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第14話 弟がいたら Amina Ⅲ

←第13話





マリアといえば丸め込まれちゃった、という思いのままアンドリュー達の自宅の研究室に連れてゆかれ。
しかし求めに応じられるまま徹夜の興奮のままタラ教授は
イアン達に起こっていることが事実なのだと早口でまくし立てて言い放つ。

「君のような人間にこの現象を理解できないのも無理はないだろうな。まあ信じられないというなら飲んでみるがいい」
s3-14.jpg
「! なに言ってるんですかっ」 
「オーナーァ!失礼ですよ」 
『タラ教授。だめですよ』

自立思考のシムボット3体、”解毒薬開発チーム”のボスであるタラ教授に真っ向から歯向かうので
タラ教授は「うるさいうるさい。揃いも揃ってダイアナに似おって」と毒々しく呟く。
アンドリューはそのまま先ほど雇い主のイアン&アレックスからの伝言━━研究を急いで無理はしないようにとの旨を伝える。

「・・・。私は寝る。この娘の説得はお前たちが好きにするがいい」
s3-14[1]
その探究心の強さゆえ、つい徹夜して寝不足で不機嫌なタラ教授は客間へ引っ込んだ。

そのあと残されたマリアはというと、
人間が感知できない領域でアンドリューとの関係を知らされたとでもいうのか
今回の騒動を引き起こしている薬についてのプレゼンテーションを3:1の構図で実に丁寧に受けることとなった。







「それで、ここが━━ アンドリューの部屋。すごい。オーシャンビュー」
s3-14[3]
畏まったものを取り払ったアンドリューに連れられたあと、初めて2人きりとなって改めて照れが走る。
景色の話題で誤魔化した彼女の背中に、ぴっとりと彼が寄り添う。

「・・・家族以外の人が入るの、初めてだ」
「っ! あー、そうなんだ・・・」
s3-14[4]
「・・・・」
「あはは・・・・」

後ろから強く抱きしめられてたままマリアの首筋にアンドリューの鼻先が埋もれて、囁かれる。

「さっきは焦った。本当に」
s3-14[5]
これはもう、いつもとはぜんぜん重みが違う。
っていうか非常に単純だけど敬語を止められただけで相当に・・・・
うっすらガラス越しに目が合うとアンドリューが微笑む。

「顔。そこまで赤くなるの初めてだ」
「だ。だっ、だ・・・・って、さーぁ・・・!」

堪らずにマリアはその場に座り込んで、アンドリューもそれに倣う。

「・・・僕はもう他の子とデートしたりはもういいやって思ってたんだけど、そっちはどう?」
「え」
「僕が、・・・こういうことを訊くのは・・・違うのかなって思ったんだけど」
s3-14[7]
人間じゃないから、という含意にマリアはつい無言。

けれど他の人間同士のカップルのように、真剣にコミットメントする段階に自分たちは来てる。
というよりも、それはもう済んでるといったところか。

今まで身体を幾度となく重ねては来たが、マリアの方からの始め方のせいで遊びの延長の色が濃かった。
明るく楽しく笑いながら、単なる気持ちのよいスポーツのようなもの。
そのため、このようにアンドリューから真剣みを帯びて押し倒されたことはない。

「嫌なら言って」
「・・・やじゃ、ない、けどさーぁ・・・」
「・・・・けど?」
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不安そうにアンドリューが動きを止めてマリアを真っ直ぐに見る。

「そうじゃなくってさ、あのさ。ここ・・・・アンドリューの家族、いる、んじゃないの?いいの、その・・・しちゃっても」
「居るけど聞こえない」
「そうじゃなくってぇ!は、恥ずかしいじゃない・・・?
 ルームシェアとかしてる友達じゃなく、親、っていっていいの?その、ダイアナさんとかも居るんじゃないの、いま」
s3-14[12]
そんなの知らない、とばかりにアンドリューの手がマリアのポロシャツの下に忍び込む。

「マリアがそんな風になるの、興奮する」
「うそ~・・・」

煽るような言動とは分かってはいても本心から縮こまってみせているマリア。
そんな彼女を見たことなかった彼も止まれるはずもなく。
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マリアも完全に陥落した惚けた目で、さあ、いざそのまま・・・という瞬間。

ゴンゴンゴン!
最悪のタイミングでのノック。

「「・・・・・・・・・・・・・」」

アンドリューが『やっぱりイアンさんに言われた通りそろそろ1人暮らし始めるべきだった』と後悔し、
マリアが『やっぱり家にひとがいるときにするんじゃなかったよね』と自分の判断に自信を持った瞬間である。

口を開きかけたマリアに、「し」と人差し指を立てると、
ドアの外からアンドリューの名を呼ぶ女性の声・・・・ これはイアンの声だ。

「はい?何ですか?」
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「ほんっとに悪いんだが、ちょっとだけ。いいか」
「・・・今ですか?」
「むしろ今、だ」

アンドリューが今かと尋ねても引き下がる様子を見せないイアン。
手際よく下げられてたファスナーを上げてアンドリューはドアの方へ。
マリアは物陰に。
s3-14[15]
ドアを開けると声音の通りに本当に申し訳なさそうなイアン。

「どうしました?」
「あー・・・俺は放っておけっつったんだけどな?・・・・あー・・・一応親族会議でだな。
 渡したほうがいいんじゃないかという結論になってな」
s3-14[16]
「はい?親族会議??」

と、イアンの手の中にあるのは・・・”love sex”という文字と共に、非常に有名なコンドームの箱。
しかも2つ。

「・・・・・・・・・・・・」

そして始まるのは非常に珍しいイアンの自己弁護。
が、顔はニヤついている。

「俺は絶対邪魔してやるなっつったんだけどな。俺は!」
「でもジャンケンで負けたとかですか」
「それな!」
s3-14[18]
「・・・。でも、その割りにワクワクで来たんですね」
「やっぱな!」

同じ男としては邪魔してやるなと思うものの━━特にイアンの場合はとあるトラウマがあるため━━
どうしてもどうしてもアンドリューをからかいたい気持ちが紙一重で勝ってしまった。

結果、エリンとアレックスと自分の親族会議(という名の超絶お節介な話し合い)を建前に、
悪乗り状態のエリンと共にイアンは笑いながら薬局に駆け込んだ次第である。
ちなみにアレックスは嗜める言葉を口にはしたが強くは止めてはいなかった。

当然邪魔されたアンドリューは怒り爆発寸前・・・・
「悪いなー。お前には要らないかもしれないけどやっぱり一応な?マナーだろ?」と完っ全に楽しんでるこの言い草に、
とうとうアンドリューの怒りは噴火した。

「イアン!」
「! おお」
s3-14[19]
「んなもん自分でどうとでも考えるから来るなっ!そんくらい考えろよ!!!」
「おおお」

とうとうイアンにすら、この様子・・・なんともそれはイアンにそっくりな口調で、
怒鳴られてるはずのイアンは目をキラキラさせて見守った。

これは怒るだけ無駄だし、早くマリアのところに戻りたい。
アンドリューは怒りのまま即バタンッとドアは閉じる。

が、もう一度開いてアンドリューは怒りの目のまま吐き捨てる。

「イアンさ、弟居なくて正解だよ。いたら絶対こういうことしてたんだろ!」
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「だから。今。してんだろ?」
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にやぁとイアン、それはそれは最低な笑顔で片眉をあげて見せる。
アンドリューは一瞬目を見開いたが再度フツフツを怒りが沸いてきて、
小さく「ざっけんな」と呟いてドアを閉めたのでイアンはその場で馬鹿笑いで見送る。

かつては”息子”。ほんのついさっきまでそうだった。
しかし、内面が育ちに育ち一人で歩いて精神的に巣立った彼はもはや”弟”のようなものだ。
成長されるとそれはそれでさびしいもんだとイアンは低く笑いながら今度こそ邪魔するのは止めてやった。







「・・・・起きましたかぁ?オーナー。お昼ごはん出来てますぅ」

太陽が真上から少し傾き始めた時刻。
シムボット・アルテイシアが寝起きのタラ教授に合わせるかのように控えめな声音で笑いかけた。

「このまま過ごしていいって言われてますけどぉ、ホテルに荷物運んじゃいました。いいんですよね?」
「ああ。流石に他人の家に住み込みで働ける程わたくしは図太くはない」
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「さっきマーガレットさんからお電話が入ってましたぁ。
  『今回はダイアナとアンドリューの件でごめんね』って。『起きたら誕生日のお祝い、させてね』だそうです」
「・・・・そうか」

ダイアナの実母マーガレット。
かつてイアンとダイアナの関係が表沙汰になり、イギリスでの仕事を止めて騒ぎが収まった後は
またここ。サンセットバレーに戻ってしまった。
といっても住まいは安全上の理由だかで、かなり高価な良いところになっているようだが。
━━ この国に戻ったのは別の理由もあることをタラ教授だけは知っている

寝起きにマーガレットのことをぼんやり想っている様子に、
シムボット・アルテイシアは耐え切れないように疑問を口にした。

「前から訊きたかったんですけどぉ、そうしてマーガレットさんなんです?」
「うん?」
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「だって、マーガレットさんてぇ。なんていうか、オーナーのお付き合いしてきた方と比べると・・・そのぅ・・・」

美人の部類だが光り輝くほどの引力はなく、歌手をやっていたとはいえ場末の店で細々。
会社勤めするも一番下の管理職となってのち退職して・・・

「すごくぅ・・・普通っていうかぁ・・・素敵なんですけどぉ。オーナーの他のデートしてた人とかの方が派手ですぅ」
「アルテイシアよ。お前はマーガレットという人間をどう思う?」
「えっ。そりゃあ・・・優しくて、わたしは食べられないですけどぉ、お料理上手なほうでぇ・・・素敵な優しいお母さんですぅ」

誰もが主役にあろうとする世界で、
脇役というポジションであることなどお構いなしといった風に常に柔順な”母”の顔。
・・・昔からダイアナを中心に生きてきた良き母親である彼女。
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母として笑って、母としてしっかりキビキビしているマーガレット。
皆がよく知る、あの笑顔を思い浮かべる。

「そうだな。素敵な”母親”だよ」

もちろん、この教授が惹かれたのはマーガレットの別の顔である。

そんな彼女を語るには、
今から20年以上前━━ ダイアナとアレックスの父親ジョン・サウスとマーガレットの話が必要だ。






→第15話







第13話 アンドリューの殻 Amina Ⅱ

←第12話



シムボット・アンドリューからの電話。
彼はふと思い立ってマリアの自宅へやってくるということはなく、古風にも必ず電話という方法でアポを入れてくる。

「こんばんは。アンドリュー。今夜来んのー?」
『いえ、今日は行けそうに・・・・というか、しばらく仕事以外での外出自体すべきではないんです』
「? なに、どうしたのよ。あ、あれだっけ。ダイアナさんが妊娠したんだっけ。それで?なんか忙しそうだね」
s3-13 (2)
このマリアと、アンドリューの”母”であり”オーナー”ダイアナとは直接の面識はない。
ダイアナにいたっては彼女の存在すら知らないが、マリアはアンドリューからよく話を聞いてる。

『・・・僕すごいやらかしてしまったので。自主的に謹慎をしようかと思ったんです』
「へえ?なにやったの?なにやったの?ねえねえ」

ここでお気の毒に・・・と引く面はマリアにはない。携帯をスピーカーモードにして放り出し、俄然長電話態勢に入る。
そして昔アンドリューがサニーに横恋慕していたころ、そいつを訊き出したときと同じように
マリアはぐいぐいと電話口から飛び出そうな勢いで迫った。

『・・・お・・・。━━━ いや、とりえあえず。大ポカです・・・』
「なに?なんで言わないのー?・・・っあ、ダイアナさん!?まさかなにかあった!?平気なの?!」
『あ!いえ、そういうことじゃないんです、辛そうだけど元気ですよ!・・・・。そういう意味じゃなく・・・』
「な~んだ!ビビるじゃーん。んで?だーかーら、なに!?」
s3-13 (1)
『いや、その』
「えー?じゃあ何のために電話してきたのー?!」

それでもアンドリューはイアンとアレックスの男性の沽券に関わることだからと今回の失態の内容を言えず、
どうしてかけてきたのかという問いに素直に答えるしかない。

『声が、聴きたくて』
「えっ」
『・・・・話を聞いてほしくて』
「あ、うん。そう。そっか、そうだね」

まいったな。そんなストレートなセリフ、言ってくれる男いないよ。男なんて身勝手でカッコつけばっかりだから。
こういう少年みたいなところ、本当なくさないでほしい。
じわじわと温かいものが胸から込み上げてマリアの顔を緩ませる。

「でも!どんな失敗したか話したくないんじゃ話聞くってムリじゃーん!」
s3-13 (3)
『あ、そうですね。意味ないや。でも、別なことでいいから話聞いてほしいです』

やっとアンドリューが電話の向こうで笑った。周辺の雑音がなにもしてこない。
ということはきっとまたシムボットの彼は私達人間と違って、電話の向こうでは別な行動をしながらコッソリ電子脳内で
こうして通話してきてるんだろう。
こっそり私に。
私の声を聞くために。
マリアは顔を緩ませながら、それ以上は彼の失敗とやら聞き出さないようにしてやりつつも適度にいじめて電話を切った。






イアンのプライベートジェットとヘリを使って、あっという間にイギリスから現われたタラ教授。
見覚えのない茶色の髪と紫色の髪をした女性2名を見て、挨拶よりも先に笑いが出た。

「ふっ・・・・ふはは・・・はーっはっはっはっはっは!
 実に愉快だ!!よくぞやった、ダイアナよ。流石わたくしの生徒だ!!なんとも誇らしい!」
s3-13 (48)
何のかんのといっても恩師に手放しで褒められ、ダイアナもついえへへへへと照れ笑う。
対して女性の身体にされた男性陣2名(と書くしかない)は死んだ魚の目で出迎えていた。
互いに『お前が飲ませたせいだ』『お前が水をかけたせいだ』と”水掛け論”を尽くしたが結局決着つかず今に至る。

「ビジネスはビジネスだからな、今から早速取り掛かるとしよう。アルテイシアよ、アンドリューからデータを受け取っておけ」
「は~い。アンドリュお兄ちゃんだぁ~久しぶりぃ~」
「アルテイシアさん、久しぶりです」

シムボット同士が笑顔で抱き合うと、そのやり取りにイアンが片眉を挙げる。
s3-13 (49)
「そいつ・・・お前の”妹”なのか?」
「はい。私はぁ、アンドリューお兄ちゃんの後に作ってもらったぁ、アルテイシアですぅ。よろしくお願いしますぅ。
 ある意味じゃダイアナさんの隠し子ですぅ。 お話も伺ってますぅ」
「はっは!隠し子かよ!」

ダイアナが作ったシムボットはどれもダイアナの『子』であり、アンドリューの『弟か妹』となる。
会社を立ち上げて数は増えていたが、量産シムボットなどよりも超絶デリケートな自律思考型のものは
その価格のせいもあるがイアンが全ての名前と顔を覚えている程度の台数しか売れていない。

ダイアナがくすくすと笑いながら、
「アンドリューの少しあとに作った、タラ先生専属のコだよ。基本的にはタラ先生が作ったコだよ」と付け加えた。
s3-13 (50)
だからイアンにはその存在についても語っていない。

「へえ、知らなかったよ。俺らの式に来てなかったのは?」
「わたしは大学でお仕事してたからぁ。でもおふたりの結婚式はアンドリューお兄ちゃんのライブ中継で拝見してましたぁ」
「美人な隠し子なら大歓迎だよ、よろしく」

「わ~嬉しいですぅ。でもイアンさん今女の人でダイアナさんの前なのにそんなこと言うなんてぇ、すごぉく女タラシですぅ」
「・・・・・・・お前、やっぱなんかダイアナくさいな」

舌足らずにニコニコ話しながらも、ダイアナを髣髴とさせる鋭い物言いをされてイアンは苦笑。
タラ教授と一同が再会の挨拶をしたあとでエリンが不思議そうに尋ねる。

「ねえ、ダイアナ。前から思っていたのだけれど、昔のクリスマスに移動装置作ってたわよね。
 どうして使わないの?長距離は無理だといっていたけれど空港近くとかにばら撒いておけば仕事の移動も楽でしょう」
「その質問にはわたくしが答えよう」
s3-13[1]
「ええ、タラ。ぜひ教えて」
「行過ぎた技術はどうしても雇用を失わせてしまうのだ、エリンよ。
 ましては我々は人間から雇用を奪うと批難されがちな、哀れなるシムボットたちの親だ。
 たとえ不便であろうとも科学は人々を幸福にするための学問。他分野と全ての人々には多大なる敬意を払う」

能力の割りに金には頓着ない姿勢を貫いてきたダイアナも笑顔で頷いた。
そしてタラ教授はふふふと挑戦的に微笑み、

「ただ金儲けがしたいのであれば、そこらの大学で経営学なぞを取ってCEOにでもなればよいのだ。
 科学という人類の最高学問の徒たるわたくしたちは、そのような低俗な志を持ってはいない」

大学中退したものの経営学をとっておりCEOに上りつめたイアンを当てこすりでからかいつつ、
理系至上主義のタラ教授は説明を終えた。
「その”多大なる敬意”を俺には向けねえのか」とイアンがツッコむとタラ教授は口角だけ上げ、
s3-13[3]
「あなたを個人的に嫌っているわけではないから心配する必要はない。わたくしは誰にでもこうだ」

初対面で童貞捨てた話を要求されたアレックスなどは余計な火の粉を恐れて口を開かないが内心で深く頷いた。
確かに彼女は誰にでもこうだ。

イアンは胸中で『これだから理系の技術屋連中は嫌いだ』と毒づく。
シムボットの会社を立ち上げてから、こういう人間と顔を合わせる機会が本当に多い。
能力と変人ぶりが比例することを身に染みて感じていると、
常識的な礼儀とコミュニケーション能力があるダイアナは本当に奇跡だ。

「さて、作業に取り掛かるまえに残念な知らせがある。
 ダイアナ、お前の予定では1週間で全ての開発研究が終わる予定だったと言っていたな」
「・・・。うん・・・」
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タラ教授は一瞬何かを計算するかのように目線を宙にそらしたのち深く深くため息をつく。

「諸君。アンドリューと、このアルテイシアと、あとダイアナの幼馴染の元にいるというダイアナが全てチューンしたシムボット。
 この3人を助手に使ったとしても、解毒薬の作成には1ヶ月半かかるぞ」
「「そんなに?!!」」

