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第12話 男の値段 Amina Ⅰ

※つわり表現ありますので飲食中の方は注意。なお症状・対処は人それぞれであり、当作品はフィクションであることをご了承下さい。

←第11話



ダイアナは妊娠を自覚した途端にツワリが始まった。
なので残念ながらアレックスの復帰記念には欠席し、忠実なるシムボット・アンドリューとお留守番。

そして体調がさらに悪くなる前に・・・と自宅の研究ラボにて休みながら
アンドリューに片付けの指示をしている。

「んもー・・・・せっかくいいところまで行ってたのにな~・・・・う~気持ち悪~い」
「すっかり口癖が『気持ち悪い』になっちゃいましたねえ。リズさんに借りてる漫画、途中でしたよね。寝室で読みますか?」
「文字読めないからいい~・・・うー気持ち悪~~~~い・・・・んもー・・・んもー・・・・」
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アンドリューは分かりました、と漫画の束を整える。

「オーナー、お昼ごはんは何なら食べられそうですか?」
「・・・・・。・・・・・りんご」
「はい、分かりました。漫画はリズさんに一度返しておきますからね」
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「うん、お願い」

そしてリビングへ行くとダイアナが「う・・・・・」と顔をしかめ、ヨロヨロとお手洗いへ歩いてゆく。
アンドリューは慌てて地下のラボから持ってきた瓶をテーブルへ置いて、素早く彼女に寄り添った。

「大丈夫ですか、オーナー」

この数日、果物とくらいしかまともに食べられていない。
どうして?食べないと赤ちゃん育たないんじゃないの!?栄養摂らせようよ、人体!もっと身体簡単に切り替えてよ!
・・・と、自らの妊娠体の矛盾を全身の細胞たちに訴えてもどうしようもなく・・・・。
早くも感情のふり幅も大きくなってしまっているダイアナはうっうっうっと半べそになり、

「つらいよ・・・こんな弱いんじゃ、あたしママになんかなれないよ・・・・」
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「大丈夫。大丈夫です、オーナーはとっても素敵な僕のお母さんですよ。ね、おちびさん?」

心配しつつも笑顔のアンドリューに励まされつつお手洗いへ。
そこへすっかり正装を崩したイアンとアレックス夫妻が帰宅する。

「ただいま。おーい」

ダイアナいるかー?と尋ねようとしたイアンの問いは、
お手洗いの方面から響くダイアナの「おえええええ」という声で止まる。

「・・・・またか。ちょうど薬が弱くなり始めるとアレが出るんだよ。夕方の薬前だからな」
「かわいそうに。風邪なら1週間程度で収まるけど、それよりも続くんだろ?」
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「ああ。場合によっちゃ産むまで続くんだと。終わればいいけど、こればっかりはどうなるか」
「そんなにか・・・」

心底ダイアナを心配したアレックスの呟きが響く。
エリンが記憶喪失のときにあった激しい兄妹喧嘩は、ケンカした当日にエリンの記憶が戻ったこともあって
アレックスが詫びる形で収まっていた。
言い合いしたとはいえ叱ってくれる存在をありがたいと思える程度には彼もちゃんと歳を重ねている。

「ダイアナが何か食べられるものは・・・・ああ、一通り揃えてはいるみたいだな」
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妹の食生活を心配したアレックスの言葉は、
キッチンにどっさりと盛られた高級スーパーの段ボールの山を見て飲み込まれた。
「あんくらいしか周りにはできねーからな」とダイアナに最善を尽くしまくっているイアンである。
そこで”まかせて!”とばかりにエリンが腕まくりのジェスチャーをしてキッチンへ乗り込み始めた。

「待て待て待て!目離したスキに何してくれようとしてんだ、お前!油断を隙もねーな!」
「なによ。せっかくだからスープでも作ろうと思ったんだけよ。妊婦さんだからハーブは使わないし普通のよ」

イアンが心配しているのはそこではない。

「ダイアナが1階にいるときはキッチンは使用禁止」
「どうして?」
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「すっげえ匂いに敏感になってんだよ。ディランみたいな目に遭いたくなければやめとけ」

そういえば1階にあった子犬のディランのサークルがごっそりなくなっている。
イアンの深刻な顔に、エリンも同じようなトーンになりながら「一体あのコどうしたの?」と尋ねる。

