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第16話 マーガレットⅡ AminaⅤ

←第15話



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ジョンが自分の夫婦生活の現実を明かしたあとのマーガレットは明るくいることに努めた。
名曲”スタンド・バイ・ミー”の有名なメロディーを「だ、だ、だだ、だーだ」と、拙い彼のギターに合わせて何度も口ずさむ。

しかし彼の小休止のたびに訪れる沈黙に、先程の彼ら夫婦の話題への気まずさがジワジワと沸いてきた。
なにか気の利いたことを言ったほうがいいんだろうか、と。

するとジョンのほうから「何かな、ソワソワして。訊きたいことが?」と切り出されてしまった。
彼女はうにゃうにゃと濁そうとするも人の上に立ち慣れている柔和さでジョンはさらに促した。

「あのー・・・こんなこと、訊いてしまうのは本当に大変恐れ多いんですけれど」
「今更だが。どうぞ」
「お子さんがいらっしゃいますけれど。さっきのお話で。あの、奥様と・・・別れようとか、そういうのは、ないんですか」
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するとジョンは見事なストロークで、じゃらんとギターを掻き鳴らし、それが上手かったためマーガレットは驚く。
ジョンは「これだけはよく練習したんでね。それっぽいだろう」と、
初対面の昨夜には想像もできなかったような、いたずらっぽい目で微笑んでみせる不意打ちに心臓が変な動きをしてしまう。

「君は歴史の勉強はちゃんとしてきたかな、公爵家の起こりは?」
「そりゃあ上からサウス家、ベンジャミン家、ベイリー家といえば小学生で覚えさせられますから勿論知っていますよ。
 初代の女王様の弟妹が分家となって今の三大公爵家になったと習いました」

王家に跡取りが居ない場合は公爵家から女性優位で王位を継承してゆくというのは、この国の常識。
とはいえ、この当時の時点では女児がいないサウス公爵家には関係ない。
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ジョンは「あまり知られていないが」と手首をぐるりとストレッチさせながら、

「公爵家というのは王室のベンチ控えみたいなもので、
 既に子がある結婚の場合は離婚をするには当代の女王陛下の許可調印が必要になる」
「なるほど。・・・・えっ」
「そう。こんな法律が残ったまま女王陛下はあの痛ましい事件でお隠れになってしまったんだよ。
 そして現在の王位継承者は即位を拒んでいる。・・・そうなると我々夫婦は一体今どうするべきか分かるかい?」

目の前の議員でもあるジョンが答えを持ってないのなら、一般市民で学生のマーガレットが答えられるわけがない。
彼女が沈黙しているなか彼は続ける。

「現王位継承者に即位するよう説得し続け現行法に則るべきだの、新法はやはり必要だの方々でごたついていてね。
 このあたりの混乱は我が家の夫婦問題とは別にニュースでも時折やるが市井の人々の生活には関係がないから
 議会で話し合われる優先順位も低い。みんな色々大変そうだ」
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当事者の三大公爵家の当主であるにもかかわらず、このジョンの諦観たっぷりの他人事のような口ぶり。
マーガレットは難しい政治の見識などまったくないが、目の前の1人の人間の夫婦事情に絡みすぎていることを知り、
適当な相槌を打つしかなかった。

そうして時間が経過するとギターを奏でる彼の指は限界を迎え「今夜はここまでだな」と切り上げる。

「マーガレット。明日は店に寄らずに直接こちらへ来なさい。こちらから店には言っておこう」
「あっ、はい!お気遣いありがとうございます。正直今夜は見張られて送迎されるのも恐かったので本当に助かります」

ほーっと大きな安堵の溜息をつく彼女に、ジョンは微笑を浮かべる。
わあ、笑った!笑った!と、非常に珍しいものを見れているのがわかるだけでマーガレットの心は舞い上がる。

「あっ・・・あ・・・でもあの!すみません・・・着るもの、またたぶんコレになっちゃうと思うんです・・・
 私こんなホテルに着てこれるような豪華なドレスとか自分で持ってなんかなくて。いつもはお店で借りてて・・・」

「寒いのにドレスなど着る必要もないだろう。大学に行っているそのままで構わないから温かい格好で来るように」
「はいっ」
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そばかすを美しく輝かせてマーガレットは大きく笑い返した。





その帰り道、マーガレットは夜遅くまで開放されている大学図書館にレポートの仕上げのために寄った。
あんなサウス公爵家の夫婦の内情を知ってしまっては、やらしい対岸の火事視で新聞も見てしまう。
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”公爵夫人様がブリッジポートの植物園で支援会”という記事・・・・吊り目がちの美人が写っている。

「ん~~~~~~~~・・・・・・・」

この美人が、ジョン・サウス公爵の妻であり彼らの双子(アレックス、そしてウィリアム)の母か。
今のジョンは外で女を求めてるようだし絶対セックスレスだろう。かといって離婚もできない、と。

(あーあ、なんだかな~)

下世話な想像をしつつ、モヤモヤイライラするような心地のまま記事を読んでいく。
そこには植物園の主幹スタッフでもある若き植物学の研究者が、
昔に公爵夫人の実家で庭師の一人として働いていた縁でこの度の支援会発足となった書かれていた。

一見微笑ましいエピソードに息が止まる。
ジョンが言うには、自分たちの結婚を急がされたのは彼女が実家で庭師に恋をしたからだと彼は語っていた。
で、この新聞記事と合わせて想像するに・・・彼の妻は今でもその庭師とは切れてはないのだ!
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(なにそれ!)

ただの新聞なのに下品なポルノを見てしまったかのような気持ちになって厭うように新聞を放り投げる。
話を聞かされただけのマーガレットでも連想するのだからジョンだって当然・・・
いや思い起こせば彼の様子からいって確実に彼の妻は元庭師の男とは続いてるに違いない。
・・・セックスが絡んでるか否かなど分からないし、知りたくもないが。

「素敵な恋を」なんて、彼は自分にどんな気持ちで言ったのだろう。
もう30も過ぎて女の接待を受けているのにジョンは恋などしたことないと語っていた。

妻がいまだに他の男と切れず、公務で妻も連れずに国内外を飛びまわり、彼の子供たちも確か他国の学校だとか。
高貴な家の婚姻なんて庶民の自分には分かるわけないが、これは誰が何が悪いんだろうか。
でも不幸だ。間違いなく。
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彼の妻ヒルダ・サウスも同情されるべき立場なのかもしれないが直接知り合いでもないので、
マーガレットは完全にジョンだけが心を寄せる。
無表情な彼がギターに向かい合っていたときだけ見せていた和らいだ目の輝きを思い出し、心臓が縛られるような苦しさが沸いた。

冬の冷えが一層ひどくなってきた。






彼らが知り合って3日目。
ジョンは公務中でも、つい油断すると左の指先を気にする仕草が増えてしまっていた。

しかし昼過ぎから重たそうな雪が降り始めた。
既にマーガレットを派遣してきたナイトクラブには彼女の送迎はこちらですると言い含めたし、この天気で彼女は来ないだろう。
そもそもジョンさえ店側にうまく言ってやりさえすれば彼女が本当にこちらに来る理由はない。
ところがマーガレットはギターを抱えてやってきた。
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いじらしいという表現ぴったりに「こんばんは!仰って頂いたとおりに普段着ですみません!」と鼻を赤くしながら。

「・・・。この大雪に君は律儀なものだね」
「えっ?!ダメでした?あの、あの、でも、お約束していたので今日もやるかなって」
「入って暖まりなさい」
「・・はい・・・・」

ジョンは皮肉ともとられかねないほどの直球な言葉を述べるだけ述べて、相手が戸惑っていようが説明をしない。
感情表現が極めて下手すぎるジョンのこういったところは他人に壁を感じさせ、
特に須らく人当たりがよく、感受性が鋭い彼の息子アレックスにすら誤解を与えて続けている彼の性質のひとつである。

マーガレットはわかりやすくしょんぼりした顔を見せた。

「・・・あの、申し訳ありません。私」
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「座りなさい」

ジョンが暖炉へ導いてタオルを渡してやると、帰ると申し出ようとしていたマーガレットは表情を和らげて礼を言えた。
幸い、彼女には古い時代の無口な祖父がいたので彼の難しい性質にピンときたのだ。

表情が薄く、基本難しい顔ばかりしているようなところも祖父にそっくり。
けれど祖父がギターを弾くときにマーガレットが一緒に歌うと不思議と絆を感じ、祖父の愛も素直に伝わってくるようで
マーガレットは祖父が好きだった。対して祖父もまたそうだったらしく彼女にだけ彼のギターを与えてくれた。

「あ、ギター出します。お弾きなりますよね?」
「君さえよければ自分でやろう」
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「もちろん!どうぞ」

ギターケースから、サウス卿がいそいそとギターを取り出している!
思っていた以上にジョンが楽しみにしていたようなので、ついマーガレットは含み笑い。

「いまの笑いは?マーガレット」
「だって、すごく楽しみにしてらっしゃるようなので」

ほぼ表情が動かないながら、「そうだな。今日も公務中につい動かしてしまったりしたよ」と、ジョンが左指を動かすので
今度こそマーガレットははっきりと笑った。
ジョンがケースを開けると、ギターは濡れ防止のビニールに包まれている。
もはや何のメリットもないのに、こんな準備をして自分のため夜の雪を踏みしめてやってきた彼女のいじらしさが
改めて静かにジョンの胸に迫った。
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「そんなにお好きなら、ご自分のを買い直してたらよろしいかもしれませんね。もう止める方もいらっしゃらないのでしょう?」
「・・・どうかな。ひとりになれば、また私は弾かなくなる気がしているよ」

言ってみて気付く。自分は”彼女と”、ギターを弾ける時間を楽しみにしているようだと。
ごく普通の・・・可憐な学生で、一応彼女の弱みも掴んでいることも手伝い、
他の人間よりは壁を下げて接してもいい状況となっている現状が自分は心地いいらしい。
ジョンはらしくない自分の変化にすこし、気付いた。

一方でマーガレットはふうん、と頷きつつ、昨日と同じようにメロディーを彼のギターに合わせて口ずさむ。
とはいっても本物の講師でもないので指導らしきものは殆どしない。
単純なコードの繰り返しということもあり、だいぶメロディーがそれらしく続けられるようになってきた。
しばらくの時間が経ってから、ふと先程の会話にまたマーガレットが戻す。

「本当にひとりじゃ弾かなくなりそうですか?」
「そうだよ。君は自分が思っている以上にいい先生だよ。君と弾いているから楽しいんだと思うね」
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手元のギターを奏でることに気を取られ、そしてマーガレットがあまりに自然に尋ねてくるので思わぬジョンの本音が出た。
内容も内容だったのでマーガレットは小さく息を吸って目を丸め、彼女の白い肌は赤くなってゆく。

「君は大学でも人気者だろうな、想像が付く」
「え、私、別に中心人物とかじゃないです!勉強もスポーツも特別では・・・普通に友達とガヤガヤやってるけで・・・」
「いいことだ。派手な目立つ者には敵も多いものだよ」
「えーそうですか?でも、そんなこと言ったら、━━━━」

”すごく目立つ”公爵さま”は敵だらけになっちゃうじゃなないですか”、と
ジョンの中のよい部分ばかり見ていたマーガレットは大きく笑い飛ばそうとしてしまったが、
立場と職業柄、実は本当に敵が多いのかもしれないと思いついてしまい止まってしまった。

マーガレットにとっては気まずい沈黙。
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対してジョンも彼女が言わんとしてしまった軽口と、彼女の居心地悪さの察しがついていたので流石に続きは促さない。
ただ助け舟のつもりで少しだけ話題を方向転換してやる。

「私もね。自分の立場は理解してるが、実際の人となりは凡庸だという自覚はあるんだよ」
「えっ。そんなあ・・・」

マーガレットが反射的に否定してやりたくとも、そもそもジョンの人となりを知っているわけじゃない。
まだ共に時間を過ごすようになって3回目の夜だ。

「何か飲もう。君は酒はやめておくかい?」
「ごっ、・・・ご相伴します!でも弱めのでお願いしますっ」

するとジョンはごくごく微かに口角を上げるとギターを置いて、冷蔵庫からビールを持ってきた。
それはこの部屋には似つかわしくない味も薄くアルコールも軽い安い銘柄━━学生のマーガレットのよく飲む銘柄で驚く。
彼は「こいつは学生の頃から好きでね」とわざわざ用意させたらしいことを匂わせた。
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高級暖炉だが火を囲んで床に座り、ギター片手に缶ビール、なんて。まんま学生の飲み会だ。
初日の”セックスを前にしての女のお出迎え”とは大違いの気安さで、ジョンは缶のまま乱暴な乾杯をして2人は語らいだす。
マーガレットの大学であった笑い話を起点に話題はジョンの大学時代の話へ。

「私より少し上の世代にヒッピーが流行ったものでね。それで私は父親にギターを取り上げられたんだが、
 大学の専攻だけは我がままは通したものだよ。といっても卒業後の進路にはこの通り、全く影響がなかったんだが」
「! へえ、そうなんですか?大学では何を専攻なさってたんですか?私は文化人類学です。
 今は近現代の都市部と地方部のファッションの変遷を当時のファッション雑誌の刊行内容に合わせて分析してます」
「私は実験物理学だよ」
「?」
「実験物理学」
「?」
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マーガレットにはサッパリで、頭の中の?マークを誤魔化すように彼女はビールをぐいぐい飲み進み、
その間ジョンに実験物理学において自分がどういったことをしていたかをざっくりと説明してもらって、何とな~くは理解した。

「えっと、つまり発表された他人の論文の内容の実験と同じ事をしてたんですか?」
「そう。再現性の確認のためにね」
「? 誰かがもう実験して結果が出たから論文が出たんじゃないんですか?」
「それが不変の結果だと誰かが検証しなくては意味がないだろう」
「? ? 実験物理学はいつも他人の研究をなぞるんですか?」

これはマーガレット、完全に口が滑った。
初日のように恐ろしい怒りをもらうかと思いきや、ジョンが発したのは「は!」というあからさまな嘲りの発声ののち、

「そっちこそ。ファッション雑誌を見るのにわざわざ大学が必要かい?」
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「! ちょっっとっ!」

彼女が叫んだ拍子に安ビールの缶は簡単に凹み、2人が同時に目を丸めて同時に笑いを噴出した。
そしてマーガレットはわざとらしい納得顔で頷く。

「なるほどなるほど。つまりは、サウス卿は典型的な理系オタッキーなんですね」
「そちらも典型的な文系バ━━ ・・・・ 典型的な文系じゃないかね」
「今!絶対!バカって言いましたよね!」
「言っていない」
「うっそぉ、言いましたよ、殆どおっしゃってましたよぉ~!」

口ぶりとは逆に、マーガレットはケタケタと学生同士の飲み会のような馬鹿笑いまで・・・早くも酒が回ったらしい。
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ジョンは無表情ながら胸中ででおおいに呆れ、食事は摂ったのかと尋ねると
彼女からは「途中で店に入るつもりが雪がひどくで時間がなくなって何も食べていない」と返ってきた。

一転してジョンは顔を引き締めると、外で護衛をしている人物とは別の種類の・・・ 落ち着いた執事のような男性に声をかけ、
また話が盛り上がった頃に軽食が運ばれた。
マーガレットは恐縮しながら、安い学食とは大違いの、凝ったパンで出来たサンドイッチを微笑んだまま齧った。

「あの・・・・あの。お優しいですね、サウス卿。本当に色々すみません」
「謝る必要はない。君は私のゲストだ」
「すごい。私、公爵様のゲストなんですねー。ご馳走様です」

うふふふと赤い髪を揺らしながら、白い肌を染めたマーガレットが気持ちよさそうに1人笑う。
つられてジョンも微かに笑みを浮かべた。

マーガレットが食べ終えて、再びちびちびとビールを飲んでいるうちに
ジョンのギターから出るものは、ちゃんとした音色になってゆく。
食事が落ち着いたタイミングでマーガレットは初めて歌詞をつけて歌いだした。
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単純なコードの繰り返しの曲であっただけに、
歌声がつくだけで途端に豊かな音楽として花開く。
不安定なジョンのギターに上手く上手く合わせてくれている、伸びやかな声。


ジョンももう手元をじっと見る必要もないほど、単純なコードの演奏を繰り返しながら
マーガレットの顔を初めてのように見つめた。
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もしも彼女と同じ大学であったら、
同じ歳であったら。

自分は講義の合間、大学のキャンパスの芝生の上で
こんな素人ギターで遊びながら彼女とどれだけ彩り豊かな時間を過ごせたのだろうかなどと
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眠りにも落ちないうちから、そんな夢を見た。

曲を2回くらい繰り返し、
マーガレットが笑顔と指先で合図してきたタイミングで
流石にジョンも指先の痛みが辛かったので例の素人ながら見事なストロークで演奏のフィナーレを迎える。
若い日の夢にまで見たとおりに自らギターを弾いたのだ。
ちゃんとした曲を。
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指先の痛みすら誇らしいとジョンは思えた。

「━━ すごいっ!すごいすごい!弾けた弾けた!すごーい!やりましたね、指痛かったですよね、でも本当にすごかったです!」
「君が良い曲を選んでくれたおかげだよ。プロの歌が入ると、途端に私の演奏でもそれなりに聴こえる気がするものだ」

プロ、と言ってもらえた!しかも公爵という貴族のひとに!
自分はただのバイトのコーラスガールで、しかも明日にはクラブも辞めようというのに。

「私みたいなのにプロだなんて、ありがとうございます。すごく嬉しい退職金もらっちゃいました」
「事実だよ。私は自分の腕前くらいは分かっているつもりだ」
「・・・・・・わっ、私こそ・・・。 はは、クラブで、歌って、頑張ってましたけど。自分にすごい特別な才能が、ないのは・・・
 知ってるんです」