この教授を招くのに六千万ドルもの金額を払う決断したイアンとアレックスの声が見事重なった。
しかし彼女はそんな2人を見つめて笑う。

「このダイアナを一体なんだと思っているのだ。 入学当時から他の研究室のジジイ共が狙い続け、
 わたくしが20年かけてきた自立思考する電子頭脳の開発を在学の2年で進めた娘だぞ。
 ままごと遊びよろしく適当に混ぜ物を作って、そんな姿にさせられたとでもお思いか?」
 s3-13[2]

恩師タラ教授からのこの堂々たる賞賛にダイアナはもじもじ。

「今時10歳前後で飛び級してくる者も居るのに何故17になるまで大学に来させなかったと
 マーガレットを批判する無礼者も居たほどだ」
「~~~~ 先生、あたしのことはもういいって!」

「とまあ・・・だからこそ、この通り常識を持った良き娘だというのもある。わたくしは躾のできてない天才猿は好かぬ。
 要するにわたくしが言いたいのは持っている能力が違う以上、時間が掛かるのはどうしようもないということだ。
 車でいえばこの娘は世界最高速度のブラッドハウンド、わたくしはせいぜいブガッティ・シロンだ」

ダイアナは昔と変わらず、少し血色の悪い頬を素直に染めて、まだもじもじしていた。
エリンがひらめく。

「ダイアナが作ってたタイムマシンがあるじゃない!未来に行って出来上がってるものを取りに行けば?」
「・・・この家に引越しのときに壊しちゃったんだよ、エリン。先生はどう思う?アンドリューがいるからデータはあるよ」

エリンの提案はとっくにダイアナ自身思いついてはいたし、既に恩師タラ教授の回答も予想がついているが
目の前の皆に説明のためにとダイアナはあえて尋ねてみせた。

「そちらの分野は完全にわたくしの範疇外である以上、無用なリスクは排除させていただく。 
 先日エリンの子たちが使ってきたというタイムポータルとやらもあるそうだが、詳細の仕様が不明である以上、
 我々が作業日程を縮めるのに使うのはよろしくない。時間をかければ同じ結果にゆくのであれば安全が一番。
 諸君、よって完成日は一ヵ月半後が確定だ。以上」
s3-13[5]
大胆不敵なタラ教授、不幸なる雇い主2人へ尊大なる態度で完成予定日を通達した。
アレックスとイアン、がっくりはしたが解毒薬ができないわけではないのが救いかと文句は出ない。
エリンが耐え切れず「ねえねえ!」と少女のような質問をぶつける。

「あなたから見て私たちを車に例えるとなあに!?」
「・・・・。ロバだな」

ロバ!!!
愚鈍と貧農の象徴たる1馬力以下の動物に、女王陛下と公爵とビリオネアが括られてダイアナが「先生っ」と諌める。
その罵倒にしか取れない表現に尋ねたエリンすら絶句。

ちなみに男でありながら女の身体にされ、人前で驢馬呼ばわりされ、もはやアレックスは完全に電源OFF状態である。
もういい。早く寝室に戻ってしまいたい。

「ただしエリンは可愛らしい特別な白いロバだ。さらにわたくしがシルクのリボンも着けてやるとしよう」
「あら❤ありがと」

よくわからない、ほのぼのとした空気のなか、アルテイシアが「データ同期できてますぅ」とのんびり告げた。
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「それで最後のシムボットはどこにいるのだ、ダイアナ」
「連絡したら今日すぐ来てくれるって」
「よろしい。お前は気にせずそのあたりで遊んでいるといい。あとはわたくしの仕事だ」
「お誕生日のお休みだったのに本当にすみません。よろしくお願いします、タラ先生」

ダイアナが恩師に畏まって御礼を述べると彼女は「気にするな。身体を大事にな」と優しく微笑んだ。










「リズ~急にごめんね~本当に大丈夫だった?」
「全然いいよ。今日は桜子は昼寝しすぎてたし、あたしも暇な時間あるから余裕余裕」
s3-13[8]
「ありがと~。しゃこらこちゃ~~~ん❤ダイねーしゃんだよ、こんばんにゃ~❤来てくれてあいあとにゃ~」
「・・・・・・・・・・・・・・。ん」

桜子はキュッと眉根を寄せた。
このダイアナねえたんは、いつ赤ちゃん言葉を止めてくれるのだろう?

「あんたツワリは?どう?結構ツワってん?」
「んもーさ~ すんごいツワってる~~~」
「ツワってっかー・・・だよなー。あたしももう二度とツワんのはムリだわ」

2人は造語で会話をしつつリズはしみじみ頷いた。

「・・・・で?アレクサンダーとグレンツはどこよ?あんたマジで言ってんだよね?」
「うん・・・・・・・あそこ。あのねリズ、できるだけ穏び」

できるだけ穏便に刺激しないでね、の言葉はリズの大爆笑にかき消される。

「ぶははははははははは!!マジ女になってるよ!!美人じゃん、2人とも!・・・・・・あっ、美人ですね!つかもういいか!!!
 いいじゃん、美女!ふたりとも!美女だよ!すっげ笑える!!!」
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「「・・・・・・・・・・・・・・・・」」

憮然としつつ、イアンとアレックスは動かない。
その爆笑につられて、やっとエリンも「んふっ」と一緒に噴出し始めた。実際ちょっと我慢していたのだ。
くっくっくっくと肩を震わせて「やだ、リズちゃん。つられちゃうじゃない」とどんどんエリンの笑いは大きくなる。

「だってめっちゃ女になってるんだもんよ、エリンさん!あはははははは!!!」
「もう!あっはっはっはっは!そうよね!」

爆笑の渦の中、かつて産後のリズの元に贈られた丸いシムボットが話しかける。

『それじゃあオーナー、わたしはダイアナさんのラボに行ってますね?』
「あっはっはっはっは!!オッケー!ぶははははははは!」
『桜子さん、マルちゃんはこれからお仕事してきます。ねんねのご本はママに読んで貰ってくださいね』
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「ん・・・・ あちた?」
『はい。マルちゃんはちゃんと明日の朝はおはようしますよ』
「ん。 てらちゃ」

桜子が生まれてすぐの頃、
リズと庸一宅のシムボットとなった”マルちゃん”ことシムボット・マルコは滑るように移動してゆく。
『丸いから”マル”ちゃん』と日本人の庸一がぼそり呟いたのをリズが気に入り、そのまま名づけられた。

「つかツワってんのにうちらが泊まって平気なん?」
「うん。むしろちょっとリズと話したい。本当によかった?」

心身ともに疲れきったダイアナ、すでに母となった幼馴染リズに色々聞いてほしいことがある。

「よかよか。庸一は好きにするっしょ。んじゃ、グレンツさん・・・・いや、こうなると奥さんって呼んだほうがいいかな?!
 ぶっははは!!お邪魔しまっす 」

完全におちょくってくるリズに対し、イアンは桜子の前であるため中指の代わりに人差し指を立てて応えた。

そしてリズと庸一の娘・桜子といえばシムボット・マルちゃんが居なくなってすぐ、アレックスを見つめて歩み寄ってきた。
知らない人のフリで通そうと思っていたアレックスだったが、その無垢な視線に耐え切れず声をかけた。
s3-13[13]
「こんばんは、桜子ちゃん。お母さん達と来てくれてありがとう。今日も可愛いお洋服だね」
「・・・・・」
「・・・・・わからないよね。はじめまして、のほうが・・・いいのか。お茶会ごっこも元に戻ったらしようね」

アレックスが情けないやら恥ずかしいやら溜め息混じりに辛く独り言つと、
桜子はすすすと寄ってきた。

「アレおいたん、いたいいたい?」
「!」
「まあ、すごい。桜子ちゃん分かるのね?」とエリンもびっくり。
「ん」

そして桜子は臆することなくアレックスに最強の上目遣いで見つめて「いたいいたい?」と再び訊いてきた。
かわいい!
女の子はなんて可愛いのだろうか!!
未来からやってきた我が子達━━というより金髪のバカがひどすぎたため一層父性が刺激されるアレックスである。
s3-13[18]
「いたいいたい?」
「ありがとう、桜子ちゃん。こんなになっても元のようにお話してくれて嬉しいよ」
「ん」

そしてイアンも堪らず尋ねる。

「・・・・な、桜子。俺が誰かも分かるかー?」
「アンたん!」
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「天才か! すごいなー、桜子。でもなんで分かんだー?お前」

桜子のほうこそ『なんでそんなことを訊くの?』とばかりに首をかしげるしぐさをみせた。
全然違う女の姿にも拘らず、しっかり正体を見抜いてもらえてイアンはニッコニコ。
密かに折れていた男の自尊心もなんとなく回復する。

「久しぶりだなー、うちに泊まんのー。桜子お前風呂もメシも済んでんなら、もう寝るか。俺が本読んでやるよ」
「! ん!」

イアンの絵本の語り口はすごく面白いので桜子は即同意した。
「来いよ」と彼が開いた腕の中に、びょんと飛びつく。

「リズ、いつもの部屋連れてくぞ」
「あぁ、すんません。ありがとうです」
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リズが依然としてニヤニヤしているのでイアンは『フザケンナ』と口パクだけして桜子を抱えると
当然のように子供用のベッドもあるゲストルームへと向かう。
そうして初めての妊娠で戸惑っている妻ダイアナをさっそく親友リズと時間が持てるようにしてやった。






はー・・・・とエリンのバスローブを羽織ったアレックスは深く深く溜め息。
嫌々ながらもいつもの習慣どおり、というよりもエリンが引くわけもなく夫婦は共にバスタイムを過ごした。
今更女性の身体そのものに照れるような歳でも経験なしの男でもないが、精神的にひどく消耗した。
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「髪乾かしてあげる」
「ありがとう。・・・明日にでもこの髪は切ってくる」
「そう?でもそうね、男性には辛いわね。・・・・あのねアレックス。私はあなたが”そんな風”になってても気にしないわよ。
 女の子のお泊り会みたいで楽しいもの」

フォローになっていないどころか、逆に痛い。しかしアレックスはエリンには何もかも許容の姿勢を相変わらず貫く。
丁寧にくるくるされながら乾かされ、さらにはエリンは自分のパジャマを「着るでしょう?」と彼に差し出した。
キューティクルを輝かせながらアレックスは女性もののパジャマに渋い顔。

「私は気にしないって言ったでしょう。何がイヤなの?」
「・・・情けないだろう、こんな格好は」
「あら。女性は情けない?」
「男が女性になるのはそうだよ。元々女性であることを指してるわけじゃないよ」

するとエリン、目を閉じていつものようにキスをしてみせた。
いつものように受け入れてのち、はっとアレックスのほうが驚く。

「イヤじゃないって言ってるでしょう。中身があなたなんだから、いつも通りよ」
s3-13[21]
身体の感覚の違和感は多少はあるが、アレックス視点からは世界は何も変わってはいない。
ついいつものようにキスをしたくせに、それでも「本当にイヤじゃないのかい?」と尋ねた。
君に拒絶されるのも落胆されるのも、昔も今も変わらずそれは恐ろしい。
エリンが色っぽく呟く。

「なによそんなの。わざわざ言ったことないけれど、私女性ともデートしたことあるわよ」
「・・・・。えっ」

これにはアレックス、己の姿のことも忘れて、つい、ぐぐぐっと雄の興味がそそられる。
過去の男のことなど例え話でも耳にしたくはないが、女性となれば話は別。
男にとっては性的興奮をそそるという意味で、非常に美味しいシチュエーション・・・・
内心の興奮を押さえつつ、妙に爛々とした目でアレックスが尋ねた。

「それはただ食事しただけだよね!?」と、絶対にそれ以上を期待しているアレックスの、この顔。
s3-13[22]
「・・・。 私が言うのもなんだけれど、あなたって本当私が好きよね」
「エリン、そのデートのこと詳しく教えてくれないかな」
「ん~どうしようかな~」

口先から出た嘘だったがそれはエリンの思惑通り、効果覿面。
アレックスは妻の手のひらの上で憂いも忘れたまま普段通り眠りに付いた。






ダイアナが寝ている早朝、イアンはいつものように海にいた。
その身を包むのは、このイアンがレンタルすることとなった2時間$80というウェットスーツ。
s3-13 (4)
「アンドリューお前。申し訳なく思ってんならパシってこの身体に合うもん買って来い」
「・・・はい。行ってまいります」

いつもならしないだろうに、まるで執事のようにイアンのための飲み物セットだのを持参してきたアンドリューが
神妙に応えたところで、とうとうイアンが軽くキレる。

「そのウジウジしてんのをいい加減止めろ!うざってえんだよ!男なら済んだことグジグジ引きずってんじゃねえ!」
「ッ す、いません」

そうは言っても、昨夜さっそくタラ教授が深夜までかかって引継ぎを終えても
やはりアレックスとイアンが元の姿に戻れる時期は早まりそうにないという結論だったのだ。

「でも僕、本当に買ってきます。明日もレンタルじゃ困りますもんね。同じブランドでいいですか?イアンさん」
「さっきのは冗談だよ、そんくらいてめーで買うから気にすんな。アンドリューお前。もう、そういうのはいいつってんだよ」
s3-13 (5)
「・・・?」

イアンがさらに何か話そうとしたところにタイミング悪く、アレックス夫妻が珍しくやってきた。
早朝の波乗りをしているイアンを夫婦揃って見たことはあれど、こうして合流したことなどない。
もちろんその理由といえば・・・

「おはよう2人とも。それでアンドリュー、昨日の夜はどうだった?完成時期は早まりそうかな」
「あ、おはようございます。その、それは」
「ダメだってよ」

言い淀みそうになったアンドリューの言葉をイアンはあっさり続けると、アレックスは溜め息。
しかし意外にも昨日のような動揺はもうなさそうで、
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「そうか。まあ、不可能じゃないならいい」
「だな。にしても一晩で随分落ち着いたもんじゃねーか、お前」
「まあね」

何故だかアレックスは機嫌まで良さそうだ。
妻エリンがアンドリューに今日のダイアナの体調について尋ねている隙にさらにイアンは問い詰める。

「で?なーにをエリンに言い含められたんだ、お前は」
「言い含められてなんかない。まあ・・・昔女性とデートしたこともあるから、こうなったからといって失望はしな」
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「アイツ、マジかよ!!」

アレックスの話を即遮り、ギン!とイアンは即反応する。
その声と、妙な視線で自分を見つめてくるイアンにエリンはぴくりと片眉を上げて

「・・・ちょっと。何をあなたたちは話してるのよ」
「お前両方イケんのか。なんで隠してた」

それで昨夜のアレックスへのフォローの嘘が、
思いもよらぬ形で男たちの妄想のネタになっていることを察しエリンの怒りが爆裂する。

「アレクサンダー!どうしてそう、どうでもいいことばっかりイアンに言うのっ」
s3-13 (22)
「エリン、別に俺はそういう意味で言ったわけじゃあないよ」
「うっせえな、夫婦ケンカなんざ後でしろよ。じゃあお前ら昨日の夜は女同士でヤ」
「るわけないでしょ!!」

どっかーんとさらにエリンの怒りが爆発するが、
イアンはからかいながらも聞きだそうとさらに絡んできた。

「エ、エリンさん抑えて・・・」
「私!?抑えるべきなのは私!?アンドリュー!」
「はい・・・っ!あの、イアンさん」
「てっめえ、アンドリュー男の癖に女の側に立つのか!」

こういうとき、ちゃっかり黙りつつ流れを見守るのはアレックス。
「ごめんね、エリン」などと言いながらも、その胸中ではやはりエリンの女性同士の・・・を非常に聞きたい。
s3-13 (24)
イアンにさらに「で?ホントのところはどんな感じなんだよ。デッチ上げでもいいから言ってみろよ」と言われ、
エリンは苛々としながら、

「イアン、あなた会社の立場もあるのにそういう偏見もってたとはね」
「はあ?誰がそんな小難しい話してんだ。そもそも男でレズもの嫌いな奴がいるわけねえだろうが!!」
「だからそういうのを言ってるのよ!」
「エリン。俺はそういう偏見はないよ?」
「アレックス、あなたね!あなた、そーゆーところが結局実はイアンに似てるのよ!!」
「なっ・・・俺の一体どこが!」
「揃って聞きたがってるじゃない!!」

ぎゃあぎゃあとロバ三人が言い争っているところでアンドリューは自分への視線を察知して激しく動揺した。
シムボットの彼の場合、それが誰からのものなのかもすぐに理解してしまう。

「あっ、マリア、さん」
「・・・・・・・・」
s3-13 (14)
彼女から見れば、この光景はどのように映ってるか。
大変なミスをして落ち込んでるんですと長電話をした翌朝、
普通なら待ち合わせなんていう時間じゃない早朝にアンドリューを囲むのは美女美女、そして美女。

「あっ、これは!違うんですよ!これは!!」
「・・・っ・・・ふぅ~ん。
 珍しく落ち込んでるっていうから気分転換に本でも差し入れしてあげようとか思ったけど。必要なかったかー」

それは電子書籍にもなっていないようなマイナーなもので、
マリアのコレクションの中にある少々歴史ある古書らしき本が一冊その手の中にあった。
彼女はにっこりと笑ってはいるが、その場にいる全員が彼女が笑ってないことはわかる。

「気にしなくていいよ、友達としてお見舞いに来ただけだし邪魔するつもりもないしぃー。読んでみてよ。じゃね」
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「マリアさん!この人たちは」
「え?なに?」

他のデート相手が互いにいることくらいは察してるが、そいつを紹介するのはルール違反だろうとマリアの声は低い。
非常に焦りながらもアンドリューはイアンを示し、彼女に紹介する。

「マリアさん、・・・・僕の父です。イアン、です。こちらはマリアさんです」
「やあ、どうも」

さらっとイアンの長い茶色の髪が揺れ、・・・・胸が揺れる。

「で、こちらはあの、僕の隣家に住む元公爵のアレクサンダーさん、と奥方のエリンさん。です」
「こんにちは。はじめまして」
「・・・・・・」

アレックスはきちんと挨拶を口にしたものの、エリンは何も言えない。
イアンや夫はアンドリューの顔を立てたつもりで挨拶したようだが、内心「男のこういうところはバカよね」と冷ややかになる。
そしてマリアはといえば・・・・

s3-13 (15)
「へえ!お父さんのあのイアンさんと、お隣の公爵様に奥様!?お話は少しだけ伺ってますよ~。
 実は昔ぃ、アレクサンダーさんがお店にいらしたときに対応させていただいたこともあるんです~」

