持ちこんで床に置いたままのギターケースがあって戸惑った。
彼女はギターを弾くのか。
つい無意識にジョンは自分の左手の指先を擦り合わせた。
あんなにも先程まで生き生きと夢に生きていたのに、今はジョンのせいで死にそうな顔のマーガレットがぽつり呟く。

「ああ。あなたも、お弾きになるんですね。アコギですか?」
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表情は大きく崩さないがジョンの目が明らかに動揺した。
確かにこのジョン、若い時分にギターをやっていたが・・・先代当主の父親にふさわしくないと断じられ、取り上げられた。

「どうしてそう思うのかな」
「今、左手・・・指・・・・ 私もよくやるんです。痛むから。クセで」と、
マーガレットも自らを抱きしめながら彼がやったのと同じように指先をすり合せる仕草を見せる。

「大昔の話だよ。もう自分のも捨てた」
「弾きたければどうぞ?」

昔捨てたはずの未練を見透かされたことに動揺が収まらない。
ギターを抱えて歌手の夢に生きている彼女に対して、
年甲斐もない嫉妬のせいで意地の悪い物言いをしたことは既に彼女にも嗅ぎつけられたのかもしれない。
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公爵という地位で政治家でもある彼は装うことは得意になっていたが、
ジョンは彼女にしたことへの自責の念から少し心のままの苦笑を零す。

「フォークギター、なんていう歳でもないだろう。」
「そこらへんでおじいちゃんでもおじさんでもフツーに弾いてますよ?でもやっぱり。フォークギターやってたんですね。
 おじいちゃんにもらった年代物で価値があるものじゃないけど悪くはないギターです」

ジョンの返答を待たずに手馴れた動作でマーガレットはずるりと相棒を取り出した。
さらに彼が受け取らなければ床に落としてしまいそうな軽さで渡そうとしてくるので、ギターは公爵の腕に収まる。
懐かしさのまま、スーツであることも忘れて彼はそのまま握りこむ。

懐かしい。

Cコード、Gコードと、覚えてるだろうかと遠い記憶を探りながら弾くと、昔と同じ音が出た。
続けてD、Em・・・・・確認するかのように一音一音。

「もし、曲が弾きたければ遠慮なく。私はこれ飲んじゃうので」
「・・・・・」
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が、ジョンはそれ以上曲らしいものを奏でず、ずーっとコードを単調に弾いているだけ。
数十秒ほど彼女の空色の瞳がきょとんとして、ずばり呟いた。

「あ。曲は弾けないんだ?ピンポンですか?」
「!!」
「あ、わっ!ごめんなさいっ、ついホントのこと、いや、じゃなくて!うっわ、ごめんなさい!」

公爵サマってこと忘れてた!とばかりにマーガレットは慌てるが、大図星を指されたジョン。
腹の底から恥辱がわきあがる。

そう、若い彼女くらいの歳のころ。
フォークや弾き語りに憧れてギターと初心者用指南本を買ったはいいが独学である上にギター仲間なぞもおらず、
特別な才能があるわけでもなく、あんなにも夢中になったものの結局覚えられたのはたった4種類のコードだけ。
曲なぞ弾けるわけがない!
覚えてしまうまえに取り上げられたギターへの憧れは、そのせいで焼き焦げていたのもあった。

「もういいだろう。返す!」
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「まあまあ!恥ずかしいのは分かりますけど!左手をちょぉっと失っ礼~」

酒の入ったマーガレットは妙ななれなれしさを発揮し、舌をちょっと上唇に出しながら勝手にジョンの指をいじりだす。
これが仕事の相手であれば容赦なく拒むところだが、歳が離れているうえ先程いじめてしまった娘だと躊躇されてしまい、
彼が戸惑ってるうちにマーガレットはぐいぐいとコーチを始める。