笑いながら言ったはずのマーガレット、声がずっと震えてしまった。
自分で言って自分で傷ついてしまう。
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対してジョンとしても自覚はあったのかと黙する。
彼のギターに合わせられた先程の彼女の歌声は巧いがそれだけだ。
例えば路上ライブをして”巧いな”と立ち止まってもらえても曲が終わらないうちに、何故か飽きられ去られてしまうだろう。
しかしジョンの鈍い表情筋は、そんなの残酷な感想は幸い表には出さない。

「クラブで他の・・・ソロやってる人の歌って、やっぱりすごいんですよね。売れるために色々あるのかもしれないですけど、
 ・・・・・私じゃ、あんな大きいクラブでステージ持たせてもらえないだろうなって、分かってるんです。
 だから、あの。今回諦めるきっかけもらって良かったと思ってますよ、・・・なんて」

酒のせいで勝手に盛り上がった感情のままに本心を吐露して勢いが止まらない。
酔いで心臓が早い流れのまま、マーガレットは半泣きで続ける。

「あの。わたし、あなたがすき、みたいなんです」
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「・・・・・・」
「・・・酔ってるから。言っちゃいました・・・でも、分かってるんです。どうしようもないって。私なんか」

ジョンの顔は動かない。
1秒、2秒、・・・・5秒経って、
なんとマーガレットから彼に跨るように近づいて目を閉じて唇を重ねた。
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といっても相手が応えなくてもいいように深くではないが重ねるだけ、
けれど気持ちをこめて長く、長く・・・。

マーガレットが離れる気配がして、
共に目を閉じてジョンが彼女を引き寄せてしまおうと手を伸ばしかけたよりも早く彼女は離れてしまう。
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目を閉じていたために彼の挙動にマーガレットは気付かず、
声を震わせながら小声で呟く。
できるだけ軽く、嘘の笑顔で。

「・・・・今日は、私でどうでしょう?」
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手の届かない地位の相手だ。そして彼がこの都市を明日出てしまえば接点などないのだから、二度と会えない。
初めて会った夜にジョンは誰でもいい女を彼は抱こうとしていたのだから、
”誰でもよいなら今夜は私でどうぞ”とマーガレットは申し出たのだった。
そうやって安売りをしないと、庶民で学生の自分など彼には近づけない。

ジョンは恥ずかしさで泣きそうになっているマーガレットの震える睫毛に見惚れる。

初日に好きな人とでないと出来ないなどと彼女は堂々と宣言していただけに、
ジョンとしては彼女にそんな行動を取らせている自分が情けない。

いい歳をして立場もあり、妻も子までもあるくせに、
押し殺し続けて学生の頃のまま、成長させられていられなかったジョンの内側の部分は御し難いほどに彼女に惹かれている。
だからこそ、

「できない」
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そんな安い扱いを彼女にさせるわけにいかないし、したくもない。

しかし説明が足りなすぎる彼の返答はマーガレットの心を殺すには十分な威力で、
居たたまれなさにマーガレットはぼろぼろと涙を零しながらコートだけ引っつかんで部屋を駆け出た。

彼女のギターと共に1人部屋に取り残され、この三夜の彼女との逢瀬を思い起こす。

サウス公爵家の嫡男として生まれてから、
幾度もこんなことはあっただろうと己の心を律するが既にジョンの頭は彼女を追いかけることを考えている。
けれど既に彼女はもうホテルのロビーか、もしくはもう大雪の中を飛び出してしまっているだろう。
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そこには衆人環視の目が無数にある。
公爵であるジョン・サウスは彼女を追いかけて引き止めることすら出来ない現実。

育ちが良く感情の起伏も乏しかったジョンは、そのとき生まれて初めて憤りを物にぶつけて灰皿を投げ飛ばした。





そして翌、4日目。この都市を訪問してきたジョンが帰る日で、マーガレットがナイトクラブ在籍の最終日。
惨めな心のマーガレットは「もうジョンに会いたくない」と考えたところで、
そういえば彼がクラブに上手く言ったのであればもう本当に彼のところに行く必要はないとやっと気付けてホッとしていた。
でも祖父の形見のギターを置いてきたことは大後悔している。

夕方になって家に帰る途中、ナイトクラブの強面の用心棒に攫われるかのように店に連れて行かれた。
監禁でもされるのかと思いきや、店の出入り口には見覚えのある黒服の人間たち。
促された楽屋で副支配人に相当豪華なドレスを投げられ、この異常な対応にまさかという思いは、
ガランとした客席の中の重圧感ある存在を見て確信に変わった。
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「・・・・・・」
「・・・・・・」

気まずいマーガレットだったが慌てて丁寧なお辞儀をすると、ジョンからは瞬きでだけで返事が返ってくる。
そんな互いの動きの大きさが、そのまま立場の差を示していた。

どうして呼びつけられたのか素直に尋ねようとしたマーガレットに、背筋を伸ばした支配人が指示する。

「マーガレット。サウス卿はこれから街をお発ちになるが、最後にお前・・・君の歌をご所望とのことだ」
「・・・はいっ?私もう今日辞めるんですけどっ?」
「それが何か関係があるかね」

素のまま支配人に素っ頓狂な返事をしたマーガレットに”公爵”が重々しく言い、支配人が小声で急かす。
大混乱のマーガレット、支配人に背中を押されながらジョンと目が合うと、彼は彼女にだけ分かるようにひっそり微笑みかけて
眉の動きだけで茶目っ気を出してステージを示した。

「!」
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失恋はともかく、これがジョンなりのギター教室のお礼ということなんだろうと、ようやく理解した。
やだ、泣きそう。迷惑かけてばっかりで、すごい忙しい人なのに。

この都市でいちばんのナイトクラブのステージの中央にマーガレットは立った。
今まではライトも当たらない位置でコーラスだけしてたのに。
お忍びでやってきたジョン・サウスのため、バックバンドも店の一流どころ。
もう店内の全員からはマーガレットが公爵を身体で篭絡したと思われただろうが、どうせ退職日だ。
他の人間にどう思われてもいい。
ジョンに会えるのもこれが最後なんだと雑念を切り捨てたマーガレットの表情が変わり、歌う曲を彼らに頼んだ。

『突然のことで・・・・一流の皆さんに囲まれて私の粗が目立ってしまうと思うんですけれど頑張ります』
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ジョンもマーガレットも、これから歌われる曲は分かりきっている。
3日間ジョンが奏でていたものよりも相当上質な『スタンド・バイ・ミー』のイントロが流れ出す。
人が居ない店内にふさわしく、水面のように静かで美しい。

懐メロばかりだった少年たちの青春映画では霞んでいたが本来これはラブソングだ。

あなたがいれば怖くないから傍にいて、傍にいてと呼びかけて繰り返す。
マーガレットが飲み込んだ涙はそのまま歌声に乗った。
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行き場のない想いが蔦になってマイクから絡みつくように伸びていき、辛いまま店内を這いずり回ってジョンに向かってく。
明らかにマーガレットの歌の何かが変わっていて、自分自身でも驚いた。

歌い終わったあと彼女を特別に評価していなかった店内の面々も驚き顔で、
バンドメンバーからも贈られた拍手は公爵の手前のお義理ではないだろう。
ジョンが微かにだが頷きながら拍手しているのを見て、マーガレットは会心の出来だったことに確信を得た。

支配人もまた、公爵への媚び半分本気半分で彼女の退職を慰留させたい旨を匂わすと、
ジョンは驚くことに「それは許さんよ」と恐ろしいほど冷たく切り捨てる。
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かと思うと支配人に今回の特別な計らいに感謝すると懐柔もしてみせたあと早々に邪魔な彼を追い払った。

店内は人払いされて、やっとマーガレットとジョンが2人だけで直接言葉を交わすこととなる。

沈黙したままジョンは煙草の紫煙を吐く。
そのときマーガレットはそれはジョンの溜め息なのだと気が付いた。いつも彼は溜め息を煙で誤魔化してるのだ。

「まるで泣いているみたいに歌うんだな、君は」
「そう聞こえたのだとしたら、あなたがそういうお気持ちなんですよ」
「・・・そうか」
「そうですよ、きっと」
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マーガレットは嘘をついたがジョンは納得しているようだ。
そのせいで彼女の中に、少しだけ、もしかしたら彼も別れを惜しんでくれてるのかなという期待が顔を覗かせてしまいそうになる。

「いい歌だった。驚いたよ」
「実は私も驚きました。今のはちょっと、・・・私なかなかでしたよね?」

歌手の夢を昇華したマーガレットが心から嬉しそうだ。
はしゃぎすぎぬように、けれど我慢できないマーガレットが一流ナイトクラブのステージの感想を語るのを聞いているうち、
昨夜鍵をかけるべきなのだと収めた気持ちが零れる。

「君には実に楽しい時間を持たせてもらったよ。・・・私には夢のような時間だった」
「そこまで楽しかったのは私の力じゃないです。サウス卿。やっぱりご自分のギターを買われたほうがいいですよ」

マーガレットが少しだけ苦笑するとジョンは煙草を消した。

「初恋の夢だよ、マーガレット」
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息を止めたマーガレットの指先の、ほんの爪の先だけジョンが触れると痺れのようなものが走った。

黙ったまま息を潜める。
それでこれから私、いや自分たちはどうするんだろうかとマーガレットが思惑っていると
表情の薄いジョンとやっと目が合って、あまりにそれが辛そうな瞳だったのでマーガレットから彼の手に自分のそれを重ねた。

「去りがたいが・・・今日は私はこのまま・・・ ━━ 家に戻る」
「私はどうしたらいいですか?」

惚けきったマーガレットから発せられる熱はジョンにはかなり魅惑的に届いてくるが、これ以上予定は覆せない。
公爵など我侭放題だろうと思われがちだが実際はそんなことすれば各方面にどれだけ皺寄せが行くのかも知っている。
心を二の次にし、流れに身を任せ自分を律してばかりのジョンの余生のなかで見つけてしまったものが
このマーガレットとの時間だった。
ひとりの人間に戻れる時間。

「日を改めて会おう。それまで君のギターは預かっておく。昨日忘れていっていたからね」
「祖父の形見が人質ですか?じゃあ嫌でも行かなきゃですね!」
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マーガレットとジョンは同時に指を絡めたのち、空気を震わす程度ながら同時に笑った。
そんな心からの笑いで緩んだ途端、
空が崩れ落ちるような恐ろしさに襲われかけるマーガレットの胸中を察するように
ジョンは少し眉根を引き締めた。

「マーガレット。終わらせたいときはいつでも・・・君にからにしていい。私に引き止める資格はない」
「・・・・」

ジョンが背負っているもの━━特に妻と子たち━━を暗に匂わせられて、始まったばかりであるものの
マーガレットは頷くしかない。

「今日はこのままお発ちになるんですよね?連絡・・・私、取れないですよね、どうしたらいいですか?」
「私から手紙を送るよ。君は会えるときに来てくれれば嬉しい。・・・ただし学業は疎かにしないように」
「はい。それにしてもお手紙ってクラシックですね。素敵。さすが”公爵様”ですね、サウス卿」
「ジョンでいい」
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表情も声音も静かで動かぬものなのに、
その一言だけで彼から確実な思慕の情が伝わってきてマーガレットは頬を真っ赤に染め上げ俯いた。

「あのっ!あの、あの、・・・てっ、手汗すごくなってきちゃっててっ、す、すみません・・・!」

さすがのジョンも俯いて笑いを堪えた。







後日、マーガレットのシェアハウス寮にジョン・スミスという、ひどい偽名の手紙が届く。
中にはジョン・サウス議員を含んだ外遊する視察団がオランダ入りしたということで、
一般就航便のオランダ行きの最上クラスの航空券よマーガレットの名前でとってあるというホテルを示したカードが入っていた。




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第15話 マーガレットⅠ Amina Ⅳ

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s3-14[28]
マーガレットは中流家庭の生まれの次女。
金に困ることもなく、かといって裕福でもなく音大という進路は取れなかったのでサークルで音楽をやっていた。
ギターを弾いて、そのうち歌うようになって・・・若さ特有の『私はこんなものじゃない』という意思に従い、
何人もの有名な歌手がデビューしている老舗ナイトクラブで歌手として働くことなった。

といってもソロシンガーで使ってもらえるわけはなく集団のコーラスの一員だったがマーガレットは美人の部類に入ったので、
店が客層を選ぶレベルの、その都市でも一、二を争う名店に滑り込めたのだった。

ある夜。

「マーガレット!君、今夜ステージには出なくていい!急いでコート着て!」
「えっ、なんで?!私クビにされるようなことしてない!!」
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18歳のマーガレットは特徴的な赤毛を震わせて声高に叫ぶと副支配人はとんでもない!と焦りながら、

「違う違う!○○が今日風邪だかで休んだろう?
 今夜出張ステージさせる頭数だったもんで代わりのバックコーラスが急ぎで必要なんだ。上乗せかなりするから!」
「えっ、あ、OK!衣装は?!これで平気!?」

駆け出しとはいえ一丁前にプロ意識はあったマーガレットは急かされながらも店が貸してるドレスを身振りで示す。
クラブの格を示すがごとく上等なものだがコーラスらしく悪目立ちはしない。

「黒でちょうどいい。他の連中とも揃うよ。頼んだよ、タクシー裏に付けておいてるから大至急。
 約束は8時半だ。急いで!行き先はこのメモにある。今日は出張終わったら、店に戻らないであがっていいからね」
「わっかりました!」
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「じゃ、これ。他の連中には内緒だからね」

早速ひみつの上乗せ分として、紙幣を輪ゴムで束ねた比較的小さなものを握らされる。
とはいえ学生にはありがたいボーナスだ。
直帰できると聞いたマーガレットは自分の荷物・・・ギターケースとコートを引っつかんで店から飛び出した。




そしてメモが指し示す場所は雰囲気のあるドアマンが居る、その都市いちばんの高級ホテル。
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書いてある部屋の名前はホテルのボールルームだろうか?
メモ差し出してホテルマンに行き先を尋ねるとエレベーターを最上階まで登らされ、
黒いスーツの人間が居てメモを見せる身体検査も受けて入室することになった。

とはいってもマーガレットの勤めてる老舗クラブも十何年か前に、この国の寺院で女王陛下が亡くなったテロの影響か
軽い荷物チェックの上での入場があるので違和感はない。
ただドアの感じからいうとレストランだのの店というよりは・・・会員制クラブ?
いや、それよりも客室といった感じで店内はまだ見えない。

マーガレットがキョロキョロすると『suite』の文字が入ったプレートが目に入った。
成程すごい客室での出張ライブかと気合が入る。もしかしたら今自分はすごいチャンスを前にしてるかもしれない。
だってこのすごい部屋の借り主に気に入られれば、道が開けるのかもしれないのだ。
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店で歌われているナンバーは大体頭に入っているから、
伴奏者とその場で話し合いながら歌えるだろうとマーガレットは腹を括った。
スイートルームのコネクティングルームを抜けると、やはり広い客室が広がっていたがパーティの気配なんて全くない。

「あれ?」
「奥へどうぞ」

さらに奥からの声に導かれて歩き進んでいったマーガレットは、その声の主を見て度肝を抜かれた。

「時間通りだね。私は名乗る必要はあるかな。あなたのお名前は?」

熱心にニュース見ないマーガレットでも相手の名前も顔も立場も十分に知っている。
当時のサウス公爵家当主・・・アレックスの、そして後にダイアナの父親となるジョン・サウスがそこにはいた。
s3-14[30]
温かい火のストーブの熱と、バニラの甘さをはらんだ紫煙が彼を取り巻いている。
近年出たばかりだという流行に乗るナイトクラブの客が嗜んでる銘柄だ。

「名乗っていただくなんて滅相もないっ!サウス卿!!わぁーっ      ・・・・あっと、すみません!
 今日のお客様のお名前を存じ上げなくて驚いてしまいました。私はマーガレットと申します」
「よろしく、マーガレット。何か召し上がるかな。難しいものは作れないが飲み物は?」

公爵の手前、マーガレットはちゃんと苗字も名乗ろうとしたのに
彼は芸名だとでも思ったのか話題を切り替えてしまった。

「あっ、えと、わあ・・・お構いなく!!」
「そう。でも飲み物もなしに平然と話せるほど私は女性に達者な方じゃあないんだ。付き合ってもらえるかな」
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彼の柔らかい物腰で巧みに促される。
マーガレットは酒が強くないので恐縮しきりながら「じゃあ、お酒はごくごく薄めで・・・弱いので」と申し出ざるをえない。

「カクテルもどきでも作ってみようか。美味しいといいんだが」

本心ではまるで困ってるように見えないが、ジョンはさて困ったといった風に微笑んで
煙草を手離さずに逆の空いてる手でグラスに直接、氷とジュースやらを量りもせずに注ぎ
マドラーで手際よくかき混ぜたものを作った。

まるで旧来の友人でも招き入れてるかのような距離感にマーガレットは戸惑いながらも興奮する。
自分はこんなVIPに歌手として迎えられてるんだ!
グラスを当てずに乾杯をして微笑む。

「美味しいです!きっと同じウィスキーですよね?きつくないです」
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「それは良かった。君の髪の色に合わせてクランベリージュースでもあれば良かったんだが」
「私オレンジジュース好きですから」

マーガレットは明るく声を出して笑う。
理由は分からないけれど、何やら自分は非常に歓迎されているようだ!幸先がいい。

なんとなく、彼女にはこの状況の想像がついてきた。
副支配人は非常に焦った様子だったから、他の歌手(もっと店の上位の人気ソロ歌手だろう)に渡すはずだったメモを
間違えてマーガレットに寄越してしまったんだろう。
本来なら自分が店に電話でも借りて連絡をして、本来のバックコーラスの仕事につくため引き返すべきかもしれないが・・・
ここまでの大物とのコネクションを結べる機会はそうそうあるもんじゃない!