ああ、そう!などと愚かな男たちが安堵して一瞬緩んだ隙に。
シムボットのアンドリューには平手打ちなぞじゃ効きはしないだろうと、機転の利いてるマリアの鞄が
彼の顎を目掛けてフルスイングで宙を舞った。








「・・・ま、あのくらいじゃないと効かねーよな」と、イアンがぽつり。

”息子”であるがゆえ普通に挨拶はしてみせたが、
どこの世にこんな美女である自分を父なとど紹介されて馬鹿にされたと思わない女がいるか。
アレックスはああいった女性の暴力は目の当たりにしたことがないので露骨に眉をひそめてはいたが、
甥のデート相手であるので無言。
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なので「アンドリュー、すぐに追いかけなさい。ちゃんと説明してこないと無理よ」とエリンがお節介を発揮するが
イアンは「余計なこと言うな」とそれを止めた。
エリンはすぐに唇を尖らせるものの、イアンの言うようにアンドリューすぐには動かない。

「━━・・・・・」
「アンドリュー?説明してあげないと!」
「そんくらい、こいつも自分で決められるだろ。いくらなんでも踏み込みすぎだ」

エリンはやっとイアンの意図に気づいて口を噤んだ。
やはり”現役”から退いて長いぶん、お節介が過ぎてしまったと「そうね」とエリンはあっさり引っ込む。
単なる遊ぶためのデート相手の1人で失ってもしょうがないといえる程度なのか、
引き止めたいと思う程度ではあるのか、それとも━━・・・・。
己の人生の選択を決められるのはアンドリューだけだろう。

しかし当の彼はちょっとだけ戸惑っている色ながらもイアンに向かって微笑みながら、
マリアが現れる以前の話題に無理やり戻す。

「イアンさん、ウェットスーツなんですけどブランドはやっぱりいつものと同じのがいいですよね?」
「あのなアンドリュー。今回の失敗でもそうだけどな、誰かに従うことで物事をやりすごすのはいい加減やめろ。
 いいこぶって思考停止して誤魔化してんじゃねえ。お前。本当は今、どうしたいんだ?」
s3-13 (16)
「でも僕は」
「いいんだよな、それで。本当に」

意図などしてなかったんだろうが、このアンドリューも昔のダイアナによく似ている。
よい子でいること。
彼の場合は『シムボットであること』ということに自分を納めてしまってる、それが彼の殻。

「・・・━━」

これでいいのか。
物理計算だのと違って、人との係わり合いに絶対正しい答えはないのだ。
s3-13 (6)
自分はどうしたいのかをアンドリューは考える。

「僕。ちょっと、飲み物買ってきます」
「おう、頼むな」

そう話す彼らの足元にはアンドリュー自身が持ってきた飲み物があったが互いにそれらを平然と無視しつつ、
彼はそのまま店だのがある方・・・
マリアが去っていった方へと進んでいった。
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「「「・・・・・・・・」」」

ここでアンドリューが普通の人間なら、
このまま既婚の彼らの格好の軽口のネタになるだろうが思わずにいられない。
シムボットであるがゆえ、彼の恋路はどこまで安穏としてゆけるのだろう?
残された3人が一様に押し黙る中、口火を開くのはやはりイアン。

「ま。俺らができることは何もねえしな」
「そうだな」
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アレックスも相槌しかうてない。
しかしエリンは「ね。アンドリュー、このあと仲直りして帰ってくると思う?賭ける?」などと軽口を展開した。

「お前なあ」
「エリン」とアレックスまで諌めるようすを見せる。

本当に男はバカね。
アンドリューの心配ばかりが先立ってイアンまで気づいてない。
エリンはそんな彼らをからかうように笑いかけ、

「何を心配する必要があるの?あのマリアちゃんてコ、女の子達にあんなに思いっきり妬いてたんだから
 別にアンドリューがシムボットだから・・・、っていう心配はいらないじゃない?」
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「お。そういやそーか」
「・・・。そうだね」

彼の”父”イアンは視野狭窄だったと、心の底からほっとしたように息を吐いた。
そしていつもの調子に戻る。

「で、だ。てめえ、よりにもよって”女の子”達、だと?」
「なによ。あなただって、そーんなナリしてるくせに」
「エリン?ナリなんていう言葉はやめておこうね」

「俺が言ってんのは、どこの誰が”女の子”っつー歳だってんだつってんだ。こーの三十路過ぎのオバ」
s3-13 (25)
それをイアンが言い終わる前に、
今度こそキレたエリンは砂を持ち上げると彼の顔に向かって容赦なく投げつけた。
アレックスはそのまま2人を放って、ちゃっかり砂浜のジュースに手を伸ばした。





「マリアさん!」
「・・・・・・・・・」

名前を呼ばれようが、ずんずんずんと無視してマリアが怒りのまま進んでも
回を重ねるごとにアンドリューの声は近くなり・・・・滑らかにマリアの元へと近づいてゆく。
捕まらないようにしていても簡単にアンドリューの手は自分の腕に。

「っ、離してよ!こういうの、何なの!?」
s3-13 (30)
「さっきの、僕の嘘だと思ってますよね。離しません」
「何よ、あれっ。あんなくだらないこと言うなんて、もしかして酔ってる!?オールでもしてたんじゃないの!」

飲食できないアンドリューが酔うわけないやと冷静な脳みその部分は言うが、収まらない。
・・・こんな朝早くにピクニック準備までしてあげて、サーファーの女もいた。
昨夜、嬉々としてアンドリューを慰めてやったのが本当にバカみたい。

「アンドリュー、落ち込んだのが本当かどうか知らないけどさーあ。
 昨夜あの人たちと一緒にいて電話でもあたしと話してさぁ・・・・・あたし悪いけど、こーゆー振り回され方って無理だから。
 マジで落ち込んでるんじゃないかと思ったのにホンット気分悪い」
s3-13 (31)
そういうその辺りの男と違って、アンドリューだけは、純粋で、少年みたいで、
それで
それで
他の女の子とかと遊んでようが、ココ一番ってトコではアンドリューはあたしが一番ってはずだったのに、
あんな大嘘ついて、マジに慰めてあげたなんて!
ばかみたい、ばかみたい!

「二度と連絡してこないで。・・・・離してよ!」







「で。私は仲直りするから、そのままアンドリューは戻ってこないに500$ね。!」
「レート高いね、エリン。でも俺もいままで通りに仲直りするほうに賭けたいけど、あの様子じゃすぐには無理かな。
 今日のところは現状維持で1人でひとまず戻ってくる。かな?」
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アレックスは穏やかに語ると、エリンが賭けたのと同じベットの金額を呟いた。

「意外にそういうところであなたイジワルよね、アレックス」
「そう?だって、ああいう様子になった女性を宥めるのは中々大変そうだろう?」

ここはじっくり時間を掛けるタイプのアレックスらしい観点。
すかさずエリンは「それは私のことも含めてるのかしら?」などと夫婦で軽く戯れた。
そしてエリンに砂まみれにされたのを海で流してきたイアンに、アレックスが声をかける。

「イアン、お前はどうする?」
「んなもん。すぐに連れ戻してくるに1500$に決まってんだろ」
「強気だな」
「”父親”に、あんな大嘘の見得切って飛び出したんだ。そこまでできねえでどうすんだってんだよ」
s3-13 (42)
イアンは口の中に入った砂を最高にかっこつけた角度で吐き捨てた。















「いいから話を聞け!」

その声音にも、音量にも驚いて、マリアの頭からまず怒りが吹き飛んだ。
でも驚きはそのまま、目を丸めて声を荒げた彼━━アンドリューを見つめる。

「昨日僕が、やらかしたって言ったろ!?ホントに、”アレ”が、イアンさんでアレックスさんなんだよ!」
s3-13 (33)
「は・・・はぁ?」
「信じられないならいい!実物見せるから!来て!」
「ちょ、ちょ、ちょちょ」

知り合って数年来、敬語も恭しい態度も投げ捨てたアンドリューにとっさに対処できない。
アンドリューが腕をひっぱろうとしてもマリアが反射的に抵抗してみせたので、
彼はなんと彼女を抱えあげた!

「わ、嘘でしょ?!降ろしてよ!」
「絶ッ対に、降・ろ・さ・な・い!!」
s3-13 (35)
これに怒・・・れるわけもなく、かかかかとマリアの顔が真っ赤になる。
早朝でよかった、これが真昼間だったら夏のビーチへ向かう人ごみのなか、とんでもないことになってたに違いない。

心臓が苦しいくらいに跳ね上がってく。
最高に照れくさい気持ちのまま、
マリアはアンドリューの手によって再びイアン達のもとへ輸送されてしまった。

到着すれば「あら❤おかえりなさい」と完全にニヤニヤという声音でエリンが2名をお出迎え。
アレックスが穏やかに「仲直りはできたのかな」と婉曲ながら自分たちの賭けの結果を尋ねる。

「・・・・まだだけど、します!」
s3-13 (45)
口調をいつもの通りに戻したものの、アンドリューの声音はなんだか普段とは明らかに変わっている。
そしてマリアはやっと降ろしてもらったものの真っ赤のまま言葉も出ない。
しかし彼女は先ほどのようには逃げない。

「で、マリアちゃんは納得したのか?コイツの説明で」
「~~~なんかもぅよく分かんないんですけど、勢いで連れて来られちゃったっていうか、わかった・・・ような?
 ていうかああいうのズルくない・・・・ズルくない・・・・

イアンの問いに、まだ真っ赤のままマリアはぶつぶつと何やら呟いている。

「でもまあ、あそこまでアンドリューが言うならうそじゃあないのかもしれないから・・・って思ったんです・・・」
「ほーう。なるほどなるほど」

ホントああいうのズルいよ・・・・ズルい・・・・
s3-13 (46)
「ちょっと僕たち、うちの研究室に行ってきます。ちゃんと見せないと納得してくれないみたいなので」

アンドリューはマリアの手を引いてイアン達の自宅地下のダイアナのラボへ大またで歩いてゆき、
その背中に彼らは呼びかける。

「おう。つかタラはまだ起きてんのか?完徹だろ、そこまでしなくていいってつっとけよ」と、イアン。
「そうだな。ちゃんと休んで働くようには言っておいてくれ、アンドリュー」と、アレックスも同調。

十二分に彼らが距離を取ったところで、
イアンが低く呟いた。

「お前ら二人。現金で明日までに払えよ」

エリンが悔しげに指を鳴らし、アレックスまでも大げさにため息をついた。



→第14話

第12話 男の値段 Amina Ⅰ

※つわり表現ありますので飲食中の方は注意。なお症状・対処は人それぞれであり、当作品はフィクションであることをご了承下さい。

←第11話



ダイアナは妊娠を自覚した途端にツワリが始まった。
なので残念ながらアレックスの復帰記念には欠席し、忠実なるシムボット・アンドリューとお留守番。

そして体調がさらに悪くなる前に・・・と自宅の研究ラボにて休みながら
アンドリューに片付けの指示をしている。

「んもー・・・・せっかくいいところまで行ってたのにな~・・・・う~気持ち悪~い」
「すっかり口癖が『気持ち悪い』になっちゃいましたねえ。リズさんに借りてる漫画、途中でしたよね。寝室で読みますか?」
「文字読めないからいい~・・・うー気持ち悪~~~~い・・・・んもー・・・んもー・・・・」
s3-12 (2)
アンドリューは分かりました、と漫画の束を整える。

「オーナー、お昼ごはんは何なら食べられそうですか?」
「・・・・・。・・・・・りんご」
「はい、分かりました。漫画はリズさんに一度返しておきますからね」
s3-12 (1)
「うん、お願い」

そしてリビングへ行くとダイアナが「う・・・・・」と顔をしかめ、ヨロヨロとお手洗いへ歩いてゆく。
アンドリューは慌てて地下のラボから持ってきた瓶をテーブルへ置いて、素早く彼女に寄り添った。

「大丈夫ですか、オーナー」

この数日、果物とくらいしかまともに食べられていない。
どうして?食べないと赤ちゃん育たないんじゃないの!?栄養摂らせようよ、人体!もっと身体簡単に切り替えてよ!
・・・と、自らの妊娠体の矛盾を全身の細胞たちに訴えてもどうしようもなく・・・・。
早くも感情のふり幅も大きくなってしまっているダイアナはうっうっうっと半べそになり、

「つらいよ・・・こんな弱いんじゃ、あたしママになんかなれないよ・・・・」
s3-12 (9)
「大丈夫。大丈夫です、オーナーはとっても素敵な僕のお母さんですよ。ね、おちびさん?」

心配しつつも笑顔のアンドリューに励まされつつお手洗いへ。
そこへすっかり正装を崩したイアンとアレックス夫妻が帰宅する。

「ただいま。おーい」

ダイアナいるかー?と尋ねようとしたイアンの問いは、
お手洗いの方面から響くダイアナの「おえええええ」という声で止まる。

「・・・・またか。ちょうど薬が弱くなり始めるとアレが出るんだよ。夕方の薬前だからな」
「かわいそうに。風邪なら1週間程度で収まるけど、それよりも続くんだろ?」
s3-12 (10)
「ああ。場合によっちゃ産むまで続くんだと。終わればいいけど、こればっかりはどうなるか」
「そんなにか・・・」

心底ダイアナを心配したアレックスの呟きが響く。
エリンが記憶喪失のときにあった激しい兄妹喧嘩は、ケンカした当日にエリンの記憶が戻ったこともあって
アレックスが詫びる形で収まっていた。
言い合いしたとはいえ叱ってくれる存在をありがたいと思える程度には彼もちゃんと歳を重ねている。

「ダイアナが何か食べられるものは・・・・ああ、一通り揃えてはいるみたいだな」
s3-12 (13)
妹の食生活を心配したアレックスの言葉は、
キッチンにどっさりと盛られた高級スーパーの段ボールの山を見て飲み込まれた。
「あんくらいしか周りにはできねーからな」とダイアナに最善を尽くしまくっているイアンである。
そこで”まかせて!”とばかりにエリンが腕まくりのジェスチャーをしてキッチンへ乗り込み始めた。

「待て待て待て!目離したスキに何してくれようとしてんだ、お前!油断を隙もねーな!」
「なによ。せっかくだからスープでも作ろうと思ったんだけよ。妊婦さんだからハーブは使わないし普通のよ」

イアンが心配しているのはそこではない。

「ダイアナが1階にいるときはキッチンは使用禁止」
「どうして?」
s3-12 (15)
「すっげえ匂いに敏感になってんだよ。ディランみたいな目に遭いたくなければやめとけ」

そういえば1階にあった子犬のディランのサークルがごっそりなくなっている。
イアンの深刻な顔に、エリンも同じようなトーンになりながら「一体あのコどうしたの?」と尋ねる。

「今あいつはアンドリューの部屋で暮らさせてるから心配はすんな。
 まあ何があったとかいえば・・・一昨日ダイアナがじゃれてくるディランを抱っこしようとして前屈みになってだな。
 犬の匂いってのがあんだろ、あれで」
「イアン、皆まで言わなくていい。予想が付いた」

アレックスが首を振りながら本当に聞きたくなさそうにイアンの詳細描写を止めた。

「あんな地獄絵図見たことねーよ。
 ディランは悲鳴上げながらサークル脱走して逃げ回るわ、ダイアナは謝りながら大泣きするわ、
 アンドリューはパニくったディラン捕まえるために家具持ち上げまくるわ、挙句ディランは俺に飛びついてきてな・・・・」
s3-12.jpg
カーペットとソファを入れ替えさせたと彼が語る傍ら、
アレックスはダイニングテーブルからミネラルウォーターの瓶を手に取っていて「もらうよ」と声をかけた。

「ああ。俺も飲む。エリン、お前は?」
「私はいらない」

「だから少ししかお酒も飲まなかったのね、イアン。そういえば香水も付けてない?」
「そんくらいしか協力できねーからな・・・・できるのは買い物だの食い物どうにかすることくらいでな。
 抜本的な解決策なんざなんもできねえで、無力すぎて情けねえよ」

イアンは買い替えたての豪奢な家具や食材を身振りで示した。

「そう思ってくれる奴が傍にいてくれるだけで安心はできるよ、イアン」
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ダイアナの兄としてアレックスが微笑みながらダイアナの気持ちを代弁した。
そこへ大仕事終えてグッタリ・・・といったダイアナがアンドリューとともに戻ってきた。

「あ~~~おかえり~~~、みんな~~」
「おう。そろそろ薬切れてきたか」
「んー・・・・・」
「また渋ってんのか?ダイアナ、お前考えすぎなんだよ。医者が飲まして悪いモンなら出すわけないだろ。
 医者も言ってただろ、ストレスを貯めるな。いいから飲んで寝とけ」

カウンターにあった薬を手に取って、先ほど飲んだミネラルウォーターの瓶を手に取ろうとする瞬間。
聞いたこともないような大声で「ちょっと待ったぁッ!!」とアンドリューがそれを止める。

「イアンさん、テーブルの上の瓶はどうしました!?まさかそれ・・・・ そこの!テーブルにあったものを飲みました?!
 僕、そこに置いておいたやつです!」
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「・・・え"。 ラボから持ってきたやつっ!? イアン、あれ飲んだの!?」

ダイアナの顔がひきつる。
そして満ちるは、その瓶に入っていた水━━ではないらしい何か既に飲んでしまっている男2人の重い沈黙。
ふんわり美しい金髪を揺らしながら、既に数回の被害者となっているエリンなどはごくごく平然と、

「あら。今度は一体何を作っちゃったの?ダイアナ」
「えっ、あ・・・・・いやあ・・・・まあ、飲んでも普通にお風呂に入る分には大丈夫だし・・・イアンはちょっと暫く
 サーフィン我慢してもらって・・・」

「ダイアナ、俺も飲んだんだが一体何なんだ?」
「えっ?!アレックスも・・・・。うん・・・危険は一切なくてね。プールとか海とか水風呂とか控えれば平気だから・・・・」
s3-12 (18)
ごにょごにょごにょ。
よほどマズイものなのかダイアナは答えない。アンドリューも同様に目が泳いでる。
ここで察しのいいイアン、ちょっと眉を動かす。

「・・・・水か」
「えっ、あっ・・・いや~~まあ、だからね。あのね。あったかいシャワーとかお風呂は平気だから・・・・・ゴニョゴニョ」
「アレックス。間違いだったら許せよ。間違いじゃなくてもキレんな」

宣言したのと同時に、イアンはまさかという気持ちのまま何とコップの水をアレックスにぶっ掛けた!