「お母さん指はここ~、お兄さんはこっち、おねえさん指はここに置きまーす。はい、弾いてください」
「君」
「弾かないと!音出ませんよ?ほらほら!」

嫌々半分、意地も半分。弾いてみると初めてにしては悪くない(と思われる)音が出せた。

「ギター始めたのは本とかで?独学ですよね?」
「・・・そうだね」
「本で1人でやるより、ヘタでも誰か相手が居たほうが捗るんですよね~。じゃあ次は人差し指で、ここをぜんぶ」
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すると即ジョンは反応して「Fコードはできない」と言い切った。
Fは一番指の押さえ方が難しいと言われているコードで、かつて彼も本の説明にしたがって試しはしたものの結局出来ないまま
ギターと別れた。

「できないからやってるんじゃないですか」

指が壊れそうだ。歯を食いしばりつつ、とりあえず弦を指で弾きはしたものの奏でたとは程遠い。
ほら、もういいだろうと苦々しい気持ちでマーガレットを見ると素晴らしい笑顔で、

「やったっ!できたできた!すごいですよ、Fを押さえたまま音出せただけで!!
 私押さえることすらできなくて2日間はかかりましたもん。どんどんやってみましょう!」

相手を乗せるためじゃなく本気で嬉しそうにしてみせる彼女に、ジョンは三度目の「帰れ」は流石にもう言えない。

そのまま数個のコードを教えてみせると結局数十分ほどが瞬く間に経ち、
ジョンの育ちのよい柔らかだった指先は昔のように簡単に真っ赤になって手の平に冷や汗が滲んでいた。
彼が弱音は吐かなくとも身体は正直で、左手の指が痛みから逃れたがるせいで上手く弦を押さえようとしない。

「あ、もう限界ですね。でも久しぶりの初日で結構な時間連続でやってたんだから、すごいですよ」
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最初こそ嫌々だったのに気付けば年甲斐もなく夢中になってしまったと、ジョンに恥ずかしさが湧き上がる。

「結局、時間を使ってしまったな」
「でも楽しかったですよね~1人でやるときより気分が乗りますよね~」

マーガレットは取り出したときと同じように、てきぱきと相棒のギターをケースにしまう。
黙ったままのジョンにマーガレットは空色の瞳を丸める。

「あれ。楽しくなかったですか?指がそんなになるまで弾いてたらっしゃったのに」
「君はどうして、そう・・・。・・・・無遠慮なのかね」
「真ん中っ子って、このくらい図々しくないと家族で埋もれちゃうんです。そのせいかもしれませんね!」

マーガレットは明るくジョンの指摘を笑い飛ばした。

「でも私は楽しかったです。ちょっと落ち込んだから」
「!」
「・・・・教えてくださって、ありがとうございました。あのクラブは私には合わないみたいだから辞めることにします」
「随分思い切りもいいな、君は」
「売れるために好きでもない人と、・・・”する”、なんて。あたし、出来そうもありませんから。お邪魔しました」
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上流家庭出身でもないというのは雰囲気で分かるが、きちんとした躾を家庭で受けてはきたようだとジョンは考えた。
そうしてマーガレットはその部屋を退出した。






そして翌日。
夜にでもナイトクラブには退職する旨を申し出ようと心にきめていた。
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『実は昨夜はあのサウス公爵に素人のギター教室もどきをした!』と、
大学の友人に軽々しく自慢したい気持ちはあったが自分が訪問させられた理由も理由だったので
何となく言えずじまい。

ジョン・サウスのことを思い出す。

入室した直後の女性を接待するとき用の顔、その後の無表情気味のよそ行きの顔、
表情は動かないながらギターを手にしているときだけみせてた目の輝きを思う。
人懐っこさは皆無だったけれど年齢の差があるわりには不思議と接しやすかった。

30代過ぎてる”オジサン”にしては結構かっこよかったし、ファンになっちゃったかな。
将来、またこの都市に訪問してきたときには大勢の市民に紛れて旗を振りにでもいこうか。

(でも偉い人って窮屈そう。きのう、簡単に弾ける曲ぐらい教えてあげればよかったかな)
s3-14[61]
庶民の大学生と、議員でかつ貴族じゃ二度と会うこともないだろう。
まだネットが世間に広がる前夜のころで、気軽にツイッターだのインスタだので一方的なファンコメントをできる相手でもなかった。