「店の者からは場所とお時間だけしか伺っていなかったんですが、今夜はどのようなナンバーがよろしいですか?」
「・・・うん?」

そこからマーガレットは、クラブでバックコーラスしているスタンダードナンバーから
少し趣向を変えてカントリーミュージックも歌えると鼻息が荒くなりすぎないようにアピールした。
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「場所はやはりこちらのピアノ付近でよろしいですよね?
 伴奏者がいらっしゃらないなら私、あまり上手ではないのですけれど自分である程度なら弾けます」

もう少し時間が経つとパーティの来客があるのかもしれない。
いや、こういう人はイベントコーディネーターをちゃんと雇ってそうだから尋ねるのは無礼だったろうか。

「すみません。私、1人でべらべらと話しすぎました。今夜の演奏について、ご担当者の方に伺った方がよろしいですよね」
「・・・・・・」

彼は何かを考えてるかのように暫く静かにマーガレットを眺めた後、グラスを置く。
グラスの中の美しい氷ががらんっと回った。

「君は、どんな言いつけでここに来たのかな?」
「え、店の者からはこちらに、この時間に伺えと・・・」
「歌えと?」
「は、い・・・歌手ですから」

肌が縮むような確実な怒りをジョンから受信する。
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「伴奏者と言ったが他の者が来る?来るのは1人だとしか私も聞いてはいないし、そもそも歌うなんて話などないよ。
 君、どうやってここに潜り込んだのかな」
「っ!」

やばっ、なんでだか簡単にバレた!
マーガレットが分かりやすく表情を崩すと彼は大人の余裕か、ため息ひとつで許すこととなった。

「それを飲んだら帰りなさい」
「はい・・・・申し訳ないです・・・・・でも、でも、私、あの。怪しい暗殺者とかじゃないんです・・・本当に・・・」

その言葉に彼はつい笑いを噴き出しそうになったが得意の無表情でそれをしまいこむ。
さらに彼女はちび、ちび、と本当にジョンに言われたとおり杯を飲み干してゆく気らしく、幼いのか肝が太いのかと内心脱力した。
飲んだら帰れ、というのは定型文みたいなもので額面通りに受け取るものじゃないだろう。

「・・・まあ。外の連中が調べたから危険ではないんだろうが、ね」
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正体を見破られたのに、この娘は気まずくないのか。
逆にこちらの間が持たない。

「それで君は今夜どうやってここに?そもそも君は誰かね、マーガレット」
「私今月からあのクラブでバックコーラスやってる駆け出しの歌手なんです。さっき急に出張ライブ行くように言われて・・・
 たぶん、副支配人が他の歌手に渡すはずのメモをくれたんだと思います・・・」
「なるほど。単純なミスだな」

そして蓋を開ければ出てきたのが公爵の自分で、このマーガレットはチャンスに乗っかってやろうとしたわけか。
あっけらかんとしてるわりに度胸があるといえば聞こえはいいが、分際を弁えない娘だ。

・・・それだけ歌手で大成することを夢見てるんだろう。
ジョンが思った瞬間、わずかに胸が焦げるような感覚を覚えた。夢に邁進している若い彼女への嫉妬。
公爵という自分の地位に安易に飛びつこうとした彼女に灸を据えるつもりでと、嫉妬ゆえの意地悪な気持ちも手伝って
ジョンは鼻で笑う。
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「今夜、あの店が寄越すと私に押し付けてくるのは確かに歌手だったが、別に歌ってもらうためじゃあない。
 クラブが売り出したい歌手に『支援者』をつけてやりたいために熱心に今夜のお膳立てしてただけだよ」

「・・・・? えっ?」

「私は『接待される』側だったんでね。来る予定の歌手の名前も知らない、というわけだ。
 まさか、どんな『接待』なのか分からないということはないだろうね」

つまり店は本当は一押しの”女”の歌手を、この都市にやってきている公爵に宛がおうとしていたわけだ。
気に入られれば歌手も店も、公爵も美味しい思いができる。
惨い現実だが劇的な才能でもない限り、ナイトクラブ歌手なんてものは娼婦まがいだというのがジョンの中での現実だ。

「あの店が有名どころを排出してきた老舗だというのもこういうことだよ。どこの都市でもよくよくある。
 君は先月始めたといってたが、そういう娼婦まがいのことをしてゆく覚悟はあるかい?」

チャンスに便乗しようとはしたものの、そんな予想もせずに歌う気満々で乗り込んできたのだ。あるわけがない。

「・・・━━・・・・・・・」
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泣きはしないが、怒っているような、悲しんでいるような・・・・生々しく傷ついた彼女の表情にぎくりとさせられる。
彼女の中で輝いていた薄く弱い何かが割れる音を聞いてしまった気がした。
現実を必要以上に鋭く突きつけたのは自分だ。

「・・・もう帰りなさい。マーガレット」

ジョンが退出を促すつもりで彼女が出て行くべきドアに目をやると、
マーガレットが持ちこんで床に置いたままのギターケースがあって戸惑った。
彼女はギターを弾くのか。
つい無意識にジョンは自分の左手の指先を擦り合わせた。
あんなにも先程まで生き生きと夢に生きていたのに、今はジョンのせいで死にそうな顔のマーガレットがぽつり呟く。

「ああ。あなたも、お弾きになるんですね。アコギですか?」
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表情は大きく崩さないがジョンの目が明らかに動揺した。
確かにこのジョン、若い時分にギターをやっていたが・・・先代当主の父親にふさわしくないと断じられ、取り上げられた。

「どうしてそう思うのかな」
「今、左手・・・指・・・・ 私もよくやるんです。痛むから。クセで」と、
マーガレットも自らを抱きしめながら彼がやったのと同じように指先をすり合せる仕草を見せる。

「大昔の話だよ。もう自分のも捨てた」
「弾きたければどうぞ?」

昔捨てたはずの未練を見透かされたことに動揺が収まらない。
ギターを抱えて歌手の夢に生きている彼女に対して、
年甲斐もない嫉妬のせいで意地の悪い物言いをしたことは既に彼女にも嗅ぎつけられたのかもしれない。
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公爵という地位で政治家でもある彼は装うことは得意になっていたが、
ジョンは彼女にしたことへの自責の念から少し心のままの苦笑を零す。

「フォークギター、なんていう歳でもないだろう。」
「そこらへんでおじいちゃんでもおじさんでもフツーに弾いてますよ?でもやっぱり。フォークギターやってたんですね。
 おじいちゃんにもらった年代物で価値があるものじゃないけど悪くはないギターです」

ジョンの返答を待たずに手馴れた動作でマーガレットはずるりと相棒を取り出した。
さらに彼が受け取らなければ床に落としてしまいそうな軽さで渡そうとしてくるので、ギターは公爵の腕に収まる。
懐かしさのまま、スーツであることも忘れて彼はそのまま握りこむ。

懐かしい。

Cコード、Gコードと、覚えてるだろうかと遠い記憶を探りながら弾くと、昔と同じ音が出た。
続けてD、Em・・・・・確認するかのように一音一音。

「もし、曲が弾きたければ遠慮なく。私はこれ飲んじゃうので」
「・・・・・」
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が、ジョンはそれ以上曲らしいものを奏でず、ずーっとコードを単調に弾いているだけ。
数十秒ほど彼女の空色の瞳がきょとんとして、ずばり呟いた。

「あ。曲は弾けないんだ?ピンポンですか?」
「!!」
「あ、わっ!ごめんなさいっ、ついホントのこと、いや、じゃなくて!うっわ、ごめんなさい!」

公爵サマってこと忘れてた!とばかりにマーガレットは慌てるが、大図星を指されたジョン。
腹の底から恥辱がわきあがる。

そう、若い彼女くらいの歳のころ。
フォークや弾き語りに憧れてギターと初心者用指南本を買ったはいいが独学である上にギター仲間なぞもおらず、
特別な才能があるわけでもなく、あんなにも夢中になったものの結局覚えられたのはたった4種類のコードだけ。
曲なぞ弾けるわけがない!
覚えてしまうまえに取り上げられたギターへの憧れは、そのせいで焼き焦げていたのもあった。

「もういいだろう。返す!」
s3-14[38]
「まあまあ!恥ずかしいのは分かりますけど!左手をちょぉっと失っ礼~」

酒の入ったマーガレットは妙ななれなれしさを発揮し、舌をちょっと上唇に出しながら勝手にジョンの指をいじりだす。
これが仕事の相手であれば容赦なく拒むところだが、歳が離れているうえ先程いじめてしまった娘だと躊躇されてしまい、
彼が戸惑ってるうちにマーガレットはぐいぐいとコーチを始める。

「お母さん指はここ~、お兄さんはこっち、おねえさん指はここに置きまーす。はい、弾いてください」
「君」
「弾かないと!音出ませんよ?ほらほら!」

嫌々半分、意地も半分。弾いてみると初めてにしては悪くない(と思われる)音が出せた。

「ギター始めたのは本とかで?独学ですよね?」
「・・・そうだね」
「本で1人でやるより、ヘタでも誰か相手が居たほうが捗るんですよね~。じゃあ次は人差し指で、ここをぜんぶ」
s3-14[47]
すると即ジョンは反応して「Fコードはできない」と言い切った。
Fは一番指の押さえ方が難しいと言われているコードで、かつて彼も本の説明にしたがって試しはしたものの結局出来ないまま
ギターと別れた。

「できないからやってるんじゃないですか」

指が壊れそうだ。歯を食いしばりつつ、とりあえず弦を指で弾きはしたものの奏でたとは程遠い。
ほら、もういいだろうと苦々しい気持ちでマーガレットを見ると素晴らしい笑顔で、

「やったっ!できたできた!すごいですよ、Fを押さえたまま音出せただけで!!
 私押さえることすらできなくて2日間はかかりましたもん。どんどんやってみましょう!」

相手を乗せるためじゃなく本気で嬉しそうにしてみせる彼女に、ジョンは三度目の「帰れ」は流石にもう言えない。

そのまま数個のコードを教えてみせると結局数十分ほどが瞬く間に経ち、
ジョンの育ちのよい柔らかだった指先は昔のように簡単に真っ赤になって手の平に冷や汗が滲んでいた。
彼が弱音は吐かなくとも身体は正直で、左手の指が痛みから逃れたがるせいで上手く弦を押さえようとしない。

「あ、もう限界ですね。でも久しぶりの初日で結構な時間連続でやってたんだから、すごいですよ」
s3-14[46]
最初こそ嫌々だったのに気付けば年甲斐もなく夢中になってしまったと、ジョンに恥ずかしさが湧き上がる。

「結局、時間を使ってしまったな」
「でも楽しかったですよね~1人でやるときより気分が乗りますよね~」

マーガレットは取り出したときと同じように、てきぱきと相棒のギターをケースにしまう。
黙ったままのジョンにマーガレットは空色の瞳を丸める。

「あれ。楽しくなかったですか?指がそんなになるまで弾いてたらっしゃったのに」
「君はどうして、そう・・・。・・・・無遠慮なのかね」
「真ん中っ子って、このくらい図々しくないと家族で埋もれちゃうんです。そのせいかもしれませんね!」

マーガレットは明るくジョンの指摘を笑い飛ばした。

「でも私は楽しかったです。ちょっと落ち込んだから」
「!」
「・・・・教えてくださって、ありがとうございました。あのクラブは私には合わないみたいだから辞めることにします」
「随分思い切りもいいな、君は」
「売れるために好きでもない人と、・・・”する”、なんて。あたし、出来そうもありませんから。お邪魔しました」
s3-14[42]
上流家庭出身でもないというのは雰囲気で分かるが、きちんとした躾を家庭で受けてはきたようだとジョンは考えた。
そうしてマーガレットはその部屋を退出した。






そして翌日。
夜にでもナイトクラブには退職する旨を申し出ようと心にきめていた。
s3-14[62]
『実は昨夜はあのサウス公爵に素人のギター教室もどきをした!』と、
大学の友人に軽々しく自慢したい気持ちはあったが自分が訪問させられた理由も理由だったので
何となく言えずじまい。

ジョン・サウスのことを思い出す。

入室した直後の女性を接待するとき用の顔、その後の無表情気味のよそ行きの顔、
表情は動かないながらギターを手にしているときだけみせてた目の輝きを思う。
人懐っこさは皆無だったけれど年齢の差があるわりには不思議と接しやすかった。

30代過ぎてる”オジサン”にしては結構かっこよかったし、ファンになっちゃったかな。
将来、またこの都市に訪問してきたときには大勢の市民に紛れて旗を振りにでもいこうか。

(でも偉い人って窮屈そう。きのう、簡単に弾ける曲ぐらい教えてあげればよかったかな)
s3-14[61]
庶民の大学生と、議員でかつ貴族じゃ二度と会うこともないだろう。
まだネットが世間に広がる前夜のころで、気軽にツイッターだのインスタだので一方的なファンコメントをできる相手でもなかった。






しかし、その夜にはマーガレットは真っ青な顔色で再びジョンのもとに現れることになった。
スケジュール通りの訪問なので護衛官も入室を許可したが、
私服のジョン・サウス公爵は不機嫌なため息を隠しもしない。

「何故また来たのかな。・・・昨日の話を分かった上で、気が変わったとでも?」
s3-14[48]

マーガレットは蒼白のまま首を細かく振って、すぐに説明を始める。
昨夜の抜けている副支配人ではなく強面の警備員を伴った支配人に正面きって脅されて仕方なく来る羽目になった。
辞めるにしても、昨夜は公爵とどうやら長い時間を共に過ごし”気に入られた”のだから、
クラブの名誉のため彼の滞在の最後まで『ご接待』をやれと。

支配人には借りている家まで知られていているためにトラブルになって家に押しかけられでもしたら
大家を通じてナイトクラブ勤めをしていることが厳しい両親に知られてしまう。
マーガレットは謝罪の言葉を繰り返し、「あなたの滞在中だけやり過ごせば辞めることはできるんです」と縋るしかない。
s3-14[52]
相分かった、もう言うなとジョンは手挙げ彼女を言葉を止めさせた。
だからナイトクラブなぞで働くべきじゃないというのだ。
ジョンは「随分と高い代償になったな」と紫煙を冷たく吐き、
彼女も同意とばかりに小さくなってコクコクコクと頷いた。

「事情は分かった。護衛官がいるコネクティングルームで過ごして帰りなさい。飲み物くらいは出すように言っておこう」
「えっあ、あっ・・・あの」
「何かな。私は君と寝るつもりはないよ」
s3-14[50]
恥ずかしいが全ての勇気を振り絞って、汗までにじませながらマーガレットは笑顔で、
「すっごく簡単に弾ける曲、私思い出したんです!」と声を震わせながら己のギターケースを差し出す。
虚を突かれたジョンは「は」とだけ言葉を漏らしてしまった。

「いつかどこかで、お会いできることがあったら教えて差し上げたいなって思ってたんです。 
 ・・・・まさか夜に早速また行ってこいってなるとは思ってませんでしたけど」と、マーガレットは苦笑い。

昨夜10数年ぶりのこの楽器との再会は確かに・・・・ジョンにはひっそりと心に迫ったものがあった。
ジョンの少し上の世代にギターを手に自由を歌うムーブメントがあって、それがジョンの亡き父親には嫌悪する理由だった。
彼にとっては青春と自由の象徴。
別に予定もなく、いつものように酒を舐めながら適当な時間を過ごすだけだったのだから、
滞在の暇つぶしにいいだろうと顎だけでソファーへと促し、了承してやった。

「それで?どんな曲かな」
「スタンド・バイ・ミーです!かなり古いですけれど、ちょっと前に映画でも使ってたし。ご存知ですよね?」
s3-14[53]
「ああ・・・なるほど」

昨夜と違って酒は飲んでおらず、若干の緊張はしているマーガレットの、つたないギター教室が始まった。
この曲で使うコードは本当に多くはないが10年以上ぶりのジョンでは正しい音を出せる回数は少ない。
簡単にいらない弦に指が当たってしまう。
ジョンに練習を繰り返されていると、黙って見守るしかないマーガレットのほうが少し居心地悪くなって、つい四方山話。

「今回はご家族での出張じゃないんですね?前にご家族で外遊されてたの観ました」
「息子たちは長期休暇以外はスイスでね。
 ・・・・・。妻はブリッジポートの植物園で支援会だかを主宰するらしい。共に出かけるほうが少ないな、我が家は」

この、彼が妻について語る前の一瞬の間にマーガレットは気付かない。

「息子さん達は双子でらっしゃるんですよね。そうそう、そういえば奥様とは学生結婚だったとか。私と同じ歳のころに。
 今日ちょっとだけ図書館で公爵家のこと調べてしまいました」
「私の高校卒業直後の夏に先代の父親が急逝してね。あちらの家が焦って嫁がせてきたんだよ」
s3-14[54]
「あ、なんだかすみません・・・でも、お若いときから支え合ってきたなんて素敵ですね」

ジョンはこともなげに、

「2人の息子たちは可愛いが、君の想像している世間の結婚とは異なるな」
「え?」
「私たちがまともな夫婦であるなら、出張先でエスコート嬢もどきの歌手の接待などそもそも受け入れない、という意味だよ」
「う」

確かに!
意図せず、マーガレットは自分がジョン・サウス公爵の非常に繊細な部分へと触れてしまったと分かりやすく狼狽する。
s3-14[58]
対してジョンとしては既に昨夜からの状況で一目瞭然であろう事実を述べただけなので感情的に乱れはしない。
恐縮してオドオドしてみせる彼女は初々しく常識的で・・・彼には眩しく映った。
どこの大学のキャンパスにでも居そうな、スレていない可愛らしい女子学生。
老婆心か、それとも自分のようにはなって欲しくないという希望を託したいのか、彼は尋ねる。

「・・・君は、大学生だったね。今デートしてる相手はいるのかな?」
「いやっ、全然!今は正直歌のほうが楽しくて、大学は行ってからはデートしてません」と、マーガレットは少し赤面。
「できれば好きになれるひとを見つけて、若いうちに恋愛はしておいたほうがいい。大切なことだよ」