「っ!?」
s3-12 (20)
「きゃっ」 
 「「あああああああああああああ━━━━っ!!!!」」

水しぶきに気をとられて可愛らしく叫ぶエリン、ハモるはアンドリューとダイアナの大声。
即座に顔が引きつるイアン。
一方でこのイアンがしてきた意味不明でありながら無礼な行動に、当然誇り高きアレックスはブチ切れる。

「一体何をする!」

反射といってもいいキレで、アレックスも自身のコップの水をイアンにぶっ掛ける!

「ッ!てめ」
「「あああああああああああああ━━━━!!」」
s3-12 (19)
ぼた、ぼたぼた・・・・水を掛け合ったとはいえ、ほんの少量。
互いに顔を見合わせながら・・・・・

「な、な・・・・な、な、な、なな、な」
「うそだろ、うそだと言えよ、オイ」

━━━━まとわり付く髪の気配と、
イアンの変貌にやっと自身もどうなったのかを悟ったアレックス。

男2名は壁に埋め込まれているキッチンの鏡へ我先にと駆けつけて
互いにもう一度、その姿を見合った。


















s3-12 (22)


s3-12 (24)





そしてアレックスは床に崩れおちた。
イアンは鏡の虚像にぶん殴られたかとでもいうようにフラりと揺れて、揺れ・・・
小さく独り言を言い出す。

「俺は・・・俺はな・・・
 俺らの子供には世界一のオヤジになってやろうとか思ってたんだよ・・・・
 わかるか・・?その決意が・・・」

あらららら、とエリン。
夫に駆け寄ろうとするが「来るな・・・来ないでくれ、エリン」と指先まで震わせながら床に跪いている。
とうとうイアンが叫んだ。

「これじゃ世界一の美女だろうがっ!!!」
s3-12 (27)
イアンは堂々と世界一と言い切った。





事態をとりあえず、理解したイアン。
そしてエリン。
となると一同の視線が集まるのは勿論こんな状況を絶対に承服などできないであろう人物へ・・・・

「・・・・━━━━━━・・・・・・・・」

妻に完全に背中を向けた、
高潔なる(元)公爵の、自らに爪を立てている白い指はわなないている。
その表情はイアンの方向からも長い艶やかな髪に隠れて全く見えない。
s3-12 (29)
流石にまずいと「あ、あのね、アレックス・・・」とダイアナが呼びかけるが、
彼(彼女とは表記しがたい)はそんな妹に向かっても首を振るだけ。
さらには手のひらだけ向け、『今は・俺に・話・かけて・くれるな』と全身で訴えてきた。

その対応に、じわじわとダイアナの大きな目が潤んでくる。
今度はそちらにエリンとアンドリューがひえっと焦りに焦った。妊婦にストレスは大敵。
「わっ、わざとじゃないものっ!ダイアナ!事故よ、事故!!」とエリンが叫ぶ。

「僕のせいです!! オーナーは赤ちゃんできたからって、ちゃんと発明品を片付けようとしてたんですから!
 今夜すぐに廃棄場に行くからって適当な空き瓶に薬入れて、そこに放置したから完ッ全ッに僕のせいなんです!
 イアンさん、アレックスさん!!気が済むまで僕を殴ってください!」
s3-12 (31)
直後はさすがに動揺してみせていたものの、
そいつをダイアナへの愛ゆえに丸呑みしてみせるのは勿論イアン・グレンツである。

「っ・・・事故ならしょうがねえな!」
「そうそう!しょうがないわよねっ!!」

はっはっはっと発声は男らしいが完全に女のイアンの笑い声が、エリンのそれとわざとらしい明るさで重なる。
そしてアレックスがやっと顔を上げて、
しっかりとした足取りでダイアナのもとへ。

「だいじょうぶ。ダイアナは気にすることないよ」
s3-12 (32)
なんとか持ち直したかと内心安堵のエリン。
その微笑みは、いつものアレックスのごとく柔和で優しく・・・残念ながら、実に女らしいと形容せざるを得ない。

「事故ならしょうがない。驚いたけれど気にしなくていいからね?」
「でも、アレックス・・・・」
「うちにいた頃から色々してたからね、少し懐かしいよ。・・・・・・ただこの格好は見苦しいから着替えてくる」

びしょ濡れなうえ、紳士服はダボついてイアンとアレックスの身体を包んでいる。

「アレックス、イアンも。ごめんね、本当にごめんなさい」
「大丈夫だって言っただろう?これは事故なんだから。
 ・・・ただしアンドリューは後で改めてお説教だよ。危険物を扱っていたなら最後まで管理はちゃんとしないとね。
 どんな状況であっても。物によってはこの程度じゃすまないかもしれないだろう?」
s3-12 (33)
その言葉にアンドリューはただただ「すみません」と小さくなるしかない。
ダイアナの体調を心配して離れてしまったが、ダイアナは一人でも対処はできた。
危険廃棄物の管理責任はちゃんとしなくてはいけなかったんだ。

そうして兄としての威厳をギリギリ保ってみせたアレックス、
大混乱はひと段落したかという中でついイアンがニヤリとからかう。

「ホント似てんだなぁ、お前ら。姉妹となると」
s3-12 (34)
瞬間、電流に打たれたかのようにアレックスの身体が大げさに揺れ・・・・
微笑はそのまま一同にゆっくり語りかける。

「━━━━・・・・・あとでどうやって戻れるのか話をしよう。すぐ戻る」
「あ、じゃあ私も戻」
「大丈夫だよ、エリン。ここに居てくれ。着替えだけだから」

一緒に戻ろうとした妻エリンにきっぱりを宣言し、アレックスは普段は見せないような早足で庭へと出て自宅方面へ。
その動きだけでアレックスが無理矢理その動揺を押さえ込んでいるのが丸分かり。
申し訳ないダイアナは頭の気持ち悪さが頭痛に変わりつつある。

「・・・・アレックス、大丈夫かなー・・・ああ、もう。どうしようー・・・イアンも本っ当にごめんね」
「ま、もう起きちまったもんはしょーがねえな。これであいつも少しは器のでけえ男になれんだろーよ」
「女の身体になって男の器ってどういうことよ。あのひとにトドメ刺したのはあなたよ!
 自分だってダニエルちゃんとソックリじゃないのっ、バカっ!」

エリンはアレックスを追いかけた。
s3-12 (37)

「・・・・イアン、だいじょぶ?」
「ま、いーさ」

イアンは軽くそう言って、そのままいつものようにダイアナの腰に手を回しキスすらしてみせた。
するとダイアナのほうがまるで知らない女性にされているみたいで、
ついつい照れ笑ってしまいイアンもそれが狙いかのように大きな笑顔を返す。

すっかり女性に変貌をとげたイアン、”威風堂々いつも通り”を続けているが
内心まったく動揺していないはずがないだろうとアンドリューが精一杯のフォローの言葉をかける。

「・・・・あの。イアンさん、確かにすごい綺麗です」
「だろ?さすが俺だよ」
s3-12 (36)

イアンはニヤリと笑ってみせた。








一見、古風な様式ではあるがセキュリティーは万全のアレックス夫妻宅。
ぴ、とアレックスの指紋を問題なく読み取って庭の扉が開いたところで、彼は運悪く執事モナと出くわす。

「っわ!?な、なに!?アンタ! ・・・じゃなかった。どちらさまでしょうかっ?!」
「・・・・・・モナ、何も言わないでくれ」
「へっ!?あっ、あの・・・・あれっ、待って、待ってください!」
s3-12 (38)
あたしの知らないひとだし、でも指紋認証で通過してるし、っていうかあたしのこと知ってるし、・・・と
執事モナがアタフタアタフタとしている隙にアレックスは自分達の主寝室がある2階へ向かうため、早足でエレベーターへ。
この正体不明の紫髪の女性に執事モナは『元公爵の本邸に侵入者だ!』とようやく考え付いた。

「待ってください、勝手に入らないでください!」
「モナ。何も言うなといっただろう、放っておいてくれないか」
「なっ、なんであたしの名前知って・・・・・あ、アレックスさんの身内?・・・のかた?でしたっけ?アレ?」

執事として雇ってもらっている身である以上、モナはネット等で過去の記録を辿りに辿り、
直接面識はなくとも”アレクサンダー・サウス公爵”の関係者の顔と名前はしっかり暗記してある。
一番最初にすごく頑張って覚えた!

「・・・・・・・・」
「あのー・・・まずお名前を教えてくださいませんか・・・」
s3-12 (43)
・・・しかし、どうも見覚えがない、・・・・でもこの紫色の、髪。
随分な美人だから暗記漏れしなさそうだし。

「モナ。そこをどくんだ」
「でも、・・・・お名前を答えてもらわないと、あたし。どけません」
「・・・・・・・・」

すう、と大きく息を吸い、2呼吸分だけアレックスは待ってやった。
それでもモナは意地でもどかず、最後に吐く息は苛立ちで微かに震えた。

この、サウス家第12代当主である俺が住まう屋敷で・・・ 主である俺が使用人のお前に名乗れと?
この嘆かわしい哀れなる姿で?
モナの戸惑いへの思いやる余裕もなく、とうとうアレクサンダーの自尊心が八つ当たり同然に小爆発を起こす。

「下がれ、と言っている!」
s3-12 (41)
怒鳴られたわけではない。
しかし毅然たる命令のその凄みにモナは喉奥で「ひ」という悲鳴のような音を立てて、逃げるように通り道から退いた。
エレベーターの扉が閉じた直後、「えっ、あ、ああああ!しまった!!」とアワワワ。
階段で追いかけようにも先般のエリンの落下事故以来、通行止めロープを張ってしまっており、跨ぐのに再びアワワワ。

「あの!」

やっと2階に到着した執事モナが声をかけた直後、バタン!と大きく寝室の扉が閉められてしまって血の気が引く。
だってだってすっげ怖かった、すごい怖かった!
見ず知らずの人からの命令だったけど従わずにはいられないくらい怖かったんだ!

「うっわあん!やべえよぉ━━━━!!どうしよう!」
「モナ!?どこ!?」

追いかけてきたエリンが2階の廊下を見上げてる。
s3-12 (44)
もしかしたらアレックスさんには異母妹ダイアナのように異母姉とかいるんだろうかと
執事モナは縋る気持ちで半泣きで彼女に呼びかけた。

「エリンさん!すいません、いま何か知らないひとが来て勝手に寝室に入っちゃって、あたし止められなくて!」
「それ、アレックスよ!」
「へっ!!?いや、女のひとですよ!?スラッと背が高めで、こう髪が紫で、長くってですね」
「だから、それがアレックス、な・の!!」

ひく、と執事モナの頬が引きつる。

「まーた記憶どうにかなっちゃったすか」
「違うわよっ!ダイアナとアンドリューがやっちゃったのっ」

隣家のアレックスの異母妹ダイアナが発明家であり、
色々しでかしたという思い出はもうすでに聞かされていたが最初こそ冗談だと思っていた執事モナ。
ところが先日のエリン夫妻の双子を初めとする4人が『へんてこな機械』へ飛び込んだと思ったら姿を消してしまうという、
ありえない光景を目の当たりにしたところでやっと事実だと飲み込めたのだ。
s3-12 (45)
「・・・・・え、うそっ。マジですか!?」
「マ・ジ・よ!!」

のんびりとしたチャイムが響き、エレベーターがエリンのために再び1階へ着いたことを告げた。
もちろんエリンは永久階段使用禁止なのである。








「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

鏡の己の姿を、再び祈るような気持ちで見つめる。
自分が頬を触れれば鏡の中の女性が同じ動作を返し、顔を近づければ彼女も同じように近づいてくる。

・・・・近づいてくる。
近づいて・・・・
ごん、とアレックスはその額を強くぶつけた。
s3-12 (47)
痛みがある。
悪夢ではないのか。
本当に女にされたのか。
なんてことだ。









一方ドアの向こうでは寝室の中に入れず、エリンとモナが耳をそばだてている。
寝室は全くの無音・・・・静寂。

「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」

チク
タク

チク
タク

廊下の壁時計が余計に静寂を際立たせる。

チク
タク

チク
タク

チク
タク

「ア、アレックスさん、・・・死んでたりとか、ない、・・・ですよね?」
「何を言うのよ。そんなことあるわけないでしょ」
s3-12 (73)
「エリンさん、入らないんですか?」
「入れるわけないでしょ、私に一番見られたくないんだから」

夫アレックスから寄せられる愛を存分に自覚しているエリン、そして執事モナは心から納得する。


チク
タク


チク
タク



チク
タク


チク
タク


チク
タク



チク
タク



瞬間。



















「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!」


爆発したのかと思うほどに、モナとエリンの耳の鼓膜が麻痺した。

アレックスは恥辱と無念と自尊心がゆえ人にはぶつけられぬ憤怒を大爆発させ、
自分のクッション(ここでエリンのものを決して使わないところが彼足る所以である)でベッドを殴り、殴り、殴り!殴りに殴る!!

「何で俺が、俺が俺が俺が俺が!!!!俺が!!!!!」
s3-12.gif
それでも我慢できず、
さらに枕でベッドだけじゃなく床をも殴りに殴って殴って殴って叫び続けた。

「あの野郎!!だっれっがっ姉だ!誰が姉だ!誰が姉だ姉だ姉だ!」

あの野郎、ふざけやがって!誰が姉だ!
大体あいつが薬をかけずに水をかぶるなんてことしなければ、こんな目にあわずに済んだのに!

ベッド、床、ただし小物が置いてある場所だけは避けつつも、
アレックスは殴りに殴り、殴り、殴り・・・・続ける。



時間にすればそんなに長くはない。
ぜえぜえぜえと肩で息するようになってそれは収まり、クッションから零れた羽毛が部屋中に舞う。

「・・・・・・・・・・」

羽毛が、わずらわしい。
s3-12 (49)

数回それらを払うように片手を宙で振ったのち、
アレックスは定位置に収納してある寝室用の掃除機を出してブチギレの証拠隠滅を始めることにした。






すぐ外で盗み聞きしていたエリンとモナはといえば、四つんばいの状態で寝室から遠ざかった。
そのまま一階へ降り、やっと十分な距離をとれたところで、
執事モナは腰を抜かさんばかりにビビっている。

「ア、アアレックスさんが、ここここ壊れ、こわ、こわこわ、怖い、こわこわこわ、壊れ、こわ」
「大丈夫だから落ち着きなさい!!・・・あのひとにはやっぱりショック大きかったみたいねえ」

「大丈夫なんですかっ!?ホントに、アレ!すごい、声、あれ!」
「逆の立場だったら正直私なんかは面白いって思っちゃうけど、アレックスはねえ・・・
 元々男らしくないって見られるの大嫌いなひとだから。ホラ、顔立ちが優しい感じでしょ。
 それでナメられたり、若く見られたりしすぎるのとか大キライなのよ」
s3-12 (50)
若く見られたい女と逆よね、とエリンは軽く告げた。
それでも執事モナは実に(アレックスの頭を)心配そうな目をしているのでエリンは笑いとばす。

「今も証拠隠滅するために掃除してるくらいなんだからヘーキよ!カッコつける余裕があるじゃない!」
「・・・なるほど」

納得したモナのもとへ、また見知らぬ女性が姿を見せた。
なんとも目を引く、色香が匂い立つような濃い顔立ちの美女がバスローブという姿なのでモナはそれにもびっくり。
零れんばかりの━━━ エリンをも上回る(そもそもエリンもすごいのに)、その肢体にも圧倒される。

「おう。どうだ?あいつの方は。壊れたか?」
「あなたね。私でもあんなのは初めてよ。寝室にお篭りして大声出して、・・・・結構すごかったんだから!」
s3-12 (52)
ぶっ、とイアンは笑いを漏らして、くくくくと低く笑う。
しかしエリンはそんな彼(とやはり表記するしかない)を睨みつけ、

「よくもアレックスに薬ぶっかけてくれたわね。アンドリューは事故だけど、女性になったのはあなたのせいでもあるのよ」
「んなもん、どーせあいつも飲んでたんだから一緒だろ。こっちはあいつのせいで飲ませれたんだ。
 知らずに公衆の面前で海だのプールに入ってたら、大声程度じゃ済まなかっただろうよ
 カントリークラブのサウナじゃなかっただけありがたいと思え。あいつ水風呂好きだろ、ジジイだから」

「ホント口ばっかり回るんだから!それにしてもあなたは随分余裕があるみたいじゃない」
「・・・・いつかは俺も何かされるだろーとは思ってたんだんよ。んな覚悟くらい、とっくの昔にしてる」

でなきゃアイツと結婚なんざできるか、とイアンはわざとらしく顔をしかめて吐き捨てた。

「・・・・・・・・・あのー・・・  こちら、あのー・・・・・まさかとは思うんすけど・・・・」
「どうだ、モナ。突然現われた正体不明の美女に驚いただろ」
「うっわー・・・・マジっすかー・・・・・」
s3-12 (51)
その口振りと会話内容で、すぐに長い茶色の髪の女性がイアンであることが分かってしまった。

「イアン、ダイアナのほうは離れて大丈夫そうなの?」
「誰に訊いてんだ。平気に決まってんだろ。・・・あとな、エリンお前、服貸せ」

「ええ? 元々ある自分の服で過ごせばいいじゃない。メンズなんてでかいんだから」
「上はともかく、このケツがでかくて男モンじゃ歩けねえんだよ、ジャージも何もかも全部な!」

アレックスが去った直後、紳士服だと尻の回りが特に痛いほどにキツく、イアンは慌てて脱ぐ羽目になった。
他の服に着替えようとしたら、一番大きいジャージでも尻がバツバツで下半身に着れるものが何もなかったのだ。
そしてバスローブを羽織り、アレックスの様子を見てくることを言い訳にこちらへやった来た次第である。

「貸してもあげてもいいけど、どうせ一時的なんだしダイアナの服を借りなさいよ。・・・・━━━━・・・・あっ」
「・・・・・」
s3-12 (53)
ボンとしたエリンを上回る胸に、キュと締まったウェストはともかく、さらにボンと出ている臀部。
それはスラリとした体型のダイアナとは完全に対極で、
絶対に彼女の服は入らないだろうとエリンはやっと気付いた。

「やっとわかったか。戻るまでバスローブでウロウロしてるとダイアナが『自分のあるよ』とか言い出すだろ。
どうせすぐ戻んだ。俺もここでついでに借りた、ってことでいいだろ」

俺のほうが出るとこ出てるからお前の服は着れないなどと、妻ダイアナには絶対に言えない。

「・・・・・スカートか、ワンピースは?ダイアナのでも入るでしょ」
「んな女モン着れると思うか!!っざけんじゃねえぞ!」
「いまは女でしょ。大体私の服だって女性モノよ」
「ほーう、そういえばお前も女だったな。忘れてた」