しかし、その夜にはマーガレットは真っ青な顔色で再びジョンのもとに現れることになった。
スケジュール通りの訪問なので護衛官も入室を許可したが、
私服のジョン・サウス公爵は不機嫌なため息を隠しもしない。

「何故また来たのかな。・・・昨日の話を分かった上で、気が変わったとでも?」
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マーガレットは蒼白のまま首を細かく振って、すぐに説明を始める。
昨夜の抜けている副支配人ではなく強面の警備員を伴った支配人に正面きって脅されて仕方なく来る羽目になった。
辞めるにしても、昨夜は公爵とどうやら長い時間を共に過ごし”気に入られた”のだから、
クラブの名誉のため彼の滞在の最後まで『ご接待』をやれと。

支配人には借りている家まで知られていているためにトラブルになって家に押しかけられでもしたら
大家を通じてナイトクラブ勤めをしていることが厳しい両親に知られてしまう。
マーガレットは謝罪の言葉を繰り返し、「あなたの滞在中だけやり過ごせば辞めることはできるんです」と縋るしかない。
s3-14[52]
相分かった、もう言うなとジョンは手挙げ彼女を言葉を止めさせた。
だからナイトクラブなぞで働くべきじゃないというのだ。
ジョンは「随分と高い代償になったな」と紫煙を冷たく吐き、
彼女も同意とばかりに小さくなってコクコクコクと頷いた。

「事情は分かった。護衛官がいるコネクティングルームで過ごして帰りなさい。飲み物くらいは出すように言っておこう」
「えっあ、あっ・・・あの」
「何かな。私は君と寝るつもりはないよ」
s3-14[50]
恥ずかしいが全ての勇気を振り絞って、汗までにじませながらマーガレットは笑顔で、
「すっごく簡単に弾ける曲、私思い出したんです!」と声を震わせながら己のギターケースを差し出す。
虚を突かれたジョンは「は」とだけ言葉を漏らしてしまった。

「いつかどこかで、お会いできることがあったら教えて差し上げたいなって思ってたんです。 
 ・・・・まさか夜に早速また行ってこいってなるとは思ってませんでしたけど」と、マーガレットは苦笑い。

昨夜10数年ぶりのこの楽器との再会は確かに・・・・ジョンにはひっそりと心に迫ったものがあった。
ジョンの少し上の世代にギターを手に自由を歌うムーブメントがあって、それがジョンの亡き父親には嫌悪する理由だった。
彼にとっては青春と自由の象徴。
別に予定もなく、いつものように酒を舐めながら適当な時間を過ごすだけだったのだから、
滞在の暇つぶしにいいだろうと顎だけでソファーへと促し、了承してやった。

「それで?どんな曲かな」
「スタンド・バイ・ミーです!かなり古いですけれど、ちょっと前に映画でも使ってたし。ご存知ですよね?」
s3-14[53]
「ああ・・・なるほど」

昨夜と違って酒は飲んでおらず、若干の緊張はしているマーガレットの、つたないギター教室が始まった。
この曲で使うコードは本当に多くはないが10年以上ぶりのジョンでは正しい音を出せる回数は少ない。
簡単にいらない弦に指が当たってしまう。
ジョンに練習を繰り返されていると、黙って見守るしかないマーガレットのほうが少し居心地悪くなって、つい四方山話。

「今回はご家族での出張じゃないんですね?前にご家族で外遊されてたの観ました」
「息子たちは長期休暇以外はスイスでね。
 ・・・・・。妻はブリッジポートの植物園で支援会だかを主宰するらしい。共に出かけるほうが少ないな、我が家は」

この、彼が妻について語る前の一瞬の間にマーガレットは気付かない。

「息子さん達は双子でらっしゃるんですよね。そうそう、そういえば奥様とは学生結婚だったとか。私と同じ歳のころに。
 今日ちょっとだけ図書館で公爵家のこと調べてしまいました」
「私の高校卒業直後の夏に先代の父親が急逝してね。あちらの家が焦って嫁がせてきたんだよ」
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「あ、なんだかすみません・・・でも、お若いときから支え合ってきたなんて素敵ですね」