ギターを見下ろしたままジョンが暗い目で薄い笑顔で呟く。

父親に高校最後の夏にギターを捨てるよう命じられ、ジョンが戸惑ってる隙に使用人達は粛々と彼の宝物を処分した。
その直後、その父親が急逝して大学生の身ながら爵位を継ぎ、生前の父親の命で婚約していた女性と結婚をして・・・
周りが切望するままガムシャラに公爵として、さらには父のあとをなぞる様に議員としても動き回ってきた。
s3-14[59]
「あ、でも婚約前は奥様とも、よくあの・・・デートとかなさってたって。王室や貴族のお宅を何十年取材してきてる記者の、本に」
「ああいう物語はロマンティックな小説だよ。みんな好きだろう?
 真実はね、私の妻は10の頃から嫁ぎ先を決められ教育を受けてきたが、実家の庭師見習いの青年に恋をしていた。
 彼女の家はそれを引き離すために私との結婚を急いでね」

出来もしないのに、ジョンはチューニングをするかのようにペグをいじる振りをして酒のグラスを傾ける。
かなりの事実を語ってはいるが、
このマーガレットも親にバレたくないという弱みがあるので漏らしはしないだろうとジョンは続ける。

「哀れな女性だよ。公爵家に求められる役割の重さを徹底的に頭に叩き込まれてきたが、彼女の心はそう上手くいかなかった。
 当然だろうな。息子達が産まれたのは結婚4年目だったが、私が彼女のベッドに乗れるようになったのは
 3年目を過ぎてからだったよ。今も男女の夫婦というよりは公爵家という職場の同僚という感覚に近いかもしれないね」
s3-14[60]
ジョンは近年は慢性的な虚無感を内包するようになっている。
ウィリアムにアレクサンダーは、父親である自分を苦手をしているようだが自分には可愛い子供らだ。
しかし次代を継ぐ息子達ももうけた以上、あとの人生はもう消化試合なのだ。
━━━━ この、30代前半の世間で言えば男の盛りに、既に余生を送ってるかのような感覚。

そんな夫婦が、家があるんだと張本人から聞かされるなど初めてのマーガレットは、
自分のことのように悲しそうな顔をする。そしてジョンのことを心配した。

「あなたにも、本当は・・・他に好きな人がいたのですか?」
「いいや。私は幸い、小説にあるような恋なんていうものはしたことがない。婚約前にそれなりにデートはしてたがね」

「・・・・・・」
「マーガレット。君くらいの年のころというのは、今の君自身が思っている以上に大切なものだよ。素敵な恋を」
s3-14[57]
まるで老人のように30代の彼は枯れた目で、驚くほど優しく微笑む。

「・・・・は、い」

老人のような物言いに胸が痛んだ。



→第16話






第14話 弟がいたら Amina Ⅲ

←第13話





マリアといえば丸め込まれちゃった、という思いのままアンドリュー達の自宅の研究室に連れてゆかれ。
しかし求めに応じられるまま徹夜の興奮のままタラ教授は
イアン達に起こっていることが事実なのだと早口でまくし立てて言い放つ。

「君のような人間にこの現象を理解できないのも無理はないだろうな。まあ信じられないというなら飲んでみるがいい」
s3-14.jpg
「! なに言ってるんですかっ」 
「オーナーァ!失礼ですよ」 
『タラ教授。だめですよ』

自立思考のシムボット3体、”解毒薬開発チーム”のボスであるタラ教授に真っ向から歯向かうので
タラ教授は「うるさいうるさい。揃いも揃ってダイアナに似おって」と毒々しく呟く。
アンドリューはそのまま先ほど雇い主のイアン&アレックスからの伝言━━研究を急いで無理はしないようにとの旨を伝える。

「・・・。私は寝る。この娘の説得はお前たちが好きにするがいい」
s3-14[1]
その探究心の強さゆえ、つい徹夜して寝不足で不機嫌なタラ教授は客間へ引っ込んだ。

そのあと残されたマリアはというと、
人間が感知できない領域でアンドリューとの関係を知らされたとでもいうのか
今回の騒動を引き起こしている薬についてのプレゼンテーションを3:1の構図で実に丁寧に受けることとなった。







「それで、ここが━━ アンドリューの部屋。すごい。オーシャンビュー」
s3-14[3]
畏まったものを取り払ったアンドリューに連れられたあと、初めて2人きりとなって改めて照れが走る。
景色の話題で誤魔化した彼女の背中に、ぴっとりと彼が寄り添う。

「・・・家族以外の人が入るの、初めてだ」
「っ! あー、そうなんだ・・・」
s3-14[4]
「・・・・」
「あはは・・・・」

後ろから強く抱きしめられてたままマリアの首筋にアンドリューの鼻先が埋もれて、囁かれる。

「さっきは焦った。本当に」
s3-14[5]
これはもう、いつもとはぜんぜん重みが違う。
っていうか非常に単純だけど敬語を止められただけで相当に・・・・
うっすらガラス越しに目が合うとアンドリューが微笑む。

「顔。そこまで赤くなるの初めてだ」
「だ。だっ、だ・・・・って、さーぁ・・・!」

堪らずにマリアはその場に座り込んで、アンドリューもそれに倣う。

「・・・僕はもう他の子とデートしたりはもういいやって思ってたんだけど、そっちはどう?」
「え」
「僕が、・・・こういうことを訊くのは・・・違うのかなって思ったんだけど」
s3-14[7]
人間じゃないから、という含意にマリアはつい無言。

けれど他の人間同士のカップルのように、真剣にコミットメントする段階に自分たちは来てる。
というよりも、それはもう済んでるといったところか。

今まで身体を幾度となく重ねては来たが、マリアの方からの始め方のせいで遊びの延長の色が濃かった。
明るく楽しく笑いながら、単なる気持ちのよいスポーツのようなもの。
そのため、このようにアンドリューから真剣みを帯びて押し倒されたことはない。

「嫌なら言って」
「・・・やじゃ、ない、けどさーぁ・・・」
「・・・・けど?」
s3-14[8]

不安そうにアンドリューが動きを止めてマリアを真っ直ぐに見る。

「そうじゃなくってさ、あのさ。ここ・・・・アンドリューの家族、いる、んじゃないの?いいの、その・・・しちゃっても」
「居るけど聞こえない」
「そうじゃなくってぇ!は、恥ずかしいじゃない・・・?
 ルームシェアとかしてる友達じゃなく、親、っていっていいの?その、ダイアナさんとかも居るんじゃないの、いま」
s3-14[12]
そんなの知らない、とばかりにアンドリューの手がマリアのポロシャツの下に忍び込む。

「マリアがそんな風になるの、興奮する」
「うそ~・・・」

煽るような言動とは分かってはいても本心から縮こまってみせているマリア。
そんな彼女を見たことなかった彼も止まれるはずもなく。
s3-14[10]
マリアも完全に陥落した惚けた目で、さあ、いざそのまま・・・という瞬間。

ゴンゴンゴン!
最悪のタイミングでのノック。

「「・・・・・・・・・・・・・」」

アンドリューが『やっぱりイアンさんに言われた通りそろそろ1人暮らし始めるべきだった』と後悔し、
マリアが『やっぱり家にひとがいるときにするんじゃなかったよね』と自分の判断に自信を持った瞬間である。

口を開きかけたマリアに、「し」と人差し指を立てると、
ドアの外からアンドリューの名を呼ぶ女性の声・・・・ これはイアンの声だ。

「はい?何ですか?」
s3-14[11]

「ほんっとに悪いんだが、ちょっとだけ。いいか」
「・・・今ですか?」
「むしろ今、だ」

アンドリューが今かと尋ねても引き下がる様子を見せないイアン。
手際よく下げられてたファスナーを上げてアンドリューはドアの方へ。
マリアは物陰に。
s3-14[15]
ドアを開けると声音の通りに本当に申し訳なさそうなイアン。

「どうしました?」
「あー・・・俺は放っておけっつったんだけどな?・・・・あー・・・一応親族会議でだな。
 渡したほうがいいんじゃないかという結論になってな」
s3-14[16]
「はい?親族会議??」

と、イアンの手の中にあるのは・・・”love sex”という文字と共に、非常に有名なコンドームの箱。
しかも2つ。

「・・・・・・・・・・・・」

そして始まるのは非常に珍しいイアンの自己弁護。
が、顔はニヤついている。

「俺は絶対邪魔してやるなっつったんだけどな。俺は!」
「でもジャンケンで負けたとかですか」
「それな!」
s3-14[18]
「・・・。でも、その割りにワクワクで来たんですね」
「やっぱな!」

同じ男としては邪魔してやるなと思うものの━━特にイアンの場合はとあるトラウマがあるため━━
どうしてもどうしてもアンドリューをからかいたい気持ちが紙一重で勝ってしまった。

結果、エリンとアレックスと自分の親族会議(という名の超絶お節介な話し合い)を建前に、
悪乗り状態のエリンと共にイアンは笑いながら薬局に駆け込んだ次第である。
ちなみにアレックスは嗜める言葉を口にはしたが強くは止めてはいなかった。

当然邪魔されたアンドリューは怒り爆発寸前・・・・
「悪いなー。お前には要らないかもしれないけどやっぱり一応な?マナーだろ?」と完っ全に楽しんでるこの言い草に、
とうとうアンドリューの怒りは噴火した。

「イアン!」
「! おお」
s3-14[19]
「んなもん自分でどうとでも考えるから来るなっ!そんくらい考えろよ!!!」
「おおお」

とうとうイアンにすら、この様子・・・なんともそれはイアンにそっくりな口調で、
怒鳴られてるはずのイアンは目をキラキラさせて見守った。

これは怒るだけ無駄だし、早くマリアのところに戻りたい。
アンドリューは怒りのまま即バタンッとドアは閉じる。

が、もう一度開いてアンドリューは怒りの目のまま吐き捨てる。

「イアンさ、弟居なくて正解だよ。いたら絶対こういうことしてたんだろ!」
s3-14[20]



「だから。今。してんだろ?」
s3-14[21]
にやぁとイアン、それはそれは最低な笑顔で片眉をあげて見せる。
アンドリューは一瞬目を見開いたが再度フツフツを怒りが沸いてきて、
小さく「ざっけんな」と呟いてドアを閉めたのでイアンはその場で馬鹿笑いで見送る。

かつては”息子”。ほんのついさっきまでそうだった。
しかし、内面が育ちに育ち一人で歩いて精神的に巣立った彼はもはや”弟”のようなものだ。
成長されるとそれはそれでさびしいもんだとイアンは低く笑いながら今度こそ邪魔するのは止めてやった。







「・・・・起きましたかぁ?オーナー。お昼ごはん出来てますぅ」

太陽が真上から少し傾き始めた時刻。
シムボット・アルテイシアが寝起きのタラ教授に合わせるかのように控えめな声音で笑いかけた。

「このまま過ごしていいって言われてますけどぉ、ホテルに荷物運んじゃいました。いいんですよね?」
「ああ。流石に他人の家に住み込みで働ける程わたくしは図太くはない」
s3-14[24]
「さっきマーガレットさんからお電話が入ってましたぁ。
  『今回はダイアナとアンドリューの件でごめんね』って。『起きたら誕生日のお祝い、させてね』だそうです」
「・・・・そうか」

ダイアナの実母マーガレット。
かつてイアンとダイアナの関係が表沙汰になり、イギリスでの仕事を止めて騒ぎが収まった後は
またここ。サンセットバレーに戻ってしまった。
といっても住まいは安全上の理由だかで、かなり高価な良いところになっているようだが。
━━ この国に戻ったのは別の理由もあることをタラ教授だけは知っている

寝起きにマーガレットのことをぼんやり想っている様子に、
シムボット・アルテイシアは耐え切れないように疑問を口にした。

「前から訊きたかったんですけどぉ、そうしてマーガレットさんなんです?」
「うん?」
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「だって、マーガレットさんてぇ。なんていうか、オーナーのお付き合いしてきた方と比べると・・・そのぅ・・・」

美人の部類だが光り輝くほどの引力はなく、歌手をやっていたとはいえ場末の店で細々。
会社勤めするも一番下の管理職となってのち退職して・・・

「すごくぅ・・・普通っていうかぁ・・・素敵なんですけどぉ。オーナーの他のデートしてた人とかの方が派手ですぅ」
「アルテイシアよ。お前はマーガレットという人間をどう思う?」
「えっ。そりゃあ・・・優しくて、わたしは食べられないですけどぉ、お料理上手なほうでぇ・・・素敵な優しいお母さんですぅ」

誰もが主役にあろうとする世界で、
脇役というポジションであることなどお構いなしといった風に常に柔順な”母”の顔。
・・・昔からダイアナを中心に生きてきた良き母親である彼女。
s3-14[23]
母として笑って、母としてしっかりキビキビしているマーガレット。
皆がよく知る、あの笑顔を思い浮かべる。

「そうだな。素敵な”母親”だよ」

もちろん、この教授が惹かれたのはマーガレットの別の顔である。

そんな彼女を語るには、
今から20年以上前━━ ダイアナとアレックスの父親ジョン・サウスとマーガレットの話が必要だ。






→第15話







第13話 アンドリューの殻 Amina Ⅱ

←第12話



シムボット・アンドリューからの電話。
彼はふと思い立ってマリアの自宅へやってくるということはなく、古風にも必ず電話という方法でアポを入れてくる。

「こんばんは。アンドリュー。今夜来んのー?」
『いえ、今日は行けそうに・・・・というか、しばらく仕事以外での外出自体すべきではないんです』
「? なに、どうしたのよ。あ、あれだっけ。ダイアナさんが妊娠したんだっけ。それで?なんか忙しそうだね」
s3-13 (2)
このマリアと、アンドリューの”母”であり”オーナー”ダイアナとは直接の面識はない。
ダイアナにいたっては彼女の存在すら知らないが、マリアはアンドリューからよく話を聞いてる。

『・・・僕すごいやらかしてしまったので。自主的に謹慎をしようかと思ったんです』
「へえ?なにやったの?なにやったの?ねえねえ」

ここでお気の毒に・・・と引く面はマリアにはない。携帯をスピーカーモードにして放り出し、俄然長電話態勢に入る。
そして昔アンドリューがサニーに横恋慕していたころ、そいつを訊き出したときと同じように
マリアはぐいぐいと電話口から飛び出そうな勢いで迫った。

『・・・お・・・。━━━ いや、とりえあえず。大ポカです・・・』
「なに?なんで言わないのー?・・・っあ、ダイアナさん!?まさかなにかあった!?平気なの?!」
『あ!いえ、そういうことじゃないんです、辛そうだけど元気ですよ!・・・・。そういう意味じゃなく・・・』
「な~んだ!ビビるじゃーん。んで?だーかーら、なに!?」
s3-13 (1)
『いや、その』
「えー?じゃあ何のために電話してきたのー?!」

それでもアンドリューはイアンとアレックスの男性の沽券に関わることだからと今回の失態の内容を言えず、
どうしてかけてきたのかという問いに素直に答えるしかない。

『声が、聴きたくて』
「えっ」
『・・・・話を聞いてほしくて』
「あ、うん。そう。そっか、そうだね」

まいったな。そんなストレートなセリフ、言ってくれる男いないよ。男なんて身勝手でカッコつけばっかりだから。
こういう少年みたいなところ、本当なくさないでほしい。
じわじわと温かいものが胸から込み上げてマリアの顔を緩ませる。

「でも!どんな失敗したか話したくないんじゃ話聞くってムリじゃーん!」
s3-13 (3)
『あ、そうですね。意味ないや。でも、別なことでいいから話聞いてほしいです』

やっとアンドリューが電話の向こうで笑った。周辺の雑音がなにもしてこない。
ということはきっとまたシムボットの彼は私達人間と違って、電話の向こうでは別な行動をしながらコッソリ電子脳内で
こうして通話してきてるんだろう。
こっそり私に。
私の声を聞くために。
マリアは顔を緩ませながら、それ以上は彼の失敗とやら聞き出さないようにしてやりつつも適度にいじめて電話を切った。






イアンのプライベートジェットとヘリを使って、あっという間にイギリスから現われたタラ教授。
見覚えのない茶色の髪と紫色の髪をした女性2名を見て、挨拶よりも先に笑いが出た。

「ふっ・・・・ふはは・・・はーっはっはっはっはっは!
 実に愉快だ!!よくぞやった、ダイアナよ。流石わたくしの生徒だ!!なんとも誇らしい!」
s3-13 (48)
何のかんのといっても恩師に手放しで褒められ、ダイアナもついえへへへへと照れ笑う。
対して女性の身体にされた男性陣2名(と書くしかない)は死んだ魚の目で出迎えていた。
互いに『お前が飲ませたせいだ』『お前が水をかけたせいだ』と”水掛け論”を尽くしたが結局決着つかず今に至る。

「ビジネスはビジネスだからな、今から早速取り掛かるとしよう。アルテイシアよ、アンドリューからデータを受け取っておけ」
「は~い。アンドリュお兄ちゃんだぁ~久しぶりぃ~」
「アルテイシアさん、久しぶりです」

シムボット同士が笑顔で抱き合うと、そのやり取りにイアンが片眉を挙げる。
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「そいつ・・・お前の”妹”なのか?」
「はい。私はぁ、アンドリューお兄ちゃんの後に作ってもらったぁ、アルテイシアですぅ。よろしくお願いしますぅ。
 ある意味じゃダイアナさんの隠し子ですぅ。 お話も伺ってますぅ」
「はっは!隠し子かよ!」

ダイアナが作ったシムボットはどれもダイアナの『子』であり、アンドリューの『弟か妹』となる。
会社を立ち上げて数は増えていたが、量産シムボットなどよりも超絶デリケートな自律思考型のものは
その価格のせいもあるがイアンが全ての名前と顔を覚えている程度の台数しか売れていない。

ダイアナがくすくすと笑いながら、
「アンドリューの少しあとに作った、タラ先生専属のコだよ。基本的にはタラ先生が作ったコだよ」と付け加えた。
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だからイアンにはその存在についても語っていない。

「へえ、知らなかったよ。俺らの式に来てなかったのは?」
「わたしは大学でお仕事してたからぁ。でもおふたりの結婚式はアンドリューお兄ちゃんのライブ中継で拝見してましたぁ」
「美人な隠し子なら大歓迎だよ、よろしく」