なによっとエリンが怒り、いつものように軽口を言い合いながらも再びイアンも連れて主寝室へ。
いつもならしないがノックをキッチリして、少し遅れてきた「どうぞ」とアレックスの返答を待ったのち入室した。

「あらまあ」
s3-12 (54)
なんとアレックスはまるで子供のようにシーツにくるまっていた。
そこまで落ち込んだかと心配したエリンに、アレックスは暗い顔で理由を告げる。

「・・・・服がないんだ、エリン。どうも・・・自分の今までの服だと・・・」
「女のケツがデカくて男モン入んねえんだろ!!そのくだりはもう俺がやったんだよ!」

イアンがツッコんだところで事態をちゃんと飲み込めた執事モナが呟く。

「そんなに違うモンなんすか?イアンさんもアレックスさんも身体大きいのに」
「マジで全然入らねえぞ。ファスナーが上がんねえんだよ。なんでこんなにこう!出てるんだよ」

イアンは自身の見事な丸みのヒップを振り返り、腰骨を手のひらでパンと叩いてみせた。
s3-12 (55)
「女性は骨盤が違うとか言うものねえ」とエリン。

「アレックス。なっちまったもんはしょうがねえだろ。とりあえずエリンの服着ろよ。
 誰も『嫁の服着やがって、この変態野郎』とか言わねえから」
「・・・・・じゃあ言うな、イアン」

アレックスは暗い顔のまま、イアンを睨んだ。






クローゼットから両名分のパンツスタイルの服を提供したエリン。
”男性陣”2名から『ピッタリしたのはイヤだ』だの言われ、しまいこんだままのものを引っ張り出した。

するとイアン、少しだぶつくウェスト周りを伸ばしたかと思うと、そのまま無言を押し通す。
一拍置いて、そのイアンの行動の意味を理解したエリンはムカーッという気持ちのまま
子供のように彼の背中をどついた。

と、それぞれが首を傾げたり妙にソワソワと落ち着かない様子を見せている。
s3-12 (56)
イアンは屈伸を繰り返し、アレックスすらズボンを左右に揺らし・・・・
そういえば少し前からそんな様子を見せていることに思い当たり、執事モナが「大丈夫ですか?お2人とも」と声をかけた。

「あー・・・・・・・・・なんか・・・」
「・・・・・・・・・・・・」

イアンが珍しく所在無さげな声でアレックスに呼びかける。

「股がスースーする。・・・・よな?」
「・・・。ああ」

モナが不思議そうに頭の周りに?マークを沢山浮かべる。
あら、とすぐに合点がいったエリンは親切に捕捉説明してあげるにした。

「やあね!要するにチ×コがなくって心許ないってことよ、モナ」
s3-12 (57)
「へっ!?あっ!ああ~!なるほど・・・・ ってエリンさん・・・・」
「そんなにあるなしで変わるもの?アレックス」

ズバリでモナに教えてあげた後にエリンが目をキラキラさせて尋ねるがアレックス、苦笑して答えない。
それは妻よりも恥じらいがある女性同然で、実に皮肉な状況である。
なのでイアンがズバリ教えてやった。

「全然違うぞ。むしろ俺からすりゃ何だよコレ。ちょっと動くだけで揺れて気持ち悪ィ」

といってイアンが顎で示すのは自分の胸。
豊かなそれは水が入った風船のように少しの挙動で縦に横に斜めにと揺れに揺れる。

「ノーブラならそんなものよ。明日にでも買っちゃいなさいよ、イアン」
「んなもん誰がつけるか。バカが」
s3-12 (58)
「あのねえ。真面目な話、その大きさだと垂れちゃうわよ」
「どーせすぐ戻んだ。んなもん着ける位なら舌噛みきって死んでやる!」

断固たる決意のイアン。
そしてエリン、ふと考え込む。

「でも股の間に物があるなんて、すごく変な感じだけれど・・・・あなた達男の人には当たり前なんでしょう?」
「・・・。そうだね」
「ふーん・・・」

小学生の女の子のようなエリンにアレックスは相槌くらいしかうてない。
そこで”ひらめいた!”とばかりに、なんとエリンはクローゼットから靴下を取り出して適当に塊にしだした。
モノがあるのが分からないなら試してみよう!

「ちょっちょちょ待って!エリンさん、それはダメっすよ!!公爵家ご当主の奥方がなんてことするんですかっ!はしたない!!」
「だって気になるんだもの。バカね、イアンもいるのにここではしないわよ。ちゃんとトイレでやるから」
「だ━━━━!!そういうことじゃないです!公爵夫人がなんてことするんすか!ダメですって!」
s3-12 (60)
忠実なる執事モナが命を張ってエリンを止めにかかる。
離してよ、いやダメでしょとワチャワチャ揉み合いながら2人はバスルームへ。

「・・・。公爵夫人つか・・・・・・」
「ま、どこの国も王族だろうが聖人じゃないからな」

幼少から親に連れられて外遊する機会もあったアレックス、妻の行動を止める気力はないらしく
遠い目で呟いた。






ダイアナを待たせぬようにと、再びイアン宅。
この性別を変えてしまう薬の被害にあったことをなんとか飲み込んだ男2名、やっとその解毒について話を聞くこととなった。
が。珍しくダイアナは、どうやったら2人が戻れるのかという点についての説明をせず婉曲に話をしている。

「・・・リズちゃんから借りた漫画の影響で作ったのは分かったよ、ダイアナ」

相手は妊婦、そしてダイアナということもあり、アレックスは生来の根気のよさで最後まで聞いて肝心要のことを尋ねる。

「俺たちが元に戻る薬は?どこにあるのかな」
「・・・ないの・・・・」
s3-12 (62)
「・・・・・・・・・・・」
「今のは聞き間違いだよな、ダイアナ」

「水かぶって、お湯かぶって性別が変わるの・・・・面白そう!って思ったんだけど、あたしが作れてたのは途中の・・・
 水かぶってのところまでで・・・お湯かぶって元の性別に戻るっていうところまで完成してないの。
 それが完成してないから、その・・・解毒薬も・・・ない・・・」

イアンとアレックス、今度こそ本当に動揺して立ち上がった。
この場で一番冷静なのは「あらら、そういうことなの」とだけ呟くだけのエリンだったりする。
s3-12 (61)


「あと1週間で完成はできたんだよ!?でもお腹に赤ちゃんいるから危険物の取り扱い止めたほうがいいから
 開発凍結して、アンドリューに危険物廃棄に出してもらおうとしてた途中でね、その・・・さっきのことが」
「本当にすみません・・・・!手近なガラス瓶だったから使ってしまって・・・」

アンドリューは溶鉱炉に飛び込んでしまいたいと思うほど小さく小さくなって謝る。
もちろん事態が解決するまで『アイルビーバック』はしない覚悟である。

「じゃあ、お前が赤ん坊産むまで・・・いや、待てよ。産んでもお前が母乳とかあるよな、ダメだ。暫くはやるな」
s3-12 (65)

最悪の事態に最悪に動揺しながらも、まだ見ぬ我が子を慮るイアン。
ダイアナも申し訳ないながらも頷くしかない。

「でも、そうなると赤ちゃんが1歳とか過ぎるまで・・・作業再開できないことになっちゃうんだけど・・・」

つまりヘタするとダイアナが出産して母乳を止めるまで・・・2年近くこのまま?嘘だろう?
アレックスは再びあの寝室に戻って大声で叫びまくりたい衝動に駆られる。
今度こそ我を失って多分小物などもなぎ倒すだろうが、もういいだろう。
s3-12 (66)

しかしダイアナが笑顔で男2人を最高に勇気付ける言葉を放った。


「でも解決策はちゃんとあるよ!!ひとりだけ助けてもらえる人がいる!
 ちょうど今週から休暇だっていってたし、お願いしたらきっとその人なら薬作ってくれるよ!多分
s3-12 (64)
「今すぐ呼べ!!いくらでも払う!」   「いくらなら来て貰える?!」

ダイアナの小声の「多分」を聞き流し、アレックスとイアンの声が重なった。














そして、その救世主の電話が鳴る。

「おお、どうしたダイアナ。体調は落ち着いたのか?わたくしは今日から夢のサンリットタイズでバカンスだ。
 お前が薦めてくれたホテルのロイヤルスイートでな」
s3-12 (69)
長期バカンスのための荷物のもとで、彼女の忠実なるシムボットが電話中の彼女を見つめる。

「オーナー、お迎えが外に来ていますぅ。車の中でお話ししましょう~?」
「まだ靴が決まっていないのだ。車は少し待たせておいてくれ。━━━━ それで、ダイアナ。何を作ったって?」

暫く彼女は耳をすませてダイアナが作った発明品の説明を聞くと、ふふっと笑いを零し履いてるヒールを足の指だけで脱いだ。
琥珀色の肌にぴったりのサンダルを試す。実に美しいじゃないか。

「つくづくお前は面白いことをする娘だ」

すると電話口の向こうで賑やかな女性達が2名、騒ぎ立てている。どうも言い争っているようだ。
声からするとダイアナの友人というには少し年上のようで興味をそそられた。あの娘の知り合いは美人が多い。

「もう少しお前の発明の話を聞いていたいが、わたくしはこれから空港だ。続きは機内でゆっくりスカイプでも ━━━ なに?」
s3-12 (72)
愛する弟子の恐縮した声と、それによって起きてしまった事件と依頼内容。
それらすべて聞き終えると、まるで美しい悪役のような笑い声が響き渡った。

「はーっはっはっはっはっは!!面白い!!
 つまりはお前の周りで先ほどから騒いでいるのはサウス公爵とイアン・グレンツか!」

タラ教授の通話中に登場した五つ星セレブの名前に、シムボットは目を丸める。
一体どういう事態なんだろ?

「ダイアナよ、夫に代わりなさい。 ━━━━ やあ、しばらく。あなたと直接話すのはあなた方の式以来か。
 今回は災難だったようだな、イアン・グレンツよ。しかし言っておくが、わたくしの頭脳とバカンスはそう安くはない。
 安売りする気もないぞ。わたくし自身のバースデーデートも兼ねていたのだ」
s3-12 (70)
すると即電話の向こうで提示されたオファー額にタラ教授はニマーっと顔を緩めた。

「それはそれは。実に素晴らしい。いいだろう、このまま空港にゆく。次に公爵にも代わっていただく。
 ━━━━ お久しぶりです。このたびの事態、心よりお見舞い申し上げる。それで今グレンツ氏とは・・・ああ、お話が早い。
 光栄です、サウス卿。それではのちほどお会いしよう。あなたの素敵な奥方にお会いできるのも楽しみにしている」

”のちほど?” その話の展開に、シムボットちゃんはおろおろ。
だってあと3時間にはサンリットタイズに向かう飛行機に乗るはずだったのに。

「アルテイシアよ。これから我々はサンセットバレーへゆく。しかもプライベートジェットでだ!」
「ええ~っ!?だってオーナーってば、サンリットで誕生日のデートのお約束も入ったじゃないですかぁ!」

聴覚などはシムボットアンドリューと同じく人間並みにしているアルテイシアと呼ばれたシムボットは
通話内容も分かっていないので「だめですぅ、だめですぅ!」と真っ向からぷりぷり大反対。
彼女もまたシムボットでありながらダイアナの功績によって自律思考ができる。

「合わせて六千万ドルの仕事だぞ。わたくしは結婚にも興味はないし、あの男にそこまでの価値はない」
「ろくせんまんー!?すごいぃ~!!」
s3-12 (71)
すごい金額に目をまんまるくした。のち、「あっ、それでもぉ・・・」とタラ教授の助手であり秘書である彼女はぐじぐじ。

「だめでぅす・・・先にお約束してたのにぃ・・・・」
「サンセットバレーではわたくしのマーガレットも待っている。金も愛もそこにあるのだ。行かぬ理由がない」

タラ教授は弟子ダイアナの母マーガレットを想い、最高に上機嫌。
この名前が出てしまったら止められないとシムボット・アルテイシアはふーっと長いため息をついた。

「・・・お断りのお電話する私が辛くなっちゃいますぅ・・・」
「だからわたくしがするといつも言っているだろう。繋いだらこちらに転送するのだ」
「オーナーの振り方はひどすぎるからダメですぅ!男性っていうのはナイーブなんですぅ!!」
「そうは言うがな、アルテイシアよ。
 セックスの採点とその意見交換なぞこういうときにでもなけれはできないではないか。互いの後にも大いに役立つ」
「そっれっがっ!ダメなんですぅ!!
 お相手はェ、・・・エッチ、・・・の、せいでっ!振られたとしか思えないですぅ!」

頬を染めながらアイルテイシアはこの度旅行当日に振られることになった不幸な男性へ
電子脳内よりぴっぴっぴ、と電話をかけた。

s3-12 (68)
「しかし男と言うのは実に愉快なものだな、アルテイシア。
 ダイアナが子を産み育てる間くらい待てばよいものを、2本のペニスを取り戻すためにあんな値段をつけるとは。
 そもそも男は自分の存在価値をペニスに置きすぎなのだよ。まさに司令塔だな」

「本っ当、信じられないくらい下品ですぅ・・・んもー」

顔をしかめまくってアルテイシアの呟いた口癖は、間違いなくダイアナのそれである。





→第13話









第11話 彼女の答え Set a thief to catch a thiefⅧ

←第10話


s3-11 (3)
意外にも、そこはサンセットバレーの住宅地の一角。
ただしアレックスが拘ったのであろうイタリア風の、いかにもアンティークな住居があった。

「こういう場所とはね。移築させたの?」
「かわいいだろ?海岸沿いは空きがほぼ出ないからね」とアレックス。

1階の一番奥の空間がアレックスの作業スペースで、玄関ですぐ油絵の具のにおいが鼻に迫る。
つい最近まで描いていたと分かる新鮮さにエリンの口元が緩み、
迷いなくそちらへ向かってゆく。
s3-11 (4)
記憶がないエリンにも、こうして変わらず自分の絵を楽しみにされているというのは
アレックスの画家の部分を充たしてくれる。
イーゼルに置かれている真新しい彼の絵を見た瞬間、エリンはつい素で「あっ」と声が出た。

(戻ってる・・・・)

かつて自分がアレックスの実家に潜り込んでいたころアレックスの絵に才能に惹かれた。
しかし共に彼の実家を去り、自分の元で描かれたアレックスの絵はどれもエリンにとっては芳しくなく・・・
排他的で寒々しく隠れ家に飾る気もしなかった嫌いな作品ばかりだった。
s3-11 (6)
でもいまのアレックスは本来の温かみを取り戻し、自由に伸びやかになっている。
壁に雑然と重ねられているのは様々な技法を試した習作だろう。
彼が得意としている風景画だけじゃなく抽象画まであるがどれも楽しげで・・・、
アレックスの中にあった壁のようなものを乗り越えられたのだろうと理解ができた。

しかしエリンにはその壁というのが
アレックスが全てから逃避し、エリンへの想いゆえ彼女とも一線引かざるを得なかったことに由来していたということまでは
まだ思い及ぶことができない。

じっくり見入っていたエリンに、「どう?気に入らない?」と、
実際そうであっても恐れもしなそうなアレックスの軽い問いがかかる。
s3-11 (8)
「ううん、気に入った。でもコレまだ途中でしょ」と、エリン。
「うん。前に旅行にいった場所なんだけれど描いてみようかなと思ってね。
 ただ正直色々新しいこと試しすぎて崩れてきちゃってる気もしてもいるんだ」

「そんな感じ。楽しくて仕方がないみたいね。とくに雲のところはまだ迷ってる?」
「ははは、わかっちゃうよね。そうなんだ。何回か倉庫にしまっても取り出して描き直しちゃうんだよ」
「そう」
「・・・・━━ 俺の絵はもう嫌いじゃないのかな?」

エリンはびっくりした。
隠してるつもりだったが 『妻エリン』はそんな無神経な事実までアレックス本人に告げてたのかと心底呆れる。
しかしアレックスはそんな目の前のエリンの考えが分かって首を振りながら、
s3-11 (10)
「直接聞いたわけじゃないけれど昔から分かってはいたよ。昔・・・じゃないか。君にとっては、ごく最近かな。
 君は画廊で売るっていう体裁を保っててはいても一度も隠れ家に飾ってはくれなかったからね」

「私、嘘がヘタ?」
「好き嫌いに関しては今も昔も分かるよ。言葉がなくてもね」

そのアレックスの言葉に、暗に『いまの君は俺のこと好きだろう』という含意もあるのがわかり、
大人の男の顔をしている彼にエリンはどきりとさせられた。
その余裕のまま、ゆっくりとアレックスは尋ねる。

「でも俺はあの頃の絵の何が嫌だったのか、いまだにちゃんとした理由を聞けてないんだ。教えてくれるかい?」
「・・・。何枚も描いてもらったけど、どんな季節でも、どんな風景でも物悲しいくらい寂しくて。
 気分が沈む絵だから嫌いだった」
Screenshot-10.jpg
アレックスはエリンの回答に深く納得しつつ、
「”だった”、なら良かったよ。自分では何かを変えたつもりはないんだけどなあ」と笑い飛ばす。

エリンは昔を思い出す。

かつてアレックスを”お兄様”などと口先だけの敬称をつけて呼びつつ、
もっとあなたの絵を見たいのだと迫った日が懐かしい。
若かった自分が偶然見つけた、とっても綺麗な才能がこうして開花してるのだ。
見つけた己を誇らしく思う。
Screenshot-11_20161211220435527.jpg
目の前の未完成の作品は伸び伸びして楽しそうで、
アレックス本人と同じように押し付けがましくない温かさが溢れてる。
この才能の片鱗をあの日アレックスの実家で忍んでいたときに見つけ、この温かさにエリンは心底惹かれた。
あの高揚が甦る。

「ずっと見たかったのは、そう。こういうの」

そうエリンは呟くが直後、顔が強張った。
気付いてしまった。

「アレックス。私の元で描いてる・・・描いて”いた”絵が、あんな風になっていたのは私のせいね?」
s3-11 (9)
このまえの夜、かつてエリンが彼の実家に潜り込んでいた頃から彼は自分に惹かれてたと明かした。
そのあいだ、裏稼業で何度心配させ、彼の恋心を何度踏みつけた?
自分はどれだけ好き放題をし続けていただろう。
その長いあいだ、アレックスが押し殺していたものが彼の絵に影響しないはずがない。