「今あいつはアンドリューの部屋で暮らさせてるから心配はすんな。
 まあ何があったとかいえば・・・一昨日ダイアナがじゃれてくるディランを抱っこしようとして前屈みになってだな。
 犬の匂いってのがあんだろ、あれで」
「イアン、皆まで言わなくていい。予想が付いた」

アレックスが首を振りながら本当に聞きたくなさそうにイアンの詳細描写を止めた。

「あんな地獄絵図見たことねーよ。
 ディランは悲鳴上げながらサークル脱走して逃げ回るわ、ダイアナは謝りながら大泣きするわ、
 アンドリューはパニくったディラン捕まえるために家具持ち上げまくるわ、挙句ディランは俺に飛びついてきてな・・・・」
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カーペットとソファを入れ替えさせたと彼が語る傍ら、
アレックスはダイニングテーブルからミネラルウォーターの瓶を手に取っていて「もらうよ」と声をかけた。

「ああ。俺も飲む。エリン、お前は?」
「私はいらない」

「だから少ししかお酒も飲まなかったのね、イアン。そういえば香水も付けてない?」
「そんくらいしか協力できねーからな・・・・できるのは買い物だの食い物どうにかすることくらいでな。
 抜本的な解決策なんざなんもできねえで、無力すぎて情けねえよ」

イアンは買い替えたての豪奢な家具や食材を身振りで示した。

「そう思ってくれる奴が傍にいてくれるだけで安心はできるよ、イアン」
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ダイアナの兄としてアレックスが微笑みながらダイアナの気持ちを代弁した。
そこへ大仕事終えてグッタリ・・・といったダイアナがアンドリューとともに戻ってきた。

「あ~~~おかえり~~~、みんな~~」
「おう。そろそろ薬切れてきたか」
「んー・・・・・」
「また渋ってんのか?ダイアナ、お前考えすぎなんだよ。医者が飲まして悪いモンなら出すわけないだろ。
 医者も言ってただろ、ストレスを貯めるな。いいから飲んで寝とけ」

カウンターにあった薬を手に取って、先ほど飲んだミネラルウォーターの瓶を手に取ろうとする瞬間。
聞いたこともないような大声で「ちょっと待ったぁッ!!」とアンドリューがそれを止める。

「イアンさん、テーブルの上の瓶はどうしました!?まさかそれ・・・・ そこの!テーブルにあったものを飲みました?!
 僕、そこに置いておいたやつです!」
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「・・・え"。 ラボから持ってきたやつっ!? イアン、あれ飲んだの!?」

ダイアナの顔がひきつる。
そして満ちるは、その瓶に入っていた水━━ではないらしい何か既に飲んでしまっている男2人の重い沈黙。
ふんわり美しい金髪を揺らしながら、既に数回の被害者となっているエリンなどはごくごく平然と、

「あら。今度は一体何を作っちゃったの?ダイアナ」
「えっ、あ・・・・・いやあ・・・・まあ、飲んでも普通にお風呂に入る分には大丈夫だし・・・イアンはちょっと暫く
 サーフィン我慢してもらって・・・」

「ダイアナ、俺も飲んだんだが一体何なんだ?」
「えっ?!アレックスも・・・・。うん・・・危険は一切なくてね。プールとか海とか水風呂とか控えれば平気だから・・・・」
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ごにょごにょごにょ。
よほどマズイものなのかダイアナは答えない。アンドリューも同様に目が泳いでる。
ここで察しのいいイアン、ちょっと眉を動かす。

「・・・・水か」
「えっ、あっ・・・いや~~まあ、だからね。あのね。あったかいシャワーとかお風呂は平気だから・・・・・ゴニョゴニョ」
「アレックス。間違いだったら許せよ。間違いじゃなくてもキレんな」

宣言したのと同時に、イアンはまさかという気持ちのまま何とコップの水をアレックスにぶっ掛けた!

「っ!?」
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「きゃっ」 
 「「あああああああああああああ━━━━っ!!!!」」

水しぶきに気をとられて可愛らしく叫ぶエリン、ハモるはアンドリューとダイアナの大声。
即座に顔が引きつるイアン。
一方でこのイアンがしてきた意味不明でありながら無礼な行動に、当然誇り高きアレックスはブチ切れる。

「一体何をする!」

反射といってもいいキレで、アレックスも自身のコップの水をイアンにぶっ掛ける!