「わ~嬉しいですぅ。でもイアンさん今女の人でダイアナさんの前なのにそんなこと言うなんてぇ、すごぉく女タラシですぅ」
「・・・・・・・お前、やっぱなんかダイアナくさいな」

舌足らずにニコニコ話しながらも、ダイアナを髣髴とさせる鋭い物言いをされてイアンは苦笑。
タラ教授と一同が再会の挨拶をしたあとでエリンが不思議そうに尋ねる。

「ねえ、ダイアナ。前から思っていたのだけれど、昔のクリスマスに移動装置作ってたわよね。
 どうして使わないの?長距離は無理だといっていたけれど空港近くとかにばら撒いておけば仕事の移動も楽でしょう」
「その質問にはわたくしが答えよう」
s3-13[1]
「ええ、タラ。ぜひ教えて」
「行過ぎた技術はどうしても雇用を失わせてしまうのだ、エリンよ。
 ましては我々は人間から雇用を奪うと批難されがちな、哀れなるシムボットたちの親だ。
 たとえ不便であろうとも科学は人々を幸福にするための学問。他分野と全ての人々には多大なる敬意を払う」

能力の割りに金には頓着ない姿勢を貫いてきたダイアナも笑顔で頷いた。
そしてタラ教授はふふふと挑戦的に微笑み、

「ただ金儲けがしたいのであれば、そこらの大学で経営学なぞを取ってCEOにでもなればよいのだ。
 科学という人類の最高学問の徒たるわたくしたちは、そのような低俗な志を持ってはいない」

大学中退したものの経営学をとっておりCEOに上りつめたイアンを当てこすりでからかいつつ、
理系至上主義のタラ教授は説明を終えた。
「その”多大なる敬意”を俺には向けねえのか」とイアンがツッコむとタラ教授は口角だけ上げ、
s3-13[3]
「あなたを個人的に嫌っているわけではないから心配する必要はない。わたくしは誰にでもこうだ」

初対面で童貞捨てた話を要求されたアレックスなどは余計な火の粉を恐れて口を開かないが内心で深く頷いた。
確かに彼女は誰にでもこうだ。

イアンは胸中で『これだから理系の技術屋連中は嫌いだ』と毒づく。
シムボットの会社を立ち上げてから、こういう人間と顔を合わせる機会が本当に多い。
能力と変人ぶりが比例することを身に染みて感じていると、
常識的な礼儀とコミュニケーション能力があるダイアナは本当に奇跡だ。

「さて、作業に取り掛かるまえに残念な知らせがある。
 ダイアナ、お前の予定では1週間で全ての開発研究が終わる予定だったと言っていたな」
「・・・。うん・・・」
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タラ教授は一瞬何かを計算するかのように目線を宙にそらしたのち深く深くため息をつく。

「諸君。アンドリューと、このアルテイシアと、あとダイアナの幼馴染の元にいるというダイアナが全てチューンしたシムボット。
 この3人を助手に使ったとしても、解毒薬の作成には1ヶ月半かかるぞ」
「「そんなに?!!」」

この教授を招くのに六千万ドルもの金額を払う決断したイアンとアレックスの声が見事重なった。
しかし彼女はそんな2人を見つめて笑う。

「このダイアナを一体なんだと思っているのだ。 入学当時から他の研究室のジジイ共が狙い続け、
 わたくしが20年かけてきた自立思考する電子頭脳の開発を在学の2年で進めた娘だぞ。
 ままごと遊びよろしく適当に混ぜ物を作って、そんな姿にさせられたとでもお思いか?」
 s3-13[2]

恩師タラ教授からのこの堂々たる賞賛にダイアナはもじもじ。

「今時10歳前後で飛び級してくる者も居るのに何故17になるまで大学に来させなかったと
 マーガレットを批判する無礼者も居たほどだ」
「~~~~ 先生、あたしのことはもういいって!」

「とまあ・・・だからこそ、この通り常識を持った良き娘だというのもある。わたくしは躾のできてない天才猿は好かぬ。
 要するにわたくしが言いたいのは持っている能力が違う以上、時間が掛かるのはどうしようもないということだ。
 車でいえばこの娘は世界最高速度のブラッドハウンド、わたくしはせいぜいブガッティ・シロンだ」

ダイアナは昔と変わらず、少し血色の悪い頬を素直に染めて、まだもじもじしていた。
エリンがひらめく。

「ダイアナが作ってたタイムマシンがあるじゃない!未来に行って出来上がってるものを取りに行けば?」
「・・・この家に引越しのときに壊しちゃったんだよ、エリン。先生はどう思う?アンドリューがいるからデータはあるよ」

エリンの提案はとっくにダイアナ自身思いついてはいたし、既に恩師タラ教授の回答も予想がついているが
目の前の皆に説明のためにとダイアナはあえて尋ねてみせた。

「そちらの分野は完全にわたくしの範疇外である以上、無用なリスクは排除させていただく。 
 先日エリンの子たちが使ってきたというタイムポータルとやらもあるそうだが、詳細の仕様が不明である以上、
 我々が作業日程を縮めるのに使うのはよろしくない。時間をかければ同じ結果にゆくのであれば安全が一番。
 諸君、よって完成日は一ヵ月半後が確定だ。以上」
s3-13[5]
大胆不敵なタラ教授、不幸なる雇い主2人へ尊大なる態度で完成予定日を通達した。
アレックスとイアン、がっくりはしたが解毒薬ができないわけではないのが救いかと文句は出ない。
エリンが耐え切れず「ねえねえ!」と少女のような質問をぶつける。

「あなたから見て私たちを車に例えるとなあに!?」
「・・・・。ロバだな」

ロバ!!!
愚鈍と貧農の象徴たる1馬力以下の動物に、女王陛下と公爵とビリオネアが括られてダイアナが「先生っ」と諌める。
その罵倒にしか取れない表現に尋ねたエリンすら絶句。

ちなみに男でありながら女の身体にされ、人前で驢馬呼ばわりされ、もはやアレックスは完全に電源OFF状態である。
もういい。早く寝室に戻ってしまいたい。

「ただしエリンは可愛らしい特別な白いロバだ。さらにわたくしがシルクのリボンも着けてやるとしよう」
「あら❤ありがと」

よくわからない、ほのぼのとした空気のなか、アルテイシアが「データ同期できてますぅ」とのんびり告げた。
s3-13[7]
「それで最後のシムボットはどこにいるのだ、ダイアナ」
「連絡したら今日すぐ来てくれるって」
「よろしい。お前は気にせずそのあたりで遊んでいるといい。あとはわたくしの仕事だ」
「お誕生日のお休みだったのに本当にすみません。よろしくお願いします、タラ先生」

ダイアナが恩師に畏まって御礼を述べると彼女は「気にするな。身体を大事にな」と優しく微笑んだ。










「リズ~急にごめんね~本当に大丈夫だった?」
「全然いいよ。今日は桜子は昼寝しすぎてたし、あたしも暇な時間あるから余裕余裕」
s3-13[8]
「ありがと~。しゃこらこちゃ~~~ん❤ダイねーしゃんだよ、こんばんにゃ~❤来てくれてあいあとにゃ~」
「・・・・・・・・・・・・・・。ん」

桜子はキュッと眉根を寄せた。
このダイアナねえたんは、いつ赤ちゃん言葉を止めてくれるのだろう?

「あんたツワリは?どう?結構ツワってん?」
「んもーさ~ すんごいツワってる~~~」
「ツワってっかー・・・だよなー。あたしももう二度とツワんのはムリだわ」

2人は造語で会話をしつつリズはしみじみ頷いた。

「・・・・で?アレクサンダーとグレンツはどこよ?あんたマジで言ってんだよね?」
「うん・・・・・・・あそこ。あのねリズ、できるだけ穏び」

できるだけ穏便に刺激しないでね、の言葉はリズの大爆笑にかき消される。

「ぶははははははははは!!マジ女になってるよ!!美人じゃん、2人とも!・・・・・・あっ、美人ですね!つかもういいか!!!
 いいじゃん、美女!ふたりとも!美女だよ!すっげ笑える!!!」
s3-13[11]
「「・・・・・・・・・・・・・・・・」」

憮然としつつ、イアンとアレックスは動かない。
その爆笑につられて、やっとエリンも「んふっ」と一緒に噴出し始めた。実際ちょっと我慢していたのだ。
くっくっくっくと肩を震わせて「やだ、リズちゃん。つられちゃうじゃない」とどんどんエリンの笑いは大きくなる。

「だってめっちゃ女になってるんだもんよ、エリンさん!あはははははは!!!」
「もう!あっはっはっはっは!そうよね!」

爆笑の渦の中、かつて産後のリズの元に贈られた丸いシムボットが話しかける。

『それじゃあオーナー、わたしはダイアナさんのラボに行ってますね?』
「あっはっはっはっは!!オッケー!ぶははははははは!」
『桜子さん、マルちゃんはこれからお仕事してきます。ねんねのご本はママに読んで貰ってくださいね』
s3-13[19]
「ん・・・・ あちた?」
『はい。マルちゃんはちゃんと明日の朝はおはようしますよ』
「ん。 てらちゃ」

桜子が生まれてすぐの頃、
リズと庸一宅のシムボットとなった”マルちゃん”ことシムボット・マルコは滑るように移動してゆく。
『丸いから”マル”ちゃん』と日本人の庸一がぼそり呟いたのをリズが気に入り、そのまま名づけられた。

「つかツワってんのにうちらが泊まって平気なん?」
「うん。むしろちょっとリズと話したい。本当によかった?」

心身ともに疲れきったダイアナ、すでに母となった幼馴染リズに色々聞いてほしいことがある。

「よかよか。庸一は好きにするっしょ。んじゃ、グレンツさん・・・・いや、こうなると奥さんって呼んだほうがいいかな?!
 ぶっははは!!お邪魔しまっす 」

完全におちょくってくるリズに対し、イアンは桜子の前であるため中指の代わりに人差し指を立てて応えた。

そしてリズと庸一の娘・桜子といえばシムボット・マルちゃんが居なくなってすぐ、アレックスを見つめて歩み寄ってきた。
知らない人のフリで通そうと思っていたアレックスだったが、その無垢な視線に耐え切れず声をかけた。
s3-13[13]
「こんばんは、桜子ちゃん。お母さん達と来てくれてありがとう。今日も可愛いお洋服だね」
「・・・・・」
「・・・・・わからないよね。はじめまして、のほうが・・・いいのか。お茶会ごっこも元に戻ったらしようね」

アレックスが情けないやら恥ずかしいやら溜め息混じりに辛く独り言つと、
桜子はすすすと寄ってきた。

「アレおいたん、いたいいたい?」
「!」
「まあ、すごい。桜子ちゃん分かるのね?」とエリンもびっくり。
「ん」

そして桜子は臆することなくアレックスに最強の上目遣いで見つめて「いたいいたい?」と再び訊いてきた。
かわいい!
女の子はなんて可愛いのだろうか!!
未来からやってきた我が子達━━というより金髪のバカがひどすぎたため一層父性が刺激されるアレックスである。
s3-13[18]
「いたいいたい?」
「ありがとう、桜子ちゃん。こんなになっても元のようにお話してくれて嬉しいよ」
「ん」

そしてイアンも堪らず尋ねる。

「・・・・な、桜子。俺が誰かも分かるかー?」
「アンたん!」
s3-13[16]
「天才か! すごいなー、桜子。でもなんで分かんだー?お前」

桜子のほうこそ『なんでそんなことを訊くの?』とばかりに首をかしげるしぐさをみせた。
全然違う女の姿にも拘らず、しっかり正体を見抜いてもらえてイアンはニッコニコ。
密かに折れていた男の自尊心もなんとなく回復する。

「久しぶりだなー、うちに泊まんのー。桜子お前風呂もメシも済んでんなら、もう寝るか。俺が本読んでやるよ」
「! ん!」

イアンの絵本の語り口はすごく面白いので桜子は即同意した。
「来いよ」と彼が開いた腕の中に、びょんと飛びつく。

「リズ、いつもの部屋連れてくぞ」
「あぁ、すんません。ありがとうです」
s3-13[12]
リズが依然としてニヤニヤしているのでイアンは『フザケンナ』と口パクだけして桜子を抱えると
当然のように子供用のベッドもあるゲストルームへと向かう。
そうして初めての妊娠で戸惑っている妻ダイアナをさっそく親友リズと時間が持てるようにしてやった。






はー・・・・とエリンのバスローブを羽織ったアレックスは深く深く溜め息。
嫌々ながらもいつもの習慣どおり、というよりもエリンが引くわけもなく夫婦は共にバスタイムを過ごした。
今更女性の身体そのものに照れるような歳でも経験なしの男でもないが、精神的にひどく消耗した。
s3-13[20]
「髪乾かしてあげる」
「ありがとう。・・・明日にでもこの髪は切ってくる」
「そう?でもそうね、男性には辛いわね。・・・・あのねアレックス。私はあなたが”そんな風”になってても気にしないわよ。
 女の子のお泊り会みたいで楽しいもの」

フォローになっていないどころか、逆に痛い。しかしアレックスはエリンには何もかも許容の姿勢を相変わらず貫く。
丁寧にくるくるされながら乾かされ、さらにはエリンは自分のパジャマを「着るでしょう?」と彼に差し出した。
キューティクルを輝かせながらアレックスは女性もののパジャマに渋い顔。

「私は気にしないって言ったでしょう。何がイヤなの?」
「・・・情けないだろう、こんな格好は」
「あら。女性は情けない?」
「男が女性になるのはそうだよ。元々女性であることを指してるわけじゃないよ」

するとエリン、目を閉じていつものようにキスをしてみせた。
いつものように受け入れてのち、はっとアレックスのほうが驚く。

「イヤじゃないって言ってるでしょう。中身があなたなんだから、いつも通りよ」
s3-13[21]
身体の感覚の違和感は多少はあるが、アレックス視点からは世界は何も変わってはいない。
ついいつものようにキスをしたくせに、それでも「本当にイヤじゃないのかい?」と尋ねた。
君に拒絶されるのも落胆されるのも、昔も今も変わらずそれは恐ろしい。
エリンが色っぽく呟く。

「なによそんなの。わざわざ言ったことないけれど、私女性ともデートしたことあるわよ」
「・・・・。えっ」

これにはアレックス、己の姿のことも忘れて、つい、ぐぐぐっと雄の興味がそそられる。
過去の男のことなど例え話でも耳にしたくはないが、女性となれば話は別。
男にとっては性的興奮をそそるという意味で、非常に美味しいシチュエーション・・・・
内心の興奮を押さえつつ、妙に爛々とした目でアレックスが尋ねた。

「それはただ食事しただけだよね!?」と、絶対にそれ以上を期待しているアレックスの、この顔。
s3-13[22]
「・・・。 私が言うのもなんだけれど、あなたって本当私が好きよね」
「エリン、そのデートのこと詳しく教えてくれないかな」
「ん~どうしようかな~」

口先から出た嘘だったがそれはエリンの思惑通り、効果覿面。
アレックスは妻の手のひらの上で憂いも忘れたまま普段通り眠りに付いた。






ダイアナが寝ている早朝、イアンはいつものように海にいた。
その身を包むのは、このイアンがレンタルすることとなった2時間$80というウェットスーツ。
s3-13 (4)
「アンドリューお前。申し訳なく思ってんならパシってこの身体に合うもん買って来い」
「・・・はい。行ってまいります」

いつもならしないだろうに、まるで執事のようにイアンのための飲み物セットだのを持参してきたアンドリューが
神妙に応えたところで、とうとうイアンが軽くキレる。

「そのウジウジしてんのをいい加減止めろ!うざってえんだよ!男なら済んだことグジグジ引きずってんじゃねえ!」
「ッ す、いません」

そうは言っても、昨夜さっそくタラ教授が深夜までかかって引継ぎを終えても
やはりアレックスとイアンが元の姿に戻れる時期は早まりそうにないという結論だったのだ。

「でも僕、本当に買ってきます。明日もレンタルじゃ困りますもんね。同じブランドでいいですか?イアンさん」
「さっきのは冗談だよ、そんくらいてめーで買うから気にすんな。アンドリューお前。もう、そういうのはいいつってんだよ」
s3-13 (5)
「・・・?」

イアンがさらに何か話そうとしたところにタイミング悪く、アレックス夫妻が珍しくやってきた。
早朝の波乗りをしているイアンを夫婦揃って見たことはあれど、こうして合流したことなどない。
もちろんその理由といえば・・・

「おはよう2人とも。それでアンドリュー、昨日の夜はどうだった?完成時期は早まりそうかな」
「あ、おはようございます。その、それは」
「ダメだってよ」

言い淀みそうになったアンドリューの言葉をイアンはあっさり続けると、アレックスは溜め息。
しかし意外にも昨日のような動揺はもうなさそうで、
s3-13.jpg
「そうか。まあ、不可能じゃないならいい」
「だな。にしても一晩で随分落ち着いたもんじゃねーか、お前」
「まあね」

何故だかアレックスは機嫌まで良さそうだ。
妻エリンがアンドリューに今日のダイアナの体調について尋ねている隙にさらにイアンは問い詰める。

「で?なーにをエリンに言い含められたんだ、お前は」
「言い含められてなんかない。まあ・・・昔女性とデートしたこともあるから、こうなったからといって失望はしな」
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「アイツ、マジかよ!!」

アレックスの話を即遮り、ギン!とイアンは即反応する。
その声と、妙な視線で自分を見つめてくるイアンにエリンはぴくりと片眉を上げて

「・・・ちょっと。何をあなたたちは話してるのよ」
「お前両方イケんのか。なんで隠してた」

それで昨夜のアレックスへのフォローの嘘が、
思いもよらぬ形で男たちの妄想のネタになっていることを察しエリンの怒りが爆裂する。

「アレクサンダー!どうしてそう、どうでもいいことばっかりイアンに言うのっ」
s3-13 (22)
「エリン、別に俺はそういう意味で言ったわけじゃあないよ」
「うっせえな、夫婦ケンカなんざ後でしろよ。じゃあお前ら昨日の夜は女同士でヤ」
「るわけないでしょ!!」