「散々あなたに・・・・・自由だとか、好きなところに行っていいとか、絵を描けとか言ってたくせに、
 肝心のとこで足を引っ張ってたのは私だったってわけだ。ばっかみたいね私」
「そんなことはないよ、エリン。この話はよそう」

「信じられないほど大馬鹿。ほんと、私どれだけ」
「いいから。やめろ、エリン」
s3-11 (18)
滅多にでない強い口調でアレックスが止める。
エリンは言われたとおり自虐の言葉を飲み込むが、
自分が見つけた才能を助けたつもりになって調子づいていた幼すぎる自分を深く恥じ入る。

「そんなことどうでもいい。昔のことだ」
「あなたにとってそうでも私には違う」
s3-11 (19)
もう10年近くになるほど昔に終わったことなのに、エリンが今のこととして傷つくなどアレックスには辛い。
自分のことで苦しむことないのに。

自分は妹のダイアナのように時間を戻せない。
エリンが自己嫌悪に完全に埋もれてしまう前にアレックスは明るく笑いかける。

「誰にだってやり直したいってことはあるよ。
 でも間違えない人生なんて誰にもない。そうは思えない?」
「・・・・・あなた、そんなに切り替え早かった?」
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「それも人生の醍醐味だと思えるようになったんだよ。遠回りも人生。・・・・老けたのかな?」

エリンはやっと少しだけ笑い、「私達は遠回りしすぎてる気もするけど」と言う。

「じゃあ昔に戻ってみようか?エリン」
「・・・・ どういう意味?」


アレックスの実家でエリンがキャサリンなどと名乗っていたころ。
気弱な少女を演じているなかで垣間見えたエリンのその強さに興味を引かれ、
憧れ、惹かれた。
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エリンの隣にいるため『部下』などという居場所に自分を押し込めてからは
恋心は雄の征服欲と独占欲とで歪み、屈服させたいという思いまで孕んだ。
代わりの女でそれらを押さえ込むほどに、
それはそれは歪に醜く醜く・・・・。
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でも一番最初に抱えていたものはとても単純なものだ。
アレックスはあのころに立ち戻って剥き出しのきもちをそのまま取り出す。

「俺は君が好きだ」
「・・・・」
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それはあまりの飾らない、
三十路もとうに過ぎた男には幼稚な口説き文句だが、当時ならばこれが一番ふさわしい。
妻である彼女と日々を送り、愛していると思うだびに言い続けてはきたが、
もともとあの青い日に芽生えてたものはこれだ。

「ずっと伝えたかった。エリンでもキャサリンでも、名前なんか何でもいい。俺は君が好きだよ。
 俺の家で、君がスピーチをしてみせたあの夜から俺はずっと君が好きだった」
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対して、エリンまでつられて当時に振り戻された心地にされる。
お嬢様ぶるために化粧もろくにしないでいた、少女と大人の女のちょうど境目のころを思い出し、
エリンが赤く染め上がった。

「エリン。あの家もこの街も出て、君がしたいことは何でもしよう。
 でももう盗みはするのはだめだ。ついさっき俺のことでなってたみたいに君がひどく傷つくのを見たから二度とさせない。
 他の楽しいと思えることを見つけよう。一緒に」
「あっ、えと・・・・・・」
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エリン、顔を染めてまだ言葉が出ない。
このような中高生のような告白の問答、このエリンはされたことがない。

「そうね、あの」
「ん?」

若干もじもじとした様子を見せるエリン。
彼女の中のこういう少女のままの部分があることをアレックスは元々知っている。
ああ、なんて可愛らしいと思いつつも、「そちらは好きだって言わないんですか?オーナー」と助け船半分で大いにからかう。

「本ッッ当、憎たらしい男ね!!どれだけ猫被ってたってのよ、アレックス!なーにが『オーナー』よっ!!」
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人差し指でアレックスの胸板を弾きながら強気に言い返す。
『妻エリン』とは違う、このエリンの姿も記憶がない昔の彼女だからこそ見れるんだろう。
恥じらいを仮初の怒りで隠したエリンの姿に、またアレックスは笑う。

「こういうのは男から言うものだから。でもそっちが言わないなら」
「・・・・なら、なによ・・・」

エリンが子供っぽく弱弱しく呟き、
アレックスは自分を弾いてきた攻撃的な腕を剥がしにかかる。

「言わなくていい」
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優しく重ねるだけのキスから始まり━━━━
きっと彼の人柄そのままのように慈しむようなものだろうと考えていたこのエリン、
再度どれだけ自分がアレックスという男を知らなかったのか思い知らされることになる。

剥がされたエリンの腕はそのまま部屋の柱に強く押し付けられ、
足の間にはアレックスの足が入り、二度ともう逃がさないと張り付けるかのような体勢で
穏和とは程遠いキスで襲われる。
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恐ろしいほどに感じる箇所を知り尽くされてるキスが本当に自分達が夫婦だった事実を一番思い知らせる。
どれほど自分の身体を知られつくしてるんだろうか?
上顎のとある場所、エリンが一番良い箇所を舐め上げられながら息に嬌声が小さく混ざり
柱に寄りかかってずるずる下がってく。

すると一度その最高のキスが取り上げられてしまった。
なんでなのかとエリンが惚けつつ目を薄っすら開けると、アレックスが「腰あげて」と指示をしてきて
何も考えずに従うと彼が自分のカーディガンをエリンの下に敷く。

「汚れちゃうからね」
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ほわりと優しい声で言われてエリンも微笑む。
そしてキスが再開すると、また柔らかさの下のアレックスの男の本性が露になる。
破かれたのかと思うような勢いでエリンの服のサイドファスナーが一番下まで一気に下げられ、
エリンは一瞬身体を強張らせるくらい驚いた。

内心アレックスはエリンのこの服の構造に苛ついてる。
黒のオールインワン。流行の型らしいが腰元まで下げると立っていればストンと足元まで簡単に脱げてしまう。
あのさっきのバーでエリンが言い寄られていた事実とこの服のことを合わせて考えるだけで
脳がチリチリと焦げそうになる。
唇を重ねながらエリンの服をずるり引っ張るように脱がした。

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一息ついて、その邪魔な服を後方へ放ると
それはテーブルを揺らして絵筆立てを派手に床に落としたがアレックスは無視する。

あ、とエリンの方が一瞬気をそらされたのに持ち主の方が無関心だ。
視線をアレックスに戻すと目の前で開襟したシャツの隙間から見える胸板に、
このエリンは彼が着やせするタイプであることを初めて知る。

「言っておくけど散々我慢させられたから好きにさせてもらう」
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少し苛つきながらアレックスが低く呟くので背中がぞくぞくする。
いつもするときアレックスはこういう口調なのか、
それとも記憶のない自分は妻ではないからなのか・・・我慢させすぎて怒りに近いほど飢えてるからか。

次々見せられるアレックスの雄の顔に興奮させられてる。
脇の下に手を入れられて膝立ちにさせられ、エリンは柱にまた押し付けられた。

無防備な下着姿にさせられて、エリンは自分自身をアレックスに知り尽くされてることがますます分かった。
胸を弄られるのは飽き飽きしてる、というのがエリンの本音。
胸が大きいと自分の欲の赴くまま胸を弄る男ばかりだった。
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ありきたりにキスから始まり、すぐに目立つ胸を散々弄って下腹部へ・・・ではなく
アレックスは臍から腹部を上って胸の横のエリンの弱い所をくまな触れてゆくので
全身を軽く震わせながら簡単に声が出た。

胸そのものを無視するわけではないが、
それよりもアレックスは深い胸の谷間の心臓のうえに少し長めのキスを落として通り過ぎる。
欲望一辺倒のようで、合間合間に心を包まれる。

そのまま顔に近づいてきたアレックスから鎖骨そして首筋と唇で愛でられ続けて
温かい愛情にエリンはとっぷりと浸りきる。
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のも束の間。
油断しきってたところに、なんと二の腕にがぶりと容赦ない歯を立てた痛みをもらいエリンは「いったぁいっ」と叫んだ。
前戯でするレベルの痛みなんぞでなく、
見事に歯形もついててムードもふっとんでエリンは怒る。

「ちょっとっっ!今のは痛いっ!」

そのまま上目にアレックスは無表情にエリンをねめつけ、歯型のうえにキスするが目は反省していない。
次からは流石に加減されたが、暫くエリンの悦ぶ悦ばないを無視して二の腕から肩口へアレックスが噛みあがる。
エリンは少々おそるおそる「・・・・アレックス・・・・まさか、あなた怒ってる?」と尋ねた。

「怒ってないわけないだろ。なんであんな場所に行った?」
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なるほど。男漁りにいったと思われてるわけだ。
彼としては、ああいう場所に出掛けたことは昔を連想させて許しがたいようで
最後のお仕置きにがぶり、痛みはごく軽いが噛み付いたままアレックスは彼女の答えを待つ。

「なんでだろ。わたし、居場所がなくて、・・・知らない人のほうが楽かなって・・・」
「他の男のほうが?」
「他の男?・・・・気持ち悪い」

そのエリンの言い方は心底嫌悪感に満ちていて、アレックスはやっと噛み付いていた口を離した。
妬いて怒ってるというより彼は本当は悲しんでると分かる。

「わたしのこと変えた責任は取ってくれるんでしょうね?」
「エリン」
「・・・・・最初からあなたのとこ行けばよかったね」
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「本当だよ。辛いなら、すぐにどこにでも連れていったのに、どうして最初に俺のところに来ないんだ」

アレックスが辛そうに言うので、「ごめん」とエリンは自然と言ってしまう。
そうして真夏の夜の室内で玉の汗をかきながら営為はすすみ、
とっくに理性など投げ捨てた頃合にアレックスが熱い声で告げる。

「言っておくけど俺は持ってないよ」
「そりゃそうでしょ、夫婦だったんだから。どうせ子作りしてたでしょ」
「こづ・・・まあ、去年から自然に任せてるよ」

その直接的表現に、アレックスはちょっとだけ我を取り戻して苦笑い。
しかしエリンは臆することもなく、むしろ煽る形で腹でアレックスを擦り上げながら艶美に微笑む。

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「焦らされるのはキライ」とエリンは宣言すると少し腰を引いて足を開き、
手など添えもせずに動きと足を絡ませてアレックスを自分の中へ押し込んだ。

「・・っ、エリン」

支配的で嗜虐的で、献身的で、なんて淫猥な行為だろう。
エリン、これだけは言ってやりたい。

「そもそも挿れる直前になって言い出すとか、あなた相当ズルイくない?」
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アレックスの腹の奥の狡さも全て内包し、余裕で微笑む。

そのまま彼に見下ろされる態勢のまま、
彼を見下すような顔つきでエリンがさらに腰を奥へと進ませていけば
アレックスが眉を寄せて息を吐きながら睨むような顔で快感に夢中になっている。

どれだけ我慢してたかの想いのたけを吐き出すかのようなキスをされたあとに、
動物的な快感のまま動いて幾度となく態勢を変えるが、
互いで場所を探ることも必要なく全てが好い。
s3-11 (40)
気持ちいいだけじゃない、
アレックスの絵の中にもある温かさのなかに浸るかのように愛おしまれる。

満たされて夢中で汗だくになりながら再び態勢が変わり、
挿入とは別の・・・・腰が抜けそうになる感覚が後ろに突然走り始めて
嬌声混じりにエリンはまた叫ぶ。

「ひゃ、あ、・・・・っ?!ちょっと?!!ちょっと!?待って待って待って待って待って!」
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「なに」

性欲一色のアレックスの声は硬い、相当に余裕のない声色。
だがエリンにとっても事態が事態なので臆しない。

「そんなところやめて!」
「でも好きだろ?」
「っ、うそ!?そんなの私、・・・・絶対絶対うそっ!うそよ!!」
「そんな嘘つかないよ。別に普段も挿れなんかはしないけど」
「・・・うそぉ・・・・」
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唇に強い赤を宿してる昔のエリンがこんなにも動揺してる姿は、現在の体位も手伝って
アレックスの男の支配欲の暗い部分を最高にくすぐる。昔の自分が見たいと願っていた、この姿。もっと見たい。
止める気はさらさらない。

そのままアレックスが弄る指先を止めずにいると、
へなへなとエリンの腕の力が抜けて床にへばりついて腰を上げてるだけの姿になった。

「いっ・・・ぃ、やあ・・・・・絶対うそ!!ひゃ・・や・・・私が覚えてないからって、したいことしてるでしょ!」
「まさか。俺のほうがよく知ってるだけだよ」

そのまま彼はエリンの理性の拒絶は完全に無視し、いつものように優しく微笑みながら事実だけ伝えた。

「ほら、腰が動いてる」
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あの昼間の優しいアレックスの姿が偽物だとは思わないが、
この宵の彼との差異はどうしたことか。
エリンにイニシアティブがあったのも挿れるときくらいだが、それだって彼に手のひらで転がされたようなものな気がする。

支配されて、縛られて、逃れられない。
一番自分がされたくないことのはずが、それが堪らなくいい。
もはやエリン、言語能力がゼロの状態にまで叩き落されて嬌声しか出なくなった。









「アレックス・・・・いま何時?」
「さあ?」

すごかった。
夫婦だから?アレックスがすごい?もはやどっちでもいいし、両方かもしれないがすごかった。
汗をかきすぎて肌のべたつきすら流れサラリとするほどで、
先程のクラブで入場で押された手の甲のスタンプも消えてしまってる。
終わったあとのアレックスはまた柔和で優しく、乱れた髪を整えてやりながら彼女を抱き寄せている。

「それでエリン、どこに行きたい?すぐに手配するよ」
「・・・・行ったところないとこ・・・アジアでも中国ら辺はまだ・・・」
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「じゃあまずはそこだね」

アレックス達の新婚旅行先は中国だったが、それもこのエリンにはなかったことになってしまっている。
しかし寂しさはない。
もう一度最愛の人間と恋をやり直せることにアレックスは幸せを感じている。

それはこの街にいる家族━━ダイアナやイアン、アンドリュー、
そして友人も含めて沢山の人間を切り捨てることになるが、それでいい。
思い出したら戻ればいいし、
思い出せなくても自分だけは唯一無二の家族としてエリンを決して追い詰めない。縛らない。
でもエリンをひとりにはしない。

「・・・アレックス。ちょっと。離して」
「どうして?久しぶりにこうできてるのに」
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それでも無理やり離れようとするエリンに、
鈍いアレックスは不思議に思いながら離す気などなく改めて抱き寄せる。
すると観念したエリンが「トイレっ」と叫んだ。

「おや。それは失礼」
「最ッッ低の公爵ねっ!爵位返上して大正解よ、この変ッ態!」

開放されたエリンの強い捨てセリフに、
あっははははとアレックスは大笑い。

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素足でぺたりと歩いてゆくエリンがふらり一瞬揺れた気がして、
危なっかしいなあとアレックスが思い及んだ瞬間。

「あっ!?」

ずるっ!
アレックスの目の前で、間抜けなポーズでエリンが宙を回転してゆく・・・・
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ごん!!
エリンが床にすっ転んで後頭部を打った音にアレックスはあんぐり口を開けて、次の瞬間彼女の名前を叫んだ。







で。






エリンが欠片だけ憶えていた、8月28日。
その日もサンセットバレーは快晴。
予定通り・・・・無事、記憶を取り戻したエリンと、
アレックス、そしてイアンも共に来年プレオープン予定のエリンが館長となっている美術館に集う。
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残念ながらダイアナ、そしてアンドリューはダイアナのつわりが早々に始まってしまったため欠席だが・・・
その日は正式な復帰第一作をとうとう描き終えたアレックスの作品が納品された日で
記憶を失っていても、その日付を忘れられないほどエリンが熱望していた日だった。

「ダイアナも今日は来たがってたけどな。悪いな、アレックス」と、イアン。
「俺はいつでもいいよ。あとで顔だけ見に行くよ。つわりっていうのは随分辛いんだろ?」

「薬も飲んでるし、横になってりゃ吐くのは平気らしいが、頭が車酔いみたいなのがずっとあるんだと」
「えっ?吐くだけじゃないのか?」
「俺も知らなかったよ」

そして話題は記憶を取り戻したエリンの件に。
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「この日に間に合わなくても良かったんだけどな、あいつド根性みせたか」と、
イアンは記憶を取り戻したエリンのことを笑う。
言われたアレックスものんびりとした笑みを浮かべながら、

「とにかく傷が開かなくてよかったよ。もう一度頭を打って戻る、っていうのはあまりないらしいんだが・・・
 運がいいんだか悪いんだか」
「お前のアトリエで、床に転がってた筆にすっ転んだってつってたよな?珍しく片付いてなかったんだな。
 職場散らかすタイプでもねえだろ、お前」

ぎくり。
そこに気付くとはイアン、やはり鋭い。

「まさか『昔のあいつ』とここぞとばかりにヤりまくって、筆立てひっくり返してたとかじゃねえだろうな」
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「あっはっはっは、まさか!!そんなわけないだろ!」

アレックスは話題が話題だけに涼やかに嘘をついて笑い飛ばしてまでみせた。
完璧な嘘のはずが、イアンは「うそだろ、図星かよ」と笑いながら呟く。

「!? なんで分かった!?」
「引っかかったな。マジで図星かよ!!信じらんねー、お前!!スカしてるくせに本当そういうの抜け目ねーよな!!!」

ぶっはっはっはっはっはとイアンに崩れ落ちる勢いで大笑いされて、
アレックスは首を振りながら「イアン、もう少し話題を選べ」と悔し紛れに言うしかなかった。

するとタイミングよく帰ってきたこの美術館の館長エリンが現れてくれた。

「じゃあ、始めましょう」
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館内はプレオープンを控えて、まだ作品を運び込んでいる期間であり閑散としている。
100%出資者のイアンの来訪にもかかわらず、あえてエリンは他全員のスタッフを入れていない。
館長エリンの厳命により特別に館内には3人だけ。

「お前が俺でも来たいと思える美術館の答え、見せてもらおうか。
 正直外観も内装も悪くないが驚くってレベルじゃないな。奇抜なもんでも建てるかと思ったけど保守的な感じだよな」