ジョンはこともなげに、

「2人の息子たちは可愛いが、君の想像している世間の結婚とは異なるな」
「え?」
「私たちがまともな夫婦であるなら、出張先でエスコート嬢もどきの歌手の接待などそもそも受け入れない、という意味だよ」
「う」

確かに!
意図せず、マーガレットは自分がジョン・サウス公爵の非常に繊細な部分へと触れてしまったと分かりやすく狼狽する。
s3-14[58]
対してジョンとしては既に昨夜からの状況で一目瞭然であろう事実を述べただけなので感情的に乱れはしない。
恐縮してオドオドしてみせる彼女は初々しく常識的で・・・彼には眩しく映った。
どこの大学のキャンパスにでも居そうな、スレていない可愛らしい女子学生。
老婆心か、それとも自分のようにはなって欲しくないという希望を託したいのか、彼は尋ねる。

「・・・君は、大学生だったね。今デートしてる相手はいるのかな?」
「いやっ、全然!今は正直歌のほうが楽しくて、大学は行ってからはデートしてません」と、マーガレットは少し赤面。
「できれば好きになれるひとを見つけて、若いうちに恋愛はしておいたほうがいい。大切なことだよ」

ギターを見下ろしたままジョンが暗い目で薄い笑顔で呟く。

父親に高校最後の夏にギターを捨てるよう命じられ、ジョンが戸惑ってる隙に使用人達は粛々と彼の宝物を処分した。
その直後、その父親が急逝して大学生の身ながら爵位を継ぎ、生前の父親の命で婚約していた女性と結婚をして・・・
周りが切望するままガムシャラに公爵として、さらには父のあとをなぞる様に議員としても動き回ってきた。
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「あ、でも婚約前は奥様とも、よくあの・・・デートとかなさってたって。王室や貴族のお宅を何十年取材してきてる記者の、本に」
「ああいう物語はロマンティックな小説だよ。みんな好きだろう?
 真実はね、私の妻は10の頃から嫁ぎ先を決められ教育を受けてきたが、実家の庭師見習いの青年に恋をしていた。
 彼女の家はそれを引き離すために私との結婚を急いでね」

出来もしないのに、ジョンはチューニングをするかのようにペグをいじる振りをして酒のグラスを傾ける。
かなりの事実を語ってはいるが、
このマーガレットも親にバレたくないという弱みがあるので漏らしはしないだろうとジョンは続ける。

「哀れな女性だよ。公爵家に求められる役割の重さを徹底的に頭に叩き込まれてきたが、彼女の心はそう上手くいかなかった。
 当然だろうな。息子達が産まれたのは結婚4年目だったが、私が彼女のベッドに乗れるようになったのは
 3年目を過ぎてからだったよ。今も男女の夫婦というよりは公爵家という職場の同僚という感覚に近いかもしれないね」
s3-14[60]
ジョンは近年は慢性的な虚無感を内包するようになっている。
ウィリアムにアレクサンダーは、父親である自分を苦手をしているようだが自分には可愛い子供らだ。
しかし次代を継ぐ息子達ももうけた以上、あとの人生はもう消化試合なのだ。
━━━━ この、30代前半の世間で言えば男の盛りに、既に余生を送ってるかのような感覚。

そんな夫婦が、家があるんだと張本人から聞かされるなど初めてのマーガレットは、
自分のことのように悲しそうな顔をする。そしてジョンのことを心配した。

「あなたにも、本当は・・・他に好きな人がいたのですか?」
「いいや。私は幸い、小説にあるような恋なんていうものはしたことがない。婚約前にそれなりにデートはしてたがね」

「・・・・・・」
「マーガレット。君くらいの年のころというのは、今の君自身が思っている以上に大切なものだよ。素敵な恋を」
s3-14[57]
まるで老人のように30代の彼は枯れた目で、驚くほど優しく微笑む。

「・・・・は、い」

老人のような物言いに胸が痛んだ。



→第16話






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