どっかーんとさらにエリンの怒りが爆発するが、
イアンはからかいながらも聞きだそうとさらに絡んできた。

「エ、エリンさん抑えて・・・」
「私!?抑えるべきなのは私!?アンドリュー!」
「はい・・・っ!あの、イアンさん」
「てっめえ、アンドリュー男の癖に女の側に立つのか!」

こういうとき、ちゃっかり黙りつつ流れを見守るのはアレックス。
「ごめんね、エリン」などと言いながらも、その胸中ではやはりエリンの女性同士の・・・を非常に聞きたい。
s3-13 (24)
イアンにさらに「で?ホントのところはどんな感じなんだよ。デッチ上げでもいいから言ってみろよ」と言われ、
エリンは苛々としながら、

「イアン、あなた会社の立場もあるのにそういう偏見もってたとはね」
「はあ?誰がそんな小難しい話してんだ。そもそも男でレズもの嫌いな奴がいるわけねえだろうが!!」
「だからそういうのを言ってるのよ!」
「エリン。俺はそういう偏見はないよ?」
「アレックス、あなたね!あなた、そーゆーところが結局実はイアンに似てるのよ!!」
「なっ・・・俺の一体どこが!」
「揃って聞きたがってるじゃない!!」

ぎゃあぎゃあとロバ三人が言い争っているところでアンドリューは自分への視線を察知して激しく動揺した。
シムボットの彼の場合、それが誰からのものなのかもすぐに理解してしまう。

「あっ、マリア、さん」
「・・・・・・・・」
s3-13 (14)
彼女から見れば、この光景はどのように映ってるか。
大変なミスをして落ち込んでるんですと長電話をした翌朝、
普通なら待ち合わせなんていう時間じゃない早朝にアンドリューを囲むのは美女美女、そして美女。

「あっ、これは!違うんですよ!これは!!」
「・・・っ・・・ふぅ~ん。
 珍しく落ち込んでるっていうから気分転換に本でも差し入れしてあげようとか思ったけど。必要なかったかー」

それは電子書籍にもなっていないようなマイナーなもので、
マリアのコレクションの中にある少々歴史ある古書らしき本が一冊その手の中にあった。
彼女はにっこりと笑ってはいるが、その場にいる全員が彼女が笑ってないことはわかる。

「気にしなくていいよ、友達としてお見舞いに来ただけだし邪魔するつもりもないしぃー。読んでみてよ。じゃね」
s3-13 (13)
「マリアさん!この人たちは」
「え?なに?」

他のデート相手が互いにいることくらいは察してるが、そいつを紹介するのはルール違反だろうとマリアの声は低い。
非常に焦りながらもアンドリューはイアンを示し、彼女に紹介する。

「マリアさん、・・・・僕の父です。イアン、です。こちらはマリアさんです」
「やあ、どうも」

さらっとイアンの長い茶色の髪が揺れ、・・・・胸が揺れる。

「で、こちらはあの、僕の隣家に住む元公爵のアレクサンダーさん、と奥方のエリンさん。です」
「こんにちは。はじめまして」
「・・・・・・」

アレックスはきちんと挨拶を口にしたものの、エリンは何も言えない。
イアンや夫はアンドリューの顔を立てたつもりで挨拶したようだが、内心「男のこういうところはバカよね」と冷ややかになる。
そしてマリアはといえば・・・・

s3-13 (15)
「へえ!お父さんのあのイアンさんと、お隣の公爵様に奥様!?お話は少しだけ伺ってますよ~。
 実は昔ぃ、アレクサンダーさんがお店にいらしたときに対応させていただいたこともあるんです~」

ああ、そう!などと愚かな男たちが安堵して一瞬緩んだ隙に。
シムボットのアンドリューには平手打ちなぞじゃ効きはしないだろうと、機転の利いてるマリアの鞄が
彼の顎を目掛けてフルスイングで宙を舞った。








「・・・ま、あのくらいじゃないと効かねーよな」と、イアンがぽつり。

”息子”であるがゆえ普通に挨拶はしてみせたが、
どこの世にこんな美女である自分を父なとど紹介されて馬鹿にされたと思わない女がいるか。
アレックスはああいった女性の暴力は目の当たりにしたことがないので露骨に眉をひそめてはいたが、
甥のデート相手であるので無言。
s3-13 (18)
なので「アンドリュー、すぐに追いかけなさい。ちゃんと説明してこないと無理よ」とエリンがお節介を発揮するが
イアンは「余計なこと言うな」とそれを止めた。
エリンはすぐに唇を尖らせるものの、イアンの言うようにアンドリューすぐには動かない。

「━━・・・・・」
「アンドリュー?説明してあげないと!」
「そんくらい、こいつも自分で決められるだろ。いくらなんでも踏み込みすぎだ」

エリンはやっとイアンの意図に気づいて口を噤んだ。
やはり”現役”から退いて長いぶん、お節介が過ぎてしまったと「そうね」とエリンはあっさり引っ込む。
単なる遊ぶためのデート相手の1人で失ってもしょうがないといえる程度なのか、
引き止めたいと思う程度ではあるのか、それとも━━・・・・。
己の人生の選択を決められるのはアンドリューだけだろう。

しかし当の彼はちょっとだけ戸惑っている色ながらもイアンに向かって微笑みながら、
マリアが現れる以前の話題に無理やり戻す。

「イアンさん、ウェットスーツなんですけどブランドはやっぱりいつものと同じのがいいですよね?」
「あのなアンドリュー。今回の失敗でもそうだけどな、誰かに従うことで物事をやりすごすのはいい加減やめろ。
 いいこぶって思考停止して誤魔化してんじゃねえ。お前。本当は今、どうしたいんだ?」
s3-13 (16)
「でも僕は」
「いいんだよな、それで。本当に」

意図などしてなかったんだろうが、このアンドリューも昔のダイアナによく似ている。
よい子でいること。
彼の場合は『シムボットであること』ということに自分を納めてしまってる、それが彼の殻。

「・・・━━」

これでいいのか。
物理計算だのと違って、人との係わり合いに絶対正しい答えはないのだ。
s3-13 (6)
自分はどうしたいのかをアンドリューは考える。

「僕。ちょっと、飲み物買ってきます」
「おう、頼むな」

そう話す彼らの足元にはアンドリュー自身が持ってきた飲み物があったが互いにそれらを平然と無視しつつ、
彼はそのまま店だのがある方・・・
マリアが去っていった方へと進んでいった。
s3-13 (29)

「「「・・・・・・・・」」」

ここでアンドリューが普通の人間なら、
このまま既婚の彼らの格好の軽口のネタになるだろうが思わずにいられない。
シムボットであるがゆえ、彼の恋路はどこまで安穏としてゆけるのだろう?
残された3人が一様に押し黙る中、口火を開くのはやはりイアン。

「ま。俺らができることは何もねえしな」
「そうだな」
s3-13 (28)
アレックスも相槌しかうてない。
しかしエリンは「ね。アンドリュー、このあと仲直りして帰ってくると思う?賭ける?」などと軽口を展開した。

「お前なあ」
「エリン」とアレックスまで諌めるようすを見せる。

本当に男はバカね。
アンドリューの心配ばかりが先立ってイアンまで気づいてない。
エリンはそんな彼らをからかうように笑いかけ、

「何を心配する必要があるの?あのマリアちゃんてコ、女の子達にあんなに思いっきり妬いてたんだから
 別にアンドリューがシムボットだから・・・、っていう心配はいらないじゃない?」
s3-13 (26)
「お。そういやそーか」
「・・・。そうだね」

彼の”父”イアンは視野狭窄だったと、心の底からほっとしたように息を吐いた。
そしていつもの調子に戻る。

「で、だ。てめえ、よりにもよって”女の子”達、だと?」
「なによ。あなただって、そーんなナリしてるくせに」
「エリン?ナリなんていう言葉はやめておこうね」

「俺が言ってんのは、どこの誰が”女の子”っつー歳だってんだつってんだ。こーの三十路過ぎのオバ」
s3-13 (25)
それをイアンが言い終わる前に、
今度こそキレたエリンは砂を持ち上げると彼の顔に向かって容赦なく投げつけた。
アレックスはそのまま2人を放って、ちゃっかり砂浜のジュースに手を伸ばした。





「マリアさん!」
「・・・・・・・・・」

名前を呼ばれようが、ずんずんずんと無視してマリアが怒りのまま進んでも
回を重ねるごとにアンドリューの声は近くなり・・・・滑らかにマリアの元へと近づいてゆく。
捕まらないようにしていても簡単にアンドリューの手は自分の腕に。

「っ、離してよ!こういうの、何なの!?」
s3-13 (30)
「さっきの、僕の嘘だと思ってますよね。離しません」
「何よ、あれっ。あんなくだらないこと言うなんて、もしかして酔ってる!?オールでもしてたんじゃないの!」

飲食できないアンドリューが酔うわけないやと冷静な脳みその部分は言うが、収まらない。
・・・こんな朝早くにピクニック準備までしてあげて、サーファーの女もいた。
昨夜、嬉々としてアンドリューを慰めてやったのが本当にバカみたい。

「アンドリュー、落ち込んだのが本当かどうか知らないけどさーあ。
 昨夜あの人たちと一緒にいて電話でもあたしと話してさぁ・・・・・あたし悪いけど、こーゆー振り回され方って無理だから。
 マジで落ち込んでるんじゃないかと思ったのにホンット気分悪い」
s3-13 (31)
そういうその辺りの男と違って、アンドリューだけは、純粋で、少年みたいで、
それで
それで
他の女の子とかと遊んでようが、ココ一番ってトコではアンドリューはあたしが一番ってはずだったのに、
あんな大嘘ついて、マジに慰めてあげたなんて!
ばかみたい、ばかみたい!

「二度と連絡してこないで。・・・・離してよ!」







「で。私は仲直りするから、そのままアンドリューは戻ってこないに500$ね。!」
「レート高いね、エリン。でも俺もいままで通りに仲直りするほうに賭けたいけど、あの様子じゃすぐには無理かな。
 今日のところは現状維持で1人でひとまず戻ってくる。かな?」
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アレックスは穏やかに語ると、エリンが賭けたのと同じベットの金額を呟いた。

「意外にそういうところであなたイジワルよね、アレックス」
「そう?だって、ああいう様子になった女性を宥めるのは中々大変そうだろう?」

ここはじっくり時間を掛けるタイプのアレックスらしい観点。
すかさずエリンは「それは私のことも含めてるのかしら?」などと夫婦で軽く戯れた。
そしてエリンに砂まみれにされたのを海で流してきたイアンに、アレックスが声をかける。

「イアン、お前はどうする?」
「んなもん。すぐに連れ戻してくるに1500$に決まってんだろ」
「強気だな」
「”父親”に、あんな大嘘の見得切って飛び出したんだ。そこまでできねえでどうすんだってんだよ」
s3-13 (42)
イアンは口の中に入った砂を最高にかっこつけた角度で吐き捨てた。















「いいから話を聞け!」

その声音にも、音量にも驚いて、マリアの頭からまず怒りが吹き飛んだ。
でも驚きはそのまま、目を丸めて声を荒げた彼━━アンドリューを見つめる。

「昨日僕が、やらかしたって言ったろ!?ホントに、”アレ”が、イアンさんでアレックスさんなんだよ!」
s3-13 (33)
「は・・・はぁ?」
「信じられないならいい!実物見せるから!来て!」
「ちょ、ちょ、ちょちょ」

知り合って数年来、敬語も恭しい態度も投げ捨てたアンドリューにとっさに対処できない。
アンドリューが腕をひっぱろうとしてもマリアが反射的に抵抗してみせたので、
彼はなんと彼女を抱えあげた!

「わ、嘘でしょ?!降ろしてよ!」
「絶ッ対に、降・ろ・さ・な・い!!」
s3-13 (35)
これに怒・・・れるわけもなく、かかかかとマリアの顔が真っ赤になる。
早朝でよかった、これが真昼間だったら夏のビーチへ向かう人ごみのなか、とんでもないことになってたに違いない。

心臓が苦しいくらいに跳ね上がってく。
最高に照れくさい気持ちのまま、
マリアはアンドリューの手によって再びイアン達のもとへ輸送されてしまった。

到着すれば「あら❤おかえりなさい」と完全にニヤニヤという声音でエリンが2名をお出迎え。
アレックスが穏やかに「仲直りはできたのかな」と婉曲ながら自分たちの賭けの結果を尋ねる。

「・・・・まだだけど、します!」
s3-13 (45)
口調をいつもの通りに戻したものの、アンドリューの声音はなんだか普段とは明らかに変わっている。
そしてマリアはやっと降ろしてもらったものの真っ赤のまま言葉も出ない。
しかし彼女は先ほどのようには逃げない。

「で、マリアちゃんは納得したのか?コイツの説明で」
「~~~なんかもぅよく分かんないんですけど、勢いで連れて来られちゃったっていうか、わかった・・・ような?
 ていうかああいうのズルくない・・・・ズルくない・・・・

イアンの問いに、まだ真っ赤のままマリアはぶつぶつと何やら呟いている。

「でもまあ、あそこまでアンドリューが言うならうそじゃあないのかもしれないから・・・って思ったんです・・・」
「ほーう。なるほどなるほど」

ホントああいうのズルいよ・・・・ズルい・・・・
s3-13 (46)
「ちょっと僕たち、うちの研究室に行ってきます。ちゃんと見せないと納得してくれないみたいなので」

アンドリューはマリアの手を引いてイアン達の自宅地下のダイアナのラボへ大またで歩いてゆき、
その背中に彼らは呼びかける。

「おう。つかタラはまだ起きてんのか?完徹だろ、そこまでしなくていいってつっとけよ」と、イアン。
「そうだな。ちゃんと休んで働くようには言っておいてくれ、アンドリュー」と、アレックスも同調。

十二分に彼らが距離を取ったところで、
イアンが低く呟いた。

「お前ら二人。現金で明日までに払えよ」

エリンが悔しげに指を鳴らし、アレックスまでも大げさにため息をついた。



→第14話

第12話 男の値段 Amina Ⅰ

※つわり表現ありますので飲食中の方は注意。なお症状・対処は人それぞれであり、当作品はフィクションであることをご了承下さい。

←第11話



ダイアナは妊娠を自覚した途端にツワリが始まった。
なので残念ながらアレックスの復帰記念には欠席し、忠実なるシムボット・アンドリューとお留守番。

そして体調がさらに悪くなる前に・・・と自宅の研究ラボにて休みながら
アンドリューに片付けの指示をしている。

「んもー・・・・せっかくいいところまで行ってたのにな~・・・・う~気持ち悪~い」
「すっかり口癖が『気持ち悪い』になっちゃいましたねえ。リズさんに借りてる漫画、途中でしたよね。寝室で読みますか?」
「文字読めないからいい~・・・うー気持ち悪~~~~い・・・・んもー・・・んもー・・・・」
s3-12 (2)
アンドリューは分かりました、と漫画の束を整える。

「オーナー、お昼ごはんは何なら食べられそうですか?」
「・・・・・。・・・・・りんご」
「はい、分かりました。漫画はリズさんに一度返しておきますからね」
s3-12 (1)
「うん、お願い」

そしてリビングへ行くとダイアナが「う・・・・・」と顔をしかめ、ヨロヨロとお手洗いへ歩いてゆく。
アンドリューは慌てて地下のラボから持ってきた瓶をテーブルへ置いて、素早く彼女に寄り添った。

「大丈夫ですか、オーナー」

この数日、果物とくらいしかまともに食べられていない。
どうして?食べないと赤ちゃん育たないんじゃないの!?栄養摂らせようよ、人体!もっと身体簡単に切り替えてよ!
・・・と、自らの妊娠体の矛盾を全身の細胞たちに訴えてもどうしようもなく・・・・。
早くも感情のふり幅も大きくなってしまっているダイアナはうっうっうっと半べそになり、

「つらいよ・・・こんな弱いんじゃ、あたしママになんかなれないよ・・・・」
s3-12 (9)
「大丈夫。大丈夫です、オーナーはとっても素敵な僕のお母さんですよ。ね、おちびさん?」

心配しつつも笑顔のアンドリューに励まされつつお手洗いへ。
そこへすっかり正装を崩したイアンとアレックス夫妻が帰宅する。

「ただいま。おーい」

ダイアナいるかー?と尋ねようとしたイアンの問いは、
お手洗いの方面から響くダイアナの「おえええええ」という声で止まる。

「・・・・またか。ちょうど薬が弱くなり始めるとアレが出るんだよ。夕方の薬前だからな」
「かわいそうに。風邪なら1週間程度で収まるけど、それよりも続くんだろ?」
s3-12 (10)
「ああ。場合によっちゃ産むまで続くんだと。終わればいいけど、こればっかりはどうなるか」
「そんなにか・・・」

心底ダイアナを心配したアレックスの呟きが響く。
エリンが記憶喪失のときにあった激しい兄妹喧嘩は、ケンカした当日にエリンの記憶が戻ったこともあって
アレックスが詫びる形で収まっていた。
言い合いしたとはいえ叱ってくれる存在をありがたいと思える程度には彼もちゃんと歳を重ねている。

「ダイアナが何か食べられるものは・・・・ああ、一通り揃えてはいるみたいだな」
s3-12 (13)
妹の食生活を心配したアレックスの言葉は、
キッチンにどっさりと盛られた高級スーパーの段ボールの山を見て飲み込まれた。
「あんくらいしか周りにはできねーからな」とダイアナに最善を尽くしまくっているイアンである。
そこで”まかせて!”とばかりにエリンが腕まくりのジェスチャーをしてキッチンへ乗り込み始めた。

「待て待て待て!目離したスキに何してくれようとしてんだ、お前!油断を隙もねーな!」
「なによ。せっかくだからスープでも作ろうと思ったんだけよ。妊婦さんだからハーブは使わないし普通のよ」