イアンは誤魔化しのない現段階の感想を伝える。

「取り扱うジャンルが多岐に渡るなら、少しそういうイメージも残したほうがいいから。
 でも屋外と2階は空間美術━━━インスタレーションアートを飾るのよ。
 例えば部屋いっぱいの風船とかで表現したり・・・説明よりも実際行ってもらえばわかるわ。
 ここみたいに置いてある作品を見る、じゃなくて、その作品自体の中を鑑賞者が歩いて楽しめるの」
s3-11 (75)
「ちょっと昔にどっかで10万個の白い風船で雲みたいなの作ってたのは読んだな。アレか」
「ロンドンのコヴェントガーデンなら、そう。まさにあれがインスタレーションアート。
 特に小さい子供がいるような層は美術館から縁遠くなりがちなんだけれど、屋外エリアは子供の来館も問題ない構成にして
 ちょっとした公園みたいに開放するの。屋外だけの入園ていう料金も低めで設定してあるわ」

金払ってでも管理徹底されてる公園で遊ばせたい層やら、
小さい子供に芸術教育させたい層に目をつけたかとイアンは頷く。特に質問はない。
が。

「良いけど珍しくもないな。田舎の屋外美術館じゃ、インスタなんとかじゃなくても同じコンセプトはあるだろ」
「そうね。でも都会だからこそ有料でも良い公園って重宝がられるのよ。ただ美術館としての売りは1階に展示するわ」
s3-11 (70)
イアンの厳しい評価もエリンは予想通りとでもいうように笑顔で同調する。
そして連れて来られたのは一番良い場所のはずなのに置かれている変哲もない、フツーの3つの現代アートっぽい作品。

「まずはこの3つを見てみて、どう?」
「現代アート、だろ?絵と、彫刻な。で?なんだよ?」

はっきりとガッカリ声でイアンは眉根を寄せる。
このイアンは有名な絵画にも食指が動かないのだ。
古い歴史があるわけでもない、明らかな新しいものには一層興味がわかない。

「見覚えはないかしら?」
「はあ?俺が?・・・?・・・」
s3-11 (78)
美術館に縁遠いイアンの目を一番引くのはやはり真ん中にある絵。
昔のエリンを髣髴とさせなくはないが、まさかそんな理由で美術館に展示しないだろう。

「まさか『あたしにそっくりな絵をあたしが説明するのが売りなのよ』とかじゃねーだろーな。んなもん認めねーぞ」

イアンが意地悪く言うと、
エリンの仕事中だからと少し距離を置いていたアレックスが「イアン、おしい」などと言いながら笑いを噴出した。

「あ?惜しいってなんだよ」
「よく見てみると分かる。たぶん。知ってるよ」
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「アレックス!しーっ!黙ってて!」
「はいはい、ごめんね」

アレックスにヒントを貰ってイアンも気付く。
真ん中に飾られている昔のエリンぽい絵じゃなく、左に飾ってある絵は言われてみれば確かに見覚えがある気が・・・。
しかし美術館なぞに縁遠い自分が一体どこでこれを見たのか━━━━
気付いた瞬間イアンはぎょっとして目を剥いた。
そしてエリンが「気付いた!?気付いたわね!?」と同時にいたずらっ子のように笑う。

「お前、これお前が昔盗んだやつじゃねえか!!」
「ピンポーン!大当たり!!ここにある3つともそうよ!!それがここの目玉!」
「はあ!?なッ・・・・ばッ・・・・・」
s3-11 (79)
何馬鹿なことしてんだお前と言いたいが、驚かされすぎてイアン珍しく言葉にならない。
後ろでアレックスがあっはっはっはと何と笑っている。
そしてエリンが何を売りにするつもりなのかも気付いてしまった。

「お前、盗まれたことのあるモンをここの展示の売りにするつもりか!!」
「そう!私がやったやつ以外でもね。誰だってちょっと一度は見てみたいでしょう?
 昔ニュースでやってたような盗まれたものがあったら、その理由だって絶対知りたいはずよ」

それは感性を磨こう、作者に時代に触れようといった通常の美術鑑賞とは真逆で、
人間のいやらしい野次馬根性に訴える。
かつての盗品を売りに、だと不謹慎が過ぎるが、確かに今までにない層への集客効果は期待できる。

「・・・っ・・・」
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「といっても一時的な騒ぎで終わるかもしれないけれどね。
 ただ、そもそも私は『あなたが来たいと思える美術館にしろ』とは言われたけれど流行らせろとは言われてないもの。
 ハッキリ言って美術館は儲からないわよ」
「そこを突くか。確かにココで稼ぐつもりなんざ最初からねえよ。けどな」

イアンが難しそうな顔で夫妻を睨む。
先程笑ってたアレックスは早々にそれから逃げるようにわざとらしく笑顔をしまい、一方でエリンは余裕たっぷりに

「でも正直なところ、実は私がなんでこれを盗んだのかって本当に聞いてみたくはない?
 特別にあなたには”館長が自ら”解説してあげるのに」
「・・・・・・・」
s3-11 (94)
確かに正しくあろうとしてはいるイアンではあるが
エリン達が盗みを働いてたと知る前に、『なんでこんなもんが盗まれるんだ?』という意でなら美術に興味を惹かれたことはある。
不謹慎だが腹の底では・・・聞いてみたい。

「・・・いっとくけど認めたわけじゃねえぞ。悪いことは悪い、それは変わらねえんだからな」
「わかってる。でもこれでこのコたちも陽の目を見ることになるの。私たちなりの贖罪だっていうのも分かってもらえない?」
「・・・・。続けろよ」
「大体美術品の窃盗ってのはハッキリ言っちゃえば裏社会で『通貨』として使われるのが殆どで━━━━」

そのままエリンは美術品を愛すべき者として『盗品市場』を憂いつつ熱く語った。
経済的価値と、美術史においての価値はどうなのか。
正直美術がやっぱりわからないイアンは同調はできなかったものの、知的好奇心はしっかり満たされた。
・・・悔しいが楽しいと思わされたレベルで。

「・・・・ほかの、お前が盗んだ奴にも同じよーに理由があんのか?」
s3-11 (97)
「もちろん。それぞれ全然違うのがあるの。次に展示品の入れ替えがあったら来てくれる?」
「・・・。ああ」

流石に諸手を挙げて「いいとも!」というポーズはとれないイアンだが
その返答だけで、当初彼がエリンに課した『俺が見たいと思う美術館にしろ』という注文は見事クリアされたこととなる。
瞬間、エリンはそれはそれは嬉しそうに小さく自分自身に可愛らしく拍手した。

そして今日のもうひとつのメインイベント(だからダイアナも来たがった)へ。
美術館エントランスの真正面、サンセットバレーの風景画が掲げられている。

「アレックス、こいつのタイトルは?」
「決めてない。とりあえず13番って呼んでる」
s3-11 (98)
そうあっさりと答えたのは画家として、この正式な復帰第一作をとうとう描き終えたアレックス。
「タイトルがない?思い入れもねーのか」とイアンはニヤリ笑いながら、からかう。

「別にタイトルはなあ・・・・色々な漠然としたイメージはあるけれど、それを一言で表すのは苦手なんだ。
 そちらの”館長様”から依頼があったのはサンセットバレーを、ということでしたので」

凝りに凝って考えるタチかと思いきや、アレックスの回答はそんな茶化しを入れるほど軽い。
館長様と呼ばれたエリンはご機嫌でにこにこしている。

「描いてるの東側だな。”サンセット”バレーなのになんで西側じゃないんだよ?」とイアンは問う。
「・・・・海から見ているかたちにしたくてね」
s3-11 (99)
「?なんでだよ」

そこへエリンが会話に入りたがり、「イアン、あなたが一番見てる景色でしょう?」と笑顔で告げた。

「・・・これ、俺に合わせて描いたのか?アレックス」
「君の美術館だからな。一番見てる景色は海の中から観てる光景だろうからね」

「・・・マジか。・・・・。・・・・・・お前が?」
「お前が、は余計だ。イアン」
s3-11 (100)
これにはイアン、素直に感動してしまう。あのアレックスがエリンに頼まれたとはいえ自分のために復帰第一作を描くとは。
大昔の、あの自分達の初対面を思い出せば余計に。

「でもなんで俺に合わせた?俺の美術館だからって、・・・・商業的な理由で描くタイプじゃあないだろ?お前」
「しない。イアン、俺は芸術に興味がないってひとはね、まず観てみるっていうことすらしてないことが多い気がしてるんだ。
 だからまずは君が見慣れてるものなら観る気にはなるかと・・・・きっかけになればいいと思ってね」

アレックスは続ける。

「そもそも芸術は高尚で難しいものなんかじゃないんだよ。昔から貨幣代わりだったし、神話モチーフにしたポルノでもあった。
 流行りのただの装飾や、写真代わり、信仰のためだったり・・・ずっと生々しい、人間の続いてきた生活に密着してるものだ。
 だから俺は鑑賞するという点では昔のひとの、そういうものを見るのが好きでね。
 500年後の人達が今のトランスを聴いてるようなもの、って言えばいいかな。
 絵の楽しみ方なんて決まってないんだから間違い探し程度に思って観てもらえばいいよ」
s3-11 (101)
「・・・・・・・・・お前が今、トランスっつったか?」
「・・・。そこに引っかからなくていい、イアン。トランスくらい知ってる」
「冗談だよ。・・・間違い探し、ときたか」
「やってみるといいよ」

元々好きなものには饒舌になるアレックスだが、『お美術』にそういった割り切りがある奴だとは知らなかったイアンは目を丸める。
クラシックだの、絵画だの・・・もっとお高く好いているのだと思っていた。
するとエリンはわざとらしいコミカルな苦々しい顔をしながら、

「そうそう、難しく考える必要なんてないのよ!アレックスなんか裸婦画が好きなんだから」
「人間が理性で作ったものが本能に訴える部分があるのが面白いって言っただけだよ。エリン」
「だから要するに昔のエロがスキってことじゃない。でしょ?」
s3-11 (103)
エリンが言ったところで、すかさずアレックスがエリンの脇腹をくすぐるかのように手を伸ばし明るい声が響く。

記念すべき作品を贈られたとあってはイアンは確かにまじまじと観る気になる。
間違い探しか。
そしてアレックスの思惑の通り、イアンは子供時代からサーフィンをしながら見てきた
サンセットバレーの光景を思い出しながら彼に尋ねた。

「こりゃ、朝。だよな?」 「決めてないよ。どっちにも見えるようにしてるから」
「ほー・・・・この空の感じは秋に近い冬か?」 「決めてないよ、雪はないけれどね」

しばらくイアンは無言で絵を隅から隅まで見てゆく。

「うそつけ、木に葉があ・・・あー、このあたりは夏の花入れてんだな。つか建物が、ないな。少ないだろ。
 昔の写真から描いたのか?」
「いいや。山の麓にある比較的新しいものは邪魔でね。取ったよ。色が派手なチェーン店とかも好きじゃないから描いてない」
「・・・・。風景画だろ?好き勝手に削るとかアリなのか?」
s3-11 (108)
「そんなルールないだろ?」

盲点を突かれてイアンは押し黙る。
絵から少し距離をとり、イアンは自分の頭の中にある稜線を思い出しながら、またアレックスに尋ねる。

「・・・この山、小さくないか?」 「そのあたりはここのラインまで収めたかったから小さめにしてる」

指導されてなくともイアンは自然と近づいたり遠ざかったりと絵の鑑賞を続け・・・・
そのままなんと『芸術と絵画』をテーマに1時間以上も会話を続けることとなった。
「たしかに朝か夕方か微妙な感じだけど朝だな」と鑑賞者イアンが断言し、
「だから面白いんだ。受け取り方が皆本当に違う」と作者アレックスが笑う。

「・・・・エリン。どう見える?」
「そうねえ・・・・」

芸術は日常の延長だ。男達が明るく笑う中、エリンはじっとアレックスの絵を眺める。
s3-11 (107)
何かが始まりそうな朝の光、何かを終えて一息つく夜の始まりのようでもある。
その曖昧さがとても好き。
どちらでもいいよと包み込んでくれる彼と同じ。

家の温かさ、家族の温かさ。
全てが始まった街。
この街を捨てるなんていう選択をしなくて、本当によかった。

「これは・・・私のふるさとの絵ね」





key_00b2d882_00000000_549214c97c0db928.png
我が愛しのサンセットバレー。







→第12話






第10話 別人 Set a thief to catch a thiefⅦ

←第9話



ふとエリンは献身的な執事モナにむかって言う。

「それにしてもモナ、あなた随分よく色々してくれてるのね。感心するわ」
「そりゃあもっちろん!なんたって人生丸ごとエリンさんに助けられたようなもんですから。
 結構貧血がひどかったんですけど、おかげでちゃんとした食事ももらって治療もできてるし。あたし何でもしますからね!」
s3-10 (1)
「・・・。ありがとう」

それはモナの純粋な本心なのだろう。
だからこそエリンにはイラッとしたものが湧く。
執事モナはあくまで『記憶があるエリン』には大恩があるだけで、そのお返しに『このエリン』に尽くしている。

でもエリンの自覚としてはハッキリいって『記憶がある自分』なぞ他人同然(なんといっても覚えてないのだから)
その『他人』の恩恵でこういうことをされてるだけってこと。
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このモナの目には、”この自分”が映っているわけじゃないのだと思い至るとエリンの心は冷え冷えとしたものになった。







記憶をなくしたエリンとアレックス、そして執事のモナも含めて何とか平和にやり過ごせている中、
フラストレーションを溜めに溜めてる人物がここにひとり━━━━

「~~~~。・・・・エリン、元気そう~~~~~」
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記憶の無いエリンがケガして以降まだ1回も顔をあわせてもないダイアナである。
庭でくつろいでるエリンをこそっり見守るダイアナの顔は不機嫌そのもの。
見舞いも遠慮しているが当然とっても心配している。

アレックスはエリンの回復を優先させて記憶を取り戻すことを二の次にしていたが、当のエリンはすごく元気そうだ。
っていうか、庭で酒まで飲んでる!
しかも執事モナとあんなに仲よさそうに話している!!
記憶なくしていたエリンにとっちゃ”初対面”だった執事モナとああなれたのなら、
自分だって同じようになれたはずなのに。
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そもそも。
そもそも一番最初にサンセットバレーでエリンと仲良くなったのは自分だったし
歳の離れた友人として━━━ いまは義理の姉妹として同性であることも手伝って、実兄のアレックスよりも仲良しだったのに。

執事モナに対して嫌う気持ちにはならないが、実は隠れて兄譲りの面なのか━━━━ ダイアナの焼きもちは増すばかり。
長くエリンに会えてないダイアナとしては、ジリジリジリと不満が溜まっているのである。

「『かーちゃん、あんまりそんな顔ばっかしてるとブスになっちゃうぜ!』」
「・・・・うるっさい!」
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「うお、こえー。なー、かーちゃん怖いな~~?」
「『かーちゃん、こわーい』」

子犬ディランを拾ってから超絶デレンデレンの犬好きイアンは
時折こうして勝手に犬にセリフを当てる遊びをしてくる。
当の子犬ディランも理解しているのかは分からないが、必ず笑顔なのがまた憎たらしい。

「イアンは平気なの?隣なのに、家族なのに全然会えてもないんだよっ」
「スタンガン食らいたくねーもん」
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イアンは茶化したものの、実際にあのエリンを目の当たりにした者としては急な関わりをもつのは止めた方が良いと
彼なりの結論が出してしまってる。
さらに個人的に少々専門家だのに当たっても、長期戦になる可能性が高いという見解を受けたからなおさら。

対して”頭脳は明晰”なダイアナも理解はしているが、あの『昔のエリン』を目の当たりにしてない。
しかも記憶してるエリンは子供のダイアナには最初から優しかったものだから・・・・感情がそろそろ押さえがきかない。

「お医者さんも落ち着いたら少しずつ昔の話をしたり、物を見せたりしたほうがいいって言ってたのに。
 アレックスもアルバム見せたって言ってたけど ぶつぶつぶつ
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「んなもん、医者によって見解はまちまちだろ」
「そうだけどっ。・・・・お母さんもマークも皆そう言ってさ。
 あたしだけワガママみたいに言うけど、何が正しい治療法なのかだって分からないのにっ」

ダイアナの実母マーガレットもマークも、現在のエリンの事態を知って勿論大いに心配はしているが、
やはり年の功というのか長期戦の構えらしく・・・・それはますますダイアナの苛立ちを煽っている。

「俺らが焦ったって治るものでもねえだろ?なら考えるだけ無駄だよ、パンプキン。一緒にそのへんでも歩くか?」
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「~~~~行かないっ。理屈が聞きたいわけじゃないのっ。イアンの意地悪!」

正論なんかとっくに分かってるとイライライラを隠しもせず、
ダイアナはぷんぷんと家の中へ。
イアンは子犬ディランと見つめ合う。

「あいつ、随分イライラしてんなー?」
子犬ディランも同意、とばかりに「ンフッ」と鼻息を強めに吐いた。
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イアンは「さて、どうするよ?相棒。お前の力が試されるときだな」と言って、
ちいさな彼にとりなしを任せることにした。





しまい込んでたアルバムを引っ張り出して、懐かしい昔々を振り返る。
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出会った当時はエリンの過去を何も知らなかったから、
歳が離れてる割にゲームだの子供っぽいものでもエリンと楽しく遊んだ。
そういう意味では同い年の友達のようにも感じてたと思う。

でもサンセットバレーに来る前のエリンは、あちらこちらを旅して回ってて・・・
この国内の方々で盗みを働いて、イタリアの隠れ家を拠点にふらふら放浪していたという。
だから記憶がないエリンは、・・・このサンセットバレーにも自分達にも愛着なんかないエリンは、
ある日ふらりと居なくなってしまいそうでダイアナはそれが怖い。
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泣きそうな気持ちになりながらダイアナは鼻を啜る。
すると、ぽてぽて歩きの子犬のディランがやってきて、落ち込んでいるダイアナなど気にもせず。
ダイアナの足元で遊べ遊べとじゃれついては勝手に盛り上がってゆく。

「あん!あん!あん!」
「ディラン遊びたいの?」
「あんあんあんあんあん!」
「んもー・・・・ いっしょに行けばいいんでしょ、行けばー」

子犬のディランはダイアナの手に「あびゃびゃびゃびゃ」と壊れる勢いでじゃれつくので
ダイアナは苦笑しながら彼を抱き上げた。
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イアンは波乗りをするというので子犬のディランと共に海岸散歩から帰るとエリンとかちあって、
つい「あっ」と声が出た。

「! ・・・・あなたアレックスの、妹・・・、よね?」
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エリンのこちらの反応を探るような目つきと、他人行儀な確認はさっくりとダイアナの心に刺さる。

「うん、エリン。・・・ダイアナだよ。気にしないでダイアナって呼んで」
「よろしく。その子はあなたの犬?」
「この前、浜辺で拾って・・・ディランていうの」
「そう」