イアンが心配しているのはそこではない。

「ダイアナが1階にいるときはキッチンは使用禁止」
「どうして?」
s3-12 (15)
「すっげえ匂いに敏感になってんだよ。ディランみたいな目に遭いたくなければやめとけ」

そういえば1階にあった子犬のディランのサークルがごっそりなくなっている。
イアンの深刻な顔に、エリンも同じようなトーンになりながら「一体あのコどうしたの?」と尋ねる。

「今あいつはアンドリューの部屋で暮らさせてるから心配はすんな。
 まあ何があったとかいえば・・・一昨日ダイアナがじゃれてくるディランを抱っこしようとして前屈みになってだな。
 犬の匂いってのがあんだろ、あれで」
「イアン、皆まで言わなくていい。予想が付いた」

アレックスが首を振りながら本当に聞きたくなさそうにイアンの詳細描写を止めた。

「あんな地獄絵図見たことねーよ。
 ディランは悲鳴上げながらサークル脱走して逃げ回るわ、ダイアナは謝りながら大泣きするわ、
 アンドリューはパニくったディラン捕まえるために家具持ち上げまくるわ、挙句ディランは俺に飛びついてきてな・・・・」
s3-12.jpg
カーペットとソファを入れ替えさせたと彼が語る傍ら、
アレックスはダイニングテーブルからミネラルウォーターの瓶を手に取っていて「もらうよ」と声をかけた。

「ああ。俺も飲む。エリン、お前は?」
「私はいらない」

「だから少ししかお酒も飲まなかったのね、イアン。そういえば香水も付けてない?」
「そんくらいしか協力できねーからな・・・・できるのは買い物だの食い物どうにかすることくらいでな。
 抜本的な解決策なんざなんもできねえで、無力すぎて情けねえよ」

イアンは買い替えたての豪奢な家具や食材を身振りで示した。

「そう思ってくれる奴が傍にいてくれるだけで安心はできるよ、イアン」
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ダイアナの兄としてアレックスが微笑みながらダイアナの気持ちを代弁した。
そこへ大仕事終えてグッタリ・・・といったダイアナがアンドリューとともに戻ってきた。

「あ~~~おかえり~~~、みんな~~」
「おう。そろそろ薬切れてきたか」
「んー・・・・・」
「また渋ってんのか?ダイアナ、お前考えすぎなんだよ。医者が飲まして悪いモンなら出すわけないだろ。
 医者も言ってただろ、ストレスを貯めるな。いいから飲んで寝とけ」

カウンターにあった薬を手に取って、先ほど飲んだミネラルウォーターの瓶を手に取ろうとする瞬間。
聞いたこともないような大声で「ちょっと待ったぁッ!!」とアンドリューがそれを止める。

「イアンさん、テーブルの上の瓶はどうしました!?まさかそれ・・・・ そこの!テーブルにあったものを飲みました?!
 僕、そこに置いておいたやつです!」
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「・・・え"。 ラボから持ってきたやつっ!? イアン、あれ飲んだの!?」

ダイアナの顔がひきつる。
そして満ちるは、その瓶に入っていた水━━ではないらしい何か既に飲んでしまっている男2人の重い沈黙。
ふんわり美しい金髪を揺らしながら、既に数回の被害者となっているエリンなどはごくごく平然と、

「あら。今度は一体何を作っちゃったの?ダイアナ」
「えっ、あ・・・・・いやあ・・・・まあ、飲んでも普通にお風呂に入る分には大丈夫だし・・・イアンはちょっと暫く
 サーフィン我慢してもらって・・・」

「ダイアナ、俺も飲んだんだが一体何なんだ?」
「えっ?!アレックスも・・・・。うん・・・危険は一切なくてね。プールとか海とか水風呂とか控えれば平気だから・・・・」
s3-12 (18)
ごにょごにょごにょ。
よほどマズイものなのかダイアナは答えない。アンドリューも同様に目が泳いでる。
ここで察しのいいイアン、ちょっと眉を動かす。

「・・・・水か」
「えっ、あっ・・・いや~~まあ、だからね。あのね。あったかいシャワーとかお風呂は平気だから・・・・・ゴニョゴニョ」
「アレックス。間違いだったら許せよ。間違いじゃなくてもキレんな」

宣言したのと同時に、イアンはまさかという気持ちのまま何とコップの水をアレックスにぶっ掛けた!

「っ!?」
s3-12 (20)
「きゃっ」 
 「「あああああああああああああ━━━━っ!!!!」」

水しぶきに気をとられて可愛らしく叫ぶエリン、ハモるはアンドリューとダイアナの大声。
即座に顔が引きつるイアン。
一方でこのイアンがしてきた意味不明でありながら無礼な行動に、当然誇り高きアレックスはブチ切れる。

「一体何をする!」

反射といってもいいキレで、アレックスも自身のコップの水をイアンにぶっ掛ける!

「ッ!てめ」
「「あああああああああああああ━━━━!!」」
s3-12 (19)
ぼた、ぼたぼた・・・・水を掛け合ったとはいえ、ほんの少量。
互いに顔を見合わせながら・・・・・

「な、な・・・・な、な、な、なな、な」
「うそだろ、うそだと言えよ、オイ」

━━━━まとわり付く髪の気配と、
イアンの変貌にやっと自身もどうなったのかを悟ったアレックス。

男2名は壁に埋め込まれているキッチンの鏡へ我先にと駆けつけて
互いにもう一度、その姿を見合った。


















s3-12 (22)


s3-12 (24)





そしてアレックスは床に崩れおちた。
イアンは鏡の虚像にぶん殴られたかとでもいうようにフラりと揺れて、揺れ・・・
小さく独り言を言い出す。

「俺は・・・俺はな・・・
 俺らの子供には世界一のオヤジになってやろうとか思ってたんだよ・・・・
 わかるか・・?その決意が・・・」

あらららら、とエリン。
夫に駆け寄ろうとするが「来るな・・・来ないでくれ、エリン」と指先まで震わせながら床に跪いている。
とうとうイアンが叫んだ。

「これじゃ世界一の美女だろうがっ!!!」
s3-12 (27)
イアンは堂々と世界一と言い切った。





事態をとりあえず、理解したイアン。
そしてエリン。
となると一同の視線が集まるのは勿論こんな状況を絶対に承服などできないであろう人物へ・・・・

「・・・・━━━━━━・・・・・・・・」

妻に完全に背中を向けた、
高潔なる(元)公爵の、自らに爪を立てている白い指はわなないている。
その表情はイアンの方向からも長い艶やかな髪に隠れて全く見えない。
s3-12 (29)
流石にまずいと「あ、あのね、アレックス・・・」とダイアナが呼びかけるが、
彼(彼女とは表記しがたい)はそんな妹に向かっても首を振るだけ。
さらには手のひらだけ向け、『今は・俺に・話・かけて・くれるな』と全身で訴えてきた。

その対応に、じわじわとダイアナの大きな目が潤んでくる。
今度はそちらにエリンとアンドリューがひえっと焦りに焦った。妊婦にストレスは大敵。
「わっ、わざとじゃないものっ!ダイアナ!事故よ、事故!!」とエリンが叫ぶ。

「僕のせいです!! オーナーは赤ちゃんできたからって、ちゃんと発明品を片付けようとしてたんですから!
 今夜すぐに廃棄場に行くからって適当な空き瓶に薬入れて、そこに放置したから完ッ全ッに僕のせいなんです!
 イアンさん、アレックスさん!!気が済むまで僕を殴ってください!」
s3-12 (31)
直後はさすがに動揺してみせていたものの、
そいつをダイアナへの愛ゆえに丸呑みしてみせるのは勿論イアン・グレンツである。

「っ・・・事故ならしょうがねえな!」
「そうそう!しょうがないわよねっ!!」

はっはっはっと発声は男らしいが完全に女のイアンの笑い声が、エリンのそれとわざとらしい明るさで重なる。
そしてアレックスがやっと顔を上げて、
しっかりとした足取りでダイアナのもとへ。

「だいじょうぶ。ダイアナは気にすることないよ」
s3-12 (32)
なんとか持ち直したかと内心安堵のエリン。
その微笑みは、いつものアレックスのごとく柔和で優しく・・・残念ながら、実に女らしいと形容せざるを得ない。

「事故ならしょうがない。驚いたけれど気にしなくていいからね?」
「でも、アレックス・・・・」
「うちにいた頃から色々してたからね、少し懐かしいよ。・・・・・・ただこの格好は見苦しいから着替えてくる」

びしょ濡れなうえ、紳士服はダボついてイアンとアレックスの身体を包んでいる。

「アレックス、イアンも。ごめんね、本当にごめんなさい」
「大丈夫だって言っただろう?これは事故なんだから。
 ・・・ただしアンドリューは後で改めてお説教だよ。危険物を扱っていたなら最後まで管理はちゃんとしないとね。
 どんな状況であっても。物によってはこの程度じゃすまないかもしれないだろう?」
s3-12 (33)
その言葉にアンドリューはただただ「すみません」と小さくなるしかない。
ダイアナの体調を心配して離れてしまったが、ダイアナは一人でも対処はできた。
危険廃棄物の管理責任はちゃんとしなくてはいけなかったんだ。

そうして兄としての威厳をギリギリ保ってみせたアレックス、
大混乱はひと段落したかという中でついイアンがニヤリとからかう。

「ホント似てんだなぁ、お前ら。姉妹となると」
s3-12 (34)
瞬間、電流に打たれたかのようにアレックスの身体が大げさに揺れ・・・・
微笑はそのまま一同にゆっくり語りかける。

「━━━━・・・・・あとでどうやって戻れるのか話をしよう。すぐ戻る」
「あ、じゃあ私も戻」
「大丈夫だよ、エリン。ここに居てくれ。着替えだけだから」

一緒に戻ろうとした妻エリンにきっぱりを宣言し、アレックスは普段は見せないような早足で庭へと出て自宅方面へ。
その動きだけでアレックスが無理矢理その動揺を押さえ込んでいるのが丸分かり。
申し訳ないダイアナは頭の気持ち悪さが頭痛に変わりつつある。

「・・・・アレックス、大丈夫かなー・・・ああ、もう。どうしようー・・・イアンも本っ当にごめんね」
「ま、もう起きちまったもんはしょーがねえな。これであいつも少しは器のでけえ男になれんだろーよ」
「女の身体になって男の器ってどういうことよ。あのひとにトドメ刺したのはあなたよ!
 自分だってダニエルちゃんとソックリじゃないのっ、バカっ!」

エリンはアレックスを追いかけた。
s3-12 (37)

「・・・・イアン、だいじょぶ?」
「ま、いーさ」

イアンは軽くそう言って、そのままいつものようにダイアナの腰に手を回しキスすらしてみせた。
するとダイアナのほうがまるで知らない女性にされているみたいで、
ついつい照れ笑ってしまいイアンもそれが狙いかのように大きな笑顔を返す。

すっかり女性に変貌をとげたイアン、”威風堂々いつも通り”を続けているが
内心まったく動揺していないはずがないだろうとアンドリューが精一杯のフォローの言葉をかける。

「・・・・あの。イアンさん、確かにすごい綺麗です」
「だろ?さすが俺だよ」
s3-12 (36)

イアンはニヤリと笑ってみせた。








一見、古風な様式ではあるがセキュリティーは万全のアレックス夫妻宅。
ぴ、とアレックスの指紋を問題なく読み取って庭の扉が開いたところで、彼は運悪く執事モナと出くわす。

「っわ!?な、なに!?アンタ! ・・・じゃなかった。どちらさまでしょうかっ?!」
「・・・・・・モナ、何も言わないでくれ」
「へっ!?あっ、あの・・・・あれっ、待って、待ってください!」
s3-12 (38)
あたしの知らないひとだし、でも指紋認証で通過してるし、っていうかあたしのこと知ってるし、・・・と
執事モナがアタフタアタフタとしている隙にアレックスは自分達の主寝室がある2階へ向かうため、早足でエレベーターへ。
この正体不明の紫髪の女性に執事モナは『元公爵の本邸に侵入者だ!』とようやく考え付いた。

「待ってください、勝手に入らないでください!」
「モナ。何も言うなといっただろう、放っておいてくれないか」
「なっ、なんであたしの名前知って・・・・・あ、アレックスさんの身内?・・・のかた?でしたっけ?アレ?」

執事として雇ってもらっている身である以上、モナはネット等で過去の記録を辿りに辿り、
直接面識はなくとも”アレクサンダー・サウス公爵”の関係者の顔と名前はしっかり暗記してある。
一番最初にすごく頑張って覚えた!

「・・・・・・・・」
「あのー・・・まずお名前を教えてくださいませんか・・・」
s3-12 (43)
・・・しかし、どうも見覚えがない、・・・・でもこの紫色の、髪。
随分な美人だから暗記漏れしなさそうだし。

「モナ。そこをどくんだ」
「でも、・・・・お名前を答えてもらわないと、あたし。どけません」
「・・・・・・・・」

すう、と大きく息を吸い、2呼吸分だけアレックスは待ってやった。
それでもモナは意地でもどかず、最後に吐く息は苛立ちで微かに震えた。

この、サウス家第12代当主である俺が住まう屋敷で・・・ 主である俺が使用人のお前に名乗れと?
この嘆かわしい哀れなる姿で?
モナの戸惑いへの思いやる余裕もなく、とうとうアレクサンダーの自尊心が八つ当たり同然に小爆発を起こす。

「下がれ、と言っている!」
s3-12 (41)
怒鳴られたわけではない。
しかし毅然たる命令のその凄みにモナは喉奥で「ひ」という悲鳴のような音を立てて、逃げるように通り道から退いた。
エレベーターの扉が閉じた直後、「えっ、あ、ああああ!しまった!!」とアワワワ。
階段で追いかけようにも先般のエリンの落下事故以来、通行止めロープを張ってしまっており、跨ぐのに再びアワワワ。

「あの!」

やっと2階に到着した執事モナが声をかけた直後、バタン!と大きく寝室の扉が閉められてしまって血の気が引く。
だってだってすっげ怖かった、すごい怖かった!
見ず知らずの人からの命令だったけど従わずにはいられないくらい怖かったんだ!

「うっわあん!やべえよぉ━━━━!!どうしよう!」
「モナ!?どこ!?」

追いかけてきたエリンが2階の廊下を見上げてる。
s3-12 (44)
もしかしたらアレックスさんには異母妹ダイアナのように異母姉とかいるんだろうかと
執事モナは縋る気持ちで半泣きで彼女に呼びかけた。

「エリンさん!すいません、いま何か知らないひとが来て勝手に寝室に入っちゃって、あたし止められなくて!」
「それ、アレックスよ!」
「へっ!!?いや、女のひとですよ!?スラッと背が高めで、こう髪が紫で、長くってですね」
「だから、それがアレックス、な・の!!」

ひく、と執事モナの頬が引きつる。

「まーた記憶どうにかなっちゃったすか」
「違うわよっ!ダイアナとアンドリューがやっちゃったのっ」

隣家のアレックスの異母妹ダイアナが発明家であり、
色々しでかしたという思い出はもうすでに聞かされていたが最初こそ冗談だと思っていた執事モナ。
ところが先日のエリン夫妻の双子を初めとする4人が『へんてこな機械』へ飛び込んだと思ったら姿を消してしまうという、
ありえない光景を目の当たりにしたところでやっと事実だと飲み込めたのだ。
s3-12 (45)
「・・・・・え、うそっ。マジですか!?」
「マ・ジ・よ!!」

のんびりとしたチャイムが響き、エレベーターがエリンのために再び1階へ着いたことを告げた。
もちろんエリンは永久階段使用禁止なのである。








「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

鏡の己の姿を、再び祈るような気持ちで見つめる。
自分が頬を触れれば鏡の中の女性が同じ動作を返し、顔を近づければ彼女も同じように近づいてくる。

・・・・近づいてくる。
近づいて・・・・
ごん、とアレックスはその額を強くぶつけた。
s3-12 (47)
痛みがある。
悪夢ではないのか。
本当に女にされたのか。
なんてことだ。









一方ドアの向こうでは寝室の中に入れず、エリンとモナが耳をそばだてている。
寝室は全くの無音・・・・静寂。

「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」

チク
タク

チク
タク

廊下の壁時計が余計に静寂を際立たせる。

チク
タク

チク
タク

チク
タク

「ア、アレックスさん、・・・死んでたりとか、ない、・・・ですよね?」
「何を言うのよ。そんなことあるわけないでしょ」
s3-12 (73)
「エリンさん、入らないんですか?」
「入れるわけないでしょ、私に一番見られたくないんだから」

夫アレックスから寄せられる愛を存分に自覚しているエリン、そして執事モナは心から納得する。


チク
タク


チク
タク



チク
タク


チク
タク


チク
タク



チク
タク



瞬間。



















「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!」


爆発したのかと思うほどに、モナとエリンの耳の鼓膜が麻痺した。

アレックスは恥辱と無念と自尊心がゆえ人にはぶつけられぬ憤怒を大爆発させ、
自分のクッション(ここでエリンのものを決して使わないところが彼足る所以である)でベッドを殴り、殴り、殴り!殴りに殴る!!

「何で俺が、俺が俺が俺が俺が!!!!俺が!!!!!」
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それでも我慢できず、
さらに枕でベッドだけじゃなく床をも殴りに殴って殴って殴って叫び続けた。

「あの野郎!!だっれっがっ姉だ!誰が姉だ!誰が姉だ姉だ姉だ!」

あの野郎、ふざけやがって!誰が姉だ!
大体あいつが薬をかけずに水をかぶるなんてことしなければ、こんな目にあわずに済んだのに!