互いに探り探り。会話が途切れるかと思われた瞬間に「あん!あんあんあんあん!あんあんあん!!」と、
子犬のディランが初めて会うエリンに大興奮して吠えまくり始めた。

「コラ!ディラン、ダメ!メッ!ごめんね、ちょっとまだ躾の途中で・・・イアンの言うことは結構きくんだけど」
「まだ分別が付かない子供だからじゃない?」
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興奮しすぎてエリンの手に噛み付きそうになりつつ・・・
エリンは「おとなしくしなさい」と高圧的に言って子犬のディランを撫でてみせた。

「ダイアナ?・・・あなた、も。私の古い知り合いなのよね」
「! うん、あたしがイアンよりも先にエリンと仲良くなったんだよ」
「いま時間があるのなら昔の話を聞かせてもらえる?」

エリンからの思わぬ申し出に、
ダイアナの笑顔がぱあああと光り輝き「もちろん!!うちに来て!」と声を張り上げる。

それからダイアナはアルバムを引っ張り出し、
自分達の出会いから色々遊んだりしたことなど求められるまま少し興奮気味に話した。
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「テレビゲーム、ねえ・・・」とエリンはしみじみと繰り返す。
「エリンが仕事始めちゃったし、最近はあんまりしてなかったけど一緒に暮らしてたときも時々やったよ。
 あと最近は乗馬しにカントリークラブに行ったりしてるかな」

「ふうん。あなたも乗るの」
「元々はエリンに教わったんだよ!とかいっても障害とかすごいのはできないんだけど」
「そりゃそうでしょ。そもそも私だって人に教えられるほどじゃないはずだし」

意識的なのかわからないが話し始めてからずっとエリンはこの調子で、どこか突き放すような口調だ。
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初対面のときのエリンは自分にもうちょっと優しかったんだけどな・・・と、ちょっとダイアナはやりにくい。

「えっと・・・エリン、何か食べる?」
「ありがと。その間これ、見させてもらうから」

エリンがぱらぱらとアルバムを捲るたび、
自分のしらない自分、アレックス・・・・イアンに、ダイアナの写真が現れる。
写真の中の自分は、いまのエリンにとっては気持ちが悪い写真ばかりだ。
私?全然違う。誰よ、これ。
こんなの、同じ顔した他人だ。
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結婚式への参列とはいえ、
”いかにも”の真珠のネックレスに、花とリボンで飾られた”いかにも”の帽子にもぞっとする。

エリンは気分のまま、前に後ろにとアルバムを捲るが気味の悪さは募るばかりだった。
「それは、エリンの前の家でビーチパーティしたときの写真だね」とダイアナが戻る。

「前の家?」
「いまエリン達が住んでる家は建替えしたんだよ。
 前の家はもうちょっと庭が広くって・・・アレックスが言うには”元々エリンの一人暮らし用”だったらしいけど、大きかったよー」
「・・・・・・」

━━━━自分で言い出したものの聞きたくもない。お腹いっぱい、って感じだ。
改めて出されたブラウニーはとりあえず1つだけ摘み、エリンは席を立つ。
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「日も暮れてきたし、そろそろ出るわ。色々ありがと」
「えっ、あ・・・うん。エリンもきっと怖いって言うか・・・こういうのって複雑だよね」

「・・・。まあ、そうね」
「皆も心配してるし、待ってるよ。早く記憶戻るといいね。
 医学知識とかは、あたしも偏ってることしか知らないんだけど助けられることとかあれば何でも言ってね」

玄関先でダイアナが心をこめてそう言うと、エリンはにっこりと美しく笑い返した。
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ここにいる人間全員が、”この私”は一時的なものとしか捉えてないんだろう。
同じ顔してるってだけで『他人』エリンの人生を引き継いで生きてけってこと?
ふざけないでよ。

エリンの顔から偽物の笑顔が消える。

あの見舞いの花も結局『他人』宛。
このサンセットバレーにいるべき理由なんて”私”にはない。
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誰でもいい。互いに知らない誰かの方がまだ心地いいと、エリンは道で手を上げてタクシーを拾った。








離れのアトリエから戻ったアレックスはまず執事モナにエリンの所在を尋ねると、
「3時前にダイアナさんちに行って・・・まだ戻ってないですよ」という返答。
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そんなに長く?正直あのエリンが今のダイアナと長時間話し込むとは思えない。
違和感にアレックスは眉をひそめつつ、すぐに受話器を手に取った。

エリンが記憶をなくして以来、分かりやすく落ち込んでいたダイアナが『はいはーい、アレックスどうしたの?』と明るく出る。

「ダイアナ、エリンはまだそっちに?」
『とっくに帰ったよ、40分くらい前かな。いないの?』
「・・・どこかに出かけるとかは?」
『聞いてない』

話しながらアレックスはパソコンで自宅の防犯カメラの映像を呼び出す・・・エリンは家に戻らずにタクシーを拾っている。
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財布にパスポートさえあれば世界の裏側だろうがどこへでも行くエリン、
そのためアレックスはしっかりパスポートだけは確保しているが胸がざわつく。

「エリンと何か話したかい?」
『特別なことは別に・・・庭でエリンと会ったら昔の話を聞きたいって言うから昔のアルバム見ながら、お茶しただけだよ』
「・・・・。ダイアナ、しばらくエリンをそっとしておくっていう話だっただろう」

ぴきん、と兄妹の空気が珍しく凍りつく。

『・・・・。エリンが自分から言い出してることをわざわざ断ってまですることじゃないと思うけど』
「断るべきだ」
『そもそも、アレックスが言うしばらくっていつまで!?』
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アレックスの声音が明らかに不機嫌になったところでダイアナが先に爆発する。

『ケガもすっかり治って、お酒まで飲んでるくらいエリンも普通の体調になってるのにアレックス何もしてないよね!
 むしろいつも通り、昼間は家に居ないでアトリエに行ったりしてるし!
 エリンが皆のこと忘れちゃってるなら、皆とエリンを繋げられるのはアレックスだけなのに、どういうつもり?!』

皆エリンを慕う人間たちは直にエリンの様子を見れないだけに深く心配している。
でもアレックスはそれら全てを完全にシャットアウトしているのだ。

「ダイアナ。他人がどう思おうと、エリンの治療方針は夫である俺が決める。勝手に足並みを乱されるのは困る」
『他人!?勝手!?あのね、あたしだってエリンの家族だよ、忘れた!?
 助けたいと思ったら行動だってするし、間違ってると思ったらハッキリ言うの!もう子供じゃないんだから!』

「誰も子供だとかそんなことは言ってない!必要ないと言ってるんだ」
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『必要ない?そうだろうね!アレックス、一度でもあたしや他の人にエリンのことをどうするかってこと相談してくれた?
 してないよね、誰にも!人間誰でも間違うってことがあるんだよ、どうして何でも自分で決めちゃってるの?!』

「何が一番いいのか、彼女のことを一番よくわかってる俺が決めると言ってるんだ。
 現に今日君が会ったエリンは君が知ってるエリンだったか?全然違うだろう、子供の頃の君を接してたはずのエリンと!
 子供を相手にしていたのとは訳が違うんだ、何も知らない君に相談して一体何を判断できるというんだ!」

アレックスもまた、ダイアナの痛い点を突く。ここまで来ると双方ともに引き下がれない。
大体家族というおぼろげな概念だけじゃない、
ダイアナとしては自分とイアンに利があったとはいえ、エリンを何物にも縛らせたくないという兄の想いのために、
公式に公爵の地位の相続人にまでなったという経緯がある。
激怒というレベルにまでダイアナの血が沸騰する。
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『おい、ダイアナ?お前誰と話してんだ?』というイアンが尋ねる声が遠くからした。
そんな夫イアンの問いかけも無視して、

『その何も知らないあたしがエリンのために何したか知ってるくせに、いざとなると蚊帳の外に置くの!?
 あのままエリンのこと放っておいたら、簡単に町から出てっちゃいかねないてことまでアレックスは考えてる?
 家族や友達のことを教えてあげて、思い出させようとしてあげて一体何が悪いの!
 アレックスってば全ッ然何もしないで・・・そうなってもしょうがないって最初っから諦めてるみたい!』

一呼吸もつくことなく、凄まじい怒鳴り声とともにダイアナは電話を叩ききった。
結果言われっぱなしになったアレックスも怒りの震える溜め息とともに、物に八つ当たりしないこそすれ
不機嫌に通話を切る。
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受話器越しでも兄妹ケンカの応酬が丸聞こえだった執事モナが、少し離れた場所でわざとらしく指示を待っている。

「・・・モナ。俺はエリンを探しに外に出る」
「あたしも出ます!心当たりの場所はありますか??!」
「いや、探す人間はいるからいいんだ。俺もそこに行くだけに済むから。どうもありがとう」

アレックスは携帯を取り出しながら紫の夕闇の中へと出た。
もうエリンの行方をつかむための対策は、警備長のロンがエリンの過去の経歴を知ったことで確実なものになっている。
10数分もすれば分かるだろう。

s3-10 (40)
”あのままエリンのこと放っておいたら、簡単に町から出てっちゃいかねない”
”そうなってもしょうがないって最初っから諦めてるみたい!”

実にダイアナのこの鋭い指摘に、アレックスは反論する言葉を実は持っていない。






そしてアレックスと怒鳴りあいになったダイアナといえばカッカと怒りを沸騰させ続けてる。

「随分アレックスとやりあったな、ダイアナ」
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「だってすごい勝手なんだもん、全部一人で決めちゃって・・・エリンから昔のこと訊かれても話しちゃダメなんだって!
 あたしがいけないんだってさ!」

イアンとしてはアレックスの考えも理解できなくはない。
そして心情的にはダイアナの味方をしたいイアンだが、それよりもこのダイアナの尋常じゃない様子の方が気にかかる。

「まあ、まずは落ち着け。別にあいつも本気でお前のこと責めてるわけじゃなかったんだろ?
 何言われたんだかはわかんねーけどケンカの言葉を全部マジに受け止めんなよ。お前も随分なこと言ってたんだからな」
「~~~いいの!誰かがアレックスのこと怒らないとっ!だから昔、エリンに流されて泥棒とかしちゃったんだからっ!」
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「・・・・まあ、確かにそいつはごもっとも」と、イアンは半分茶化すようにイアンは低く唸って見せた。

しかし、このダイアナの怒りの鋭いこと鋭いこと。
この怒りっぷり。
まるで沸騰したヤカンだと思いついたところでイアンはふと気付き、ダイアナの顔を触る。

「・・・ なあに?」
「あ。やっぱりか。お前熱あるっぽいぞ」
「えっ うそっ」
「たぶんあるぞ、これ。お前、風邪引くと途端にワガママ虫になるんだよな」
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知ってるのは同居したことのあるダイアナの実母マーガレットと自分と”息子”シムボット・アンドリューくらいだろう。
心身ともに健康のダイアナなので回数は多くはないが、
小さな頃から母子家庭で『しっかりした良い子』で育ったぶんダイアナは体調を崩すと子供返りする。

原因が分かり、「いつからイライラしてたんだー、お前はー」と、イアンは諌めるモードから転じて手放しで甘々モードとなった。
促されてダイアナは喉を見せたあとは耳で測る体温計でササっとチェックされる。

「お、37.0℃ジャスト。さすが俺。喉は腫れてないけど自覚なかったのか?だるいとか食欲ないとか」
「う・・・ない・・・、うーん・・・家のなかだとちょっと寒かったくらいかも・・・」と、
体調のおかしさを自覚させられたダイアナは途端にしぼみ始めた。

「散歩させんじゃなかったな、ごめんな。医者呼ぶレベルじゃないし、今日は薬飲んで様子見るか」
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よくよく見れば、熱っぽいのか目もうるうる潤ませながら「うん」とダイアナはおとなしく幼児のように頷いた。

イアンはしまってあった常備してる市販薬を手に取り、
一応説明書きを読みつつ「水持ってくるから待ってろ」と冷蔵庫へ。
━━━━ その説明書きのある箇所が目に入ると彼の動きは止まり、何かを思い出そうとするように宙を見上げた。

「・・・? イアンどしたの?」
「ダイアナお前、先月いつ終わったっけか」
「? ???  ・・・・あっ・・・・あー!!」

そういえば今月”来て”ない。それも10日近く!
女性特有の身体のリズムが毎月一定のダイアナは、まん丸の目をますます丸めた。
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ダイアナとイアンの子供は未来からやってきてないので、すっかり頭になかった。
もしかしたら、エリン達の子供・・・レオやラフィよりも先に産まれてるという可能性を。








タバコの匂いは嫌いだが、こういう場所じゃあしょうがない。
s3-10 (46)

エリンがカウンターに着いてすぐ、自分の財布を開けずに酒が出てくることに安心する。
幾人かの男たちの会話をするりするりとかわしているうちに、
見目も羽振りもよく遊び方も心得てそうな男が自然とトーナメントを勝ちあがってエリンの真横をキープし続けた。

「━━━━」
「━━━━」

仕事の話だとか旅行の話だとか、
表面的ですごくどうでもいい話をしているうちに男がより一層近づく。
s3-10 (47)
楽しく笑えばさらに近づき、エリンの腕をさりげなく、かつ自信ありげに触り始める。
こんなのも、いつ通り。
初対面だけれど互いに予定調和で進める、お約束の展開。
もう少ししたら、くだらないことで笑いあいながら店を一緒に出て、そのまま流れで━━━━のはずが。

ひきつづき旅行話をしながら男に肩を抱かれた瞬間、反射的に背骨を舐められたような嫌悪感が走ってぞっとした。
気持ち悪い!

「・・・・ちょっと?こういうのは、止めて?」
「え?ああ、そう?ごめんね」
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雰囲気を悪くしないように男は笑いつつ、一旦引き下がってくれてエリンは心の底から安堵した。
男は引き下がっても笑顔のまま再度エリンの身体を捕まえるタイミングを図っているのが視線で分かる。
会話の内容など元々心になぞ届いてもないものだったが、ますますエリンの中に入らなくなる。
代わりにじわじわと満ちるのは、自覚した途端に増え続ける嫌悪感だけ。

女として見られてる視線なんか慣れているし、自分の魅力は自分はよくよく知っている。
だからこそ、なんでこんな品定めされるような目と、いかに触ってやろうかという手になぜ身体を晒していなきゃいけない?
・・・・あの結婚しているというアレックスですら一度もこんな自分を軽んじるようなことをしてこなかったというのに。

瞬間、男は自分の言った冗談に合わせて大きく身体を揺らし再度エリンの肩を抱いたところで、
「ちょっと!」と反射的にエリンは怒って突き飛ばした。
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初対面の男にどうしてこう安く見せる・・・見られる必要がある!?

「!? なんだよ、いきなり!何なんだよ!」

明らかに靡いてた態度だったと自覚はある。
しかし嫌悪感とあと、信じられないことに恐怖感すらも抱えながらエリンは高らかに叫んだ。

「・・っ・・・・ ほんの少し喋った程度で、こんなことされる覚えはないわ!」

安い汚い店だったなら男とこじれて宜しくないトラブルに発展する可能性もあったかもしれないが、
幸い相手は大いに呆れたというジェスチャーをしつつ、エリンを二言ほど罵るだけで店の向こうへアッサリ消えてくれた。

そしてエリンはすぐ後ろにの気配に驚いて振り向く。

「エリン!大丈夫かい?」
「・・・・アレックス」
s3-10 (51)
たった今の騒ぎを見かけて急いだのか、アレックスの息が少し速い。
けれど自分が着くまえにエリンが男を追い払ってしまって、
怒ってるような戸惑ってるような複雑な表情のアレックスながらエリンは本当に・・・本当に心から安心して
震える喉でため息をついた。

「・・・平気」
「怖かったろう」
「・・・そう。そう、なの」

ここで怒りに任せて先程の男のところへ行くような男ではないアレックスにも、エリンはさらに安心した。
酒のせいだけじゃなく、心臓がひどくおびえたまま大きく揺れている。
s3-10 (52)
見知らぬ街、見知らぬ家、見知らぬ他人たちに放り込まれて、
『記憶があるエリン』に縛られず、目の前の自分だけを唯一見てくれているのはアレックスだけだ。

それだけじゃなく寝室を共にしているのにもかかわらず何もされていないことによって
自分は女としてもアレックスにどれだけ尊重され大切にされていたのかが分かってしまった。
されたといえば純粋なおやすみのキスだけ。

「エリン?」
「━━━━ あなたのせいだからね!私がこうなったのは!!」
s3-10 (56)
支離滅裂な言葉を吐き捨てながらも、アレックスの胸元を軽く殴る・・・・が、
そのまま彼の服を掴んでしまった。

エリンの中の弱さ。
アレックスにだから見せられるそれに、その心のうちをわかってるよというように微笑む。

「・・・とりあえずこの店は出よう、エリン」

ああ。
もう隠すのも無理だとエリンはうつむいて、搾り出すように言う。

「あの家は、もうイヤ。あそこは私には関係ない場所だわ」
「・・・そうだね。行くのはもうよそう。行く必要もないんだよ。エリン」
s3-10 (54)
帰るという表現すらアレックスは使わなかった。

あの家は『別のエリン』の家であって『君』のものではない。
何者にも何物にもエリンを縛らせたりはしない。
たとえ血を分けた妹や親友、数々の友人達からの親愛を全て踏み躙ることになろうとも、
エリンがそれらに縛られたくないと言うなら、その通りにする。

アレックスは優しく微笑んだまま、「出よう」と店を出た。
s3-10 (59)
見知らぬ街、見知らぬ家、見知らぬ他人たちから開放される感覚にエリンの心は軽くなる。
縛られるのも押し付けられるのも大嫌い。
でもアレックスとの繋がりだけは断ちたくないと思う。

「それで、・・・・どこに行くの?」
「サンセットバレーだけど俺の離れだよ。アトリエなんだけれど、誰も中には入ったことがないんだ。・・・・”奥さんも”ね」

別人のことを話すかのように、『記憶のあるエリン』をそう表現したアレックスに、
ふ、とエリンは微かに笑う。

「ゆっくりできるならどこでもいい。あなたの絵も気になるし」
s3-10 (61)
「興味があるのは絵だけ?」
「まさか」

着いて2人になってしたいことをもう互いに分かってるのもいい。
そんなに子供でもない。
アレックスは車のキーを開けながら「ところで1つだけ訊きたいんだけれど」と続ける。

「そこに君を連れ込むっていうのは世間でいう不倫にあたると思う?」
s3-10 (60)
記憶をなくしてから初めて、エリンは心から大いに笑った。




→第11話










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