ベッド、床、ただし小物が置いてある場所だけは避けつつも、
アレックスは殴りに殴り、殴り、殴り・・・・続ける。



時間にすればそんなに長くはない。
ぜえぜえぜえと肩で息するようになってそれは収まり、クッションから零れた羽毛が部屋中に舞う。

「・・・・・・・・・・」

羽毛が、わずらわしい。
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数回それらを払うように片手を宙で振ったのち、
アレックスは定位置に収納してある寝室用の掃除機を出してブチギレの証拠隠滅を始めることにした。






すぐ外で盗み聞きしていたエリンとモナはといえば、四つんばいの状態で寝室から遠ざかった。
そのまま一階へ降り、やっと十分な距離をとれたところで、
執事モナは腰を抜かさんばかりにビビっている。

「ア、アアレックスさんが、ここここ壊れ、こわ、こわこわ、怖い、こわこわこわ、壊れ、こわ」
「大丈夫だから落ち着きなさい!!・・・あのひとにはやっぱりショック大きかったみたいねえ」

「大丈夫なんですかっ!?ホントに、アレ!すごい、声、あれ!」
「逆の立場だったら正直私なんかは面白いって思っちゃうけど、アレックスはねえ・・・
 元々男らしくないって見られるの大嫌いなひとだから。ホラ、顔立ちが優しい感じでしょ。
 それでナメられたり、若く見られたりしすぎるのとか大キライなのよ」
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若く見られたい女と逆よね、とエリンは軽く告げた。
それでも執事モナは実に(アレックスの頭を)心配そうな目をしているのでエリンは笑いとばす。

「今も証拠隠滅するために掃除してるくらいなんだからヘーキよ!カッコつける余裕があるじゃない!」
「・・・なるほど」

納得したモナのもとへ、また見知らぬ女性が姿を見せた。
なんとも目を引く、色香が匂い立つような濃い顔立ちの美女がバスローブという姿なのでモナはそれにもびっくり。
零れんばかりの━━━ エリンをも上回る(そもそもエリンもすごいのに)、その肢体にも圧倒される。

「おう。どうだ?あいつの方は。壊れたか?」
「あなたね。私でもあんなのは初めてよ。寝室にお篭りして大声出して、・・・・結構すごかったんだから!」
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ぶっ、とイアンは笑いを漏らして、くくくくと低く笑う。
しかしエリンはそんな彼(とやはり表記するしかない)を睨みつけ、

「よくもアレックスに薬ぶっかけてくれたわね。アンドリューは事故だけど、女性になったのはあなたのせいでもあるのよ」
「んなもん、どーせあいつも飲んでたんだから一緒だろ。こっちはあいつのせいで飲ませれたんだ。
 知らずに公衆の面前で海だのプールに入ってたら、大声程度じゃ済まなかっただろうよ
 カントリークラブのサウナじゃなかっただけありがたいと思え。あいつ水風呂好きだろ、ジジイだから」

「ホント口ばっかり回るんだから!それにしてもあなたは随分余裕があるみたいじゃない」
「・・・・いつかは俺も何かされるだろーとは思ってたんだんよ。んな覚悟くらい、とっくの昔にしてる」

でなきゃアイツと結婚なんざできるか、とイアンはわざとらしく顔をしかめて吐き捨てた。

「・・・・・・・・・あのー・・・  こちら、あのー・・・・・まさかとは思うんすけど・・・・」
「どうだ、モナ。突然現われた正体不明の美女に驚いただろ」
「うっわー・・・・マジっすかー・・・・・」
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その口振りと会話内容で、すぐに長い茶色の髪の女性がイアンであることが分かってしまった。

「イアン、ダイアナのほうは離れて大丈夫そうなの?」
「誰に訊いてんだ。平気に決まってんだろ。・・・あとな、エリンお前、服貸せ」

「ええ? 元々ある自分の服で過ごせばいいじゃない。メンズなんてでかいんだから」
「上はともかく、このケツがでかくて男モンじゃ歩けねえんだよ、ジャージも何もかも全部な!」

アレックスが去った直後、紳士服だと尻の回りが特に痛いほどにキツく、イアンは慌てて脱ぐ羽目になった。
他の服に着替えようとしたら、一番大きいジャージでも尻がバツバツで下半身に着れるものが何もなかったのだ。
そしてバスローブを羽織り、アレックスの様子を見てくることを言い訳にこちらへやった来た次第である。

「貸してもあげてもいいけど、どうせ一時的なんだしダイアナの服を借りなさいよ。・・・・━━━━・・・・あっ」
「・・・・・」
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ボンとしたエリンを上回る胸に、キュと締まったウェストはともかく、さらにボンと出ている臀部。
それはスラリとした体型のダイアナとは完全に対極で、
絶対に彼女の服は入らないだろうとエリンはやっと気付いた。

「やっとわかったか。戻るまでバスローブでウロウロしてるとダイアナが『自分のあるよ』とか言い出すだろ。
どうせすぐ戻んだ。俺もここでついでに借りた、ってことでいいだろ」

俺のほうが出るとこ出てるからお前の服は着れないなどと、妻ダイアナには絶対に言えない。

「・・・・・スカートか、ワンピースは?ダイアナのでも入るでしょ」
「んな女モン着れると思うか!!っざけんじゃねえぞ!」
「いまは女でしょ。大体私の服だって女性モノよ」
「ほーう、そういえばお前も女だったな。忘れてた」

なによっとエリンが怒り、いつものように軽口を言い合いながらも再びイアンも連れて主寝室へ。
いつもならしないがノックをキッチリして、少し遅れてきた「どうぞ」とアレックスの返答を待ったのち入室した。

「あらまあ」
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なんとアレックスはまるで子供のようにシーツにくるまっていた。
そこまで落ち込んだかと心配したエリンに、アレックスは暗い顔で理由を告げる。

「・・・・服がないんだ、エリン。どうも・・・自分の今までの服だと・・・」
「女のケツがデカくて男モン入んねえんだろ!!そのくだりはもう俺がやったんだよ!」

イアンがツッコんだところで事態をちゃんと飲み込めた執事モナが呟く。

「そんなに違うモンなんすか?イアンさんもアレックスさんも身体大きいのに」
「マジで全然入らねえぞ。ファスナーが上がんねえんだよ。なんでこんなにこう!出てるんだよ」

イアンは自身の見事な丸みのヒップを振り返り、腰骨を手のひらでパンと叩いてみせた。
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「女性は骨盤が違うとか言うものねえ」とエリン。

「アレックス。なっちまったもんはしょうがねえだろ。とりあえずエリンの服着ろよ。
 誰も『嫁の服着やがって、この変態野郎』とか言わねえから」
「・・・・・じゃあ言うな、イアン」

アレックスは暗い顔のまま、イアンを睨んだ。






クローゼットから両名分のパンツスタイルの服を提供したエリン。
”男性陣”2名から『ピッタリしたのはイヤだ』だの言われ、しまいこんだままのものを引っ張り出した。

するとイアン、少しだぶつくウェスト周りを伸ばしたかと思うと、そのまま無言を押し通す。
一拍置いて、そのイアンの行動の意味を理解したエリンはムカーッという気持ちのまま
子供のように彼の背中をどついた。

と、それぞれが首を傾げたり妙にソワソワと落ち着かない様子を見せている。
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イアンは屈伸を繰り返し、アレックスすらズボンを左右に揺らし・・・・
そういえば少し前からそんな様子を見せていることに思い当たり、執事モナが「大丈夫ですか?お2人とも」と声をかけた。

「あー・・・・・・・・・なんか・・・」
「・・・・・・・・・・・・」

イアンが珍しく所在無さげな声でアレックスに呼びかける。

「股がスースーする。・・・・よな?」
「・・・。ああ」

モナが不思議そうに頭の周りに?マークを沢山浮かべる。
あら、とすぐに合点がいったエリンは親切に捕捉説明してあげるにした。

「やあね!要するにチ×コがなくって心許ないってことよ、モナ」
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「へっ!?あっ!ああ~!なるほど・・・・ ってエリンさん・・・・」
「そんなにあるなしで変わるもの?アレックス」

ズバリでモナに教えてあげた後にエリンが目をキラキラさせて尋ねるがアレックス、苦笑して答えない。
それは妻よりも恥じらいがある女性同然で、実に皮肉な状況である。
なのでイアンがズバリ教えてやった。

「全然違うぞ。むしろ俺からすりゃ何だよコレ。ちょっと動くだけで揺れて気持ち悪ィ」

といってイアンが顎で示すのは自分の胸。
豊かなそれは水が入った風船のように少しの挙動で縦に横に斜めにと揺れに揺れる。

「ノーブラならそんなものよ。明日にでも買っちゃいなさいよ、イアン」
「んなもん誰がつけるか。バカが」
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「あのねえ。真面目な話、その大きさだと垂れちゃうわよ」
「どーせすぐ戻んだ。んなもん着ける位なら舌噛みきって死んでやる!」

断固たる決意のイアン。
そしてエリン、ふと考え込む。

「でも股の間に物があるなんて、すごく変な感じだけれど・・・・あなた達男の人には当たり前なんでしょう?」
「・・・。そうだね」
「ふーん・・・」

小学生の女の子のようなエリンにアレックスは相槌くらいしかうてない。
そこで”ひらめいた!”とばかりに、なんとエリンはクローゼットから靴下を取り出して適当に塊にしだした。
モノがあるのが分からないなら試してみよう!

「ちょっちょちょ待って!エリンさん、それはダメっすよ!!公爵家ご当主の奥方がなんてことするんですかっ!はしたない!!」
「だって気になるんだもの。バカね、イアンもいるのにここではしないわよ。ちゃんとトイレでやるから」
「だ━━━━!!そういうことじゃないです!公爵夫人がなんてことするんすか!ダメですって!」
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忠実なる執事モナが命を張ってエリンを止めにかかる。
離してよ、いやダメでしょとワチャワチャ揉み合いながら2人はバスルームへ。

「・・・。公爵夫人つか・・・・・・」
「ま、どこの国も王族だろうが聖人じゃないからな」

幼少から親に連れられて外遊する機会もあったアレックス、妻の行動を止める気力はないらしく
遠い目で呟いた。






ダイアナを待たせぬようにと、再びイアン宅。
この性別を変えてしまう薬の被害にあったことをなんとか飲み込んだ男2名、やっとその解毒について話を聞くこととなった。
が。珍しくダイアナは、どうやったら2人が戻れるのかという点についての説明をせず婉曲に話をしている。

「・・・リズちゃんから借りた漫画の影響で作ったのは分かったよ、ダイアナ」

相手は妊婦、そしてダイアナということもあり、アレックスは生来の根気のよさで最後まで聞いて肝心要のことを尋ねる。

「俺たちが元に戻る薬は?どこにあるのかな」
「・・・ないの・・・・」
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「・・・・・・・・・・・」
「今のは聞き間違いだよな、ダイアナ」

「水かぶって、お湯かぶって性別が変わるの・・・・面白そう!って思ったんだけど、あたしが作れてたのは途中の・・・
 水かぶってのところまでで・・・お湯かぶって元の性別に戻るっていうところまで完成してないの。
 それが完成してないから、その・・・解毒薬も・・・ない・・・」

イアンとアレックス、今度こそ本当に動揺して立ち上がった。
この場で一番冷静なのは「あらら、そういうことなの」とだけ呟くだけのエリンだったりする。
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「あと1週間で完成はできたんだよ!?でもお腹に赤ちゃんいるから危険物の取り扱い止めたほうがいいから
 開発凍結して、アンドリューに危険物廃棄に出してもらおうとしてた途中でね、その・・・さっきのことが」
「本当にすみません・・・・!手近なガラス瓶だったから使ってしまって・・・」

アンドリューは溶鉱炉に飛び込んでしまいたいと思うほど小さく小さくなって謝る。
もちろん事態が解決するまで『アイルビーバック』はしない覚悟である。

「じゃあ、お前が赤ん坊産むまで・・・いや、待てよ。産んでもお前が母乳とかあるよな、ダメだ。暫くはやるな」
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最悪の事態に最悪に動揺しながらも、まだ見ぬ我が子を慮るイアン。
ダイアナも申し訳ないながらも頷くしかない。

「でも、そうなると赤ちゃんが1歳とか過ぎるまで・・・作業再開できないことになっちゃうんだけど・・・」

つまりヘタするとダイアナが出産して母乳を止めるまで・・・2年近くこのまま?嘘だろう?
アレックスは再びあの寝室に戻って大声で叫びまくりたい衝動に駆られる。
今度こそ我を失って多分小物などもなぎ倒すだろうが、もういいだろう。
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しかしダイアナが笑顔で男2人を最高に勇気付ける言葉を放った。


「でも解決策はちゃんとあるよ!!ひとりだけ助けてもらえる人がいる!
 ちょうど今週から休暇だっていってたし、お願いしたらきっとその人なら薬作ってくれるよ!多分
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「今すぐ呼べ!!いくらでも払う!」   「いくらなら来て貰える?!」

ダイアナの小声の「多分」を聞き流し、アレックスとイアンの声が重なった。














そして、その救世主の電話が鳴る。

「おお、どうしたダイアナ。体調は落ち着いたのか?わたくしは今日から夢のサンリットタイズでバカンスだ。
 お前が薦めてくれたホテルのロイヤルスイートでな」
s3-12 (69)
長期バカンスのための荷物のもとで、彼女の忠実なるシムボットが電話中の彼女を見つめる。

「オーナー、お迎えが外に来ていますぅ。車の中でお話ししましょう~?」
「まだ靴が決まっていないのだ。車は少し待たせておいてくれ。━━━━ それで、ダイアナ。何を作ったって?」

暫く彼女は耳をすませてダイアナが作った発明品の説明を聞くと、ふふっと笑いを零し履いてるヒールを足の指だけで脱いだ。
琥珀色の肌にぴったりのサンダルを試す。実に美しいじゃないか。

「つくづくお前は面白いことをする娘だ」

すると電話口の向こうで賑やかな女性達が2名、騒ぎ立てている。どうも言い争っているようだ。
声からするとダイアナの友人というには少し年上のようで興味をそそられた。あの娘の知り合いは美人が多い。

「もう少しお前の発明の話を聞いていたいが、わたくしはこれから空港だ。続きは機内でゆっくりスカイプでも ━━━ なに?」
s3-12 (72)
愛する弟子の恐縮した声と、それによって起きてしまった事件と依頼内容。
それらすべて聞き終えると、まるで美しい悪役のような笑い声が響き渡った。

「はーっはっはっはっはっは!!面白い!!
 つまりはお前の周りで先ほどから騒いでいるのはサウス公爵とイアン・グレンツか!」

タラ教授の通話中に登場した五つ星セレブの名前に、シムボットは目を丸める。
一体どういう事態なんだろ?

「ダイアナよ、夫に代わりなさい。 ━━━━ やあ、しばらく。あなたと直接話すのはあなた方の式以来か。
 今回は災難だったようだな、イアン・グレンツよ。しかし言っておくが、わたくしの頭脳とバカンスはそう安くはない。
 安売りする気もないぞ。わたくし自身のバースデーデートも兼ねていたのだ」
s3-12 (70)
すると即電話の向こうで提示されたオファー額にタラ教授はニマーっと顔を緩めた。

「それはそれは。実に素晴らしい。いいだろう、このまま空港にゆく。次に公爵にも代わっていただく。
 ━━━━ お久しぶりです。このたびの事態、心よりお見舞い申し上げる。それで今グレンツ氏とは・・・ああ、お話が早い。
 光栄です、サウス卿。それではのちほどお会いしよう。あなたの素敵な奥方にお会いできるのも楽しみにしている」

”のちほど?” その話の展開に、シムボットちゃんはおろおろ。
だってあと3時間にはサンリットタイズに向かう飛行機に乗るはずだったのに。

「アルテイシアよ。これから我々はサンセットバレーへゆく。しかもプライベートジェットでだ!」
「ええ~っ!?だってオーナーってば、サンリットで誕生日のデートのお約束も入ったじゃないですかぁ!」

聴覚などはシムボットアンドリューと同じく人間並みにしているアルテイシアと呼ばれたシムボットは
通話内容も分かっていないので「だめですぅ、だめですぅ!」と真っ向からぷりぷり大反対。
彼女もまたシムボットでありながらダイアナの功績によって自律思考ができる。

「合わせて六千万ドルの仕事だぞ。わたくしは結婚にも興味はないし、あの男にそこまでの価値はない」
「ろくせんまんー!?すごいぃ~!!」
s3-12 (71)
すごい金額に目をまんまるくした。のち、「あっ、それでもぉ・・・」とタラ教授の助手であり秘書である彼女はぐじぐじ。

「だめでぅす・・・先にお約束してたのにぃ・・・・」
「サンセットバレーではわたくしのマーガレットも待っている。金も愛もそこにあるのだ。行かぬ理由がない」

タラ教授は弟子ダイアナの母マーガレットを想い、最高に上機嫌。
この名前が出てしまったら止められないとシムボット・アルテイシアはふーっと長いため息をついた。

「・・・お断りのお電話する私が辛くなっちゃいますぅ・・・」
「だからわたくしがするといつも言っているだろう。繋いだらこちらに転送するのだ」
「オーナーの振り方はひどすぎるからダメですぅ!男性っていうのはナイーブなんですぅ!!」
「そうは言うがな、アルテイシアよ。
 セックスの採点とその意見交換なぞこういうときにでもなけれはできないではないか。互いの後にも大いに役立つ」
「そっれっがっ!ダメなんですぅ!!
 お相手はェ、・・・エッチ、・・・の、せいでっ!振られたとしか思えないですぅ!」

頬を染めながらアイルテイシアはこの度旅行当日に振られることになった不幸な男性へ
電子脳内よりぴっぴっぴ、と電話をかけた。

s3-12 (68)
「しかし男と言うのは実に愉快なものだな、アルテイシア。
 ダイアナが子を産み育てる間くらい待てばよいものを、2本のペニスを取り戻すためにあんな値段をつけるとは。
 そもそも男は自分の存在価値をペニスに置きすぎなのだよ。まさに司令塔だな」

「本っ当、信じられないくらい下品ですぅ・・・んもー」

顔をしかめまくってアルテイシアの呟いた口癖は、間違いなくダイアナのそれである。





→第13話









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