「ッ!てめ」
「「あああああああああああああ━━━━!!」」
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ぼた、ぼたぼた・・・・水を掛け合ったとはいえ、ほんの少量。
互いに顔を見合わせながら・・・・・

「な、な・・・・な、な、な、なな、な」
「うそだろ、うそだと言えよ、オイ」

━━━━まとわり付く髪の気配と、
イアンの変貌にやっと自身もどうなったのかを悟ったアレックス。

男2名は壁に埋め込まれているキッチンの鏡へ我先にと駆けつけて
互いにもう一度、その姿を見合った。


















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そしてアレックスは床に崩れおちた。
イアンは鏡の虚像にぶん殴られたかとでもいうようにフラりと揺れて、揺れ・・・
小さく独り言を言い出す。

「俺は・・・俺はな・・・
 俺らの子供には世界一のオヤジになってやろうとか思ってたんだよ・・・・
 わかるか・・?その決意が・・・」

あらららら、とエリン。
夫に駆け寄ろうとするが「来るな・・・来ないでくれ、エリン」と指先まで震わせながら床に跪いている。
とうとうイアンが叫んだ。

「これじゃ世界一の美女だろうがっ!!!」
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イアンは堂々と世界一と言い切った。





事態をとりあえず、理解したイアン。
そしてエリン。
となると一同の視線が集まるのは勿論こんな状況を絶対に承服などできないであろう人物へ・・・・

「・・・・━━━━━━・・・・・・・・」

妻に完全に背中を向けた、
高潔なる(元)公爵の、自らに爪を立てている白い指はわなないている。
その表情はイアンの方向からも長い艶やかな髪に隠れて全く見えない。
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流石にまずいと「あ、あのね、アレックス・・・」とダイアナが呼びかけるが、
彼(彼女とは表記しがたい)はそんな妹に向かっても首を振るだけ。
さらには手のひらだけ向け、『今は・俺に・話・かけて・くれるな』と全身で訴えてきた。

その対応に、じわじわとダイアナの大きな目が潤んでくる。
今度はそちらにエリンとアンドリューがひえっと焦りに焦った。妊婦にストレスは大敵。
「わっ、わざとじゃないものっ!ダイアナ!事故よ、事故!!」とエリンが叫ぶ。

「僕のせいです!! オーナーは赤ちゃんできたからって、ちゃんと発明品を片付けようとしてたんですから!
 今夜すぐに廃棄場に行くからって適当な空き瓶に薬入れて、そこに放置したから完ッ全ッに僕のせいなんです!
 イアンさん、アレックスさん!!気が済むまで僕を殴ってください!」
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直後はさすがに動揺してみせていたものの、
そいつをダイアナへの愛ゆえに丸呑みしてみせるのは勿論イアン・グレンツである。

「っ・・・事故ならしょうがねえな!」
「そうそう!しょうがないわよねっ!!」

はっはっはっと発声は男らしいが完全に女のイアンの笑い声が、エリンのそれとわざとらしい明るさで重なる。
そしてアレックスがやっと顔を上げて、
しっかりとした足取りでダイアナのもとへ。

「だいじょうぶ。ダイアナは気にすることないよ」
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なんとか持ち直したかと内心安堵のエリン。
その微笑みは、いつものアレックスのごとく柔和で優しく・・・残念ながら、実に女らしいと形容せざるを得ない。

「事故ならしょうがない。驚いたけれど気にしなくていいからね?」
「でも、アレックス・・・・」
「うちにいた頃から色々してたからね、少し懐かしいよ。・・・・・・ただこの格好は見苦しいから着替えてくる」

びしょ濡れなうえ、紳士服はダボついてイアンとアレックスの身体を包んでいる。

「アレックス、イアンも。ごめんね、本当にごめんなさい」
「大丈夫だって言っただろう?これは事故なんだから。
 ・・・ただしアンドリューは後で改めてお説教だよ。危険物を扱っていたなら最後まで管理はちゃんとしないとね。
 どんな状況であっても。物によってはこの程度じゃすまないかもしれないだろう?」
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その言葉にアンドリューはただただ「すみません」と小さくなるしかない。
ダイアナの体調を心配して離れてしまったが、ダイアナは一人でも対処はできた。
危険廃棄物の管理責任はちゃんとしなくてはいけなかったんだ。

そうして兄としての威厳をギリギリ保ってみせたアレックス、
大混乱はひと段落したかという中でついイアンがニヤリとからかう。

「ホント似てんだなぁ、お前ら。姉妹となると」
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瞬間、電流に打たれたかのようにアレックスの身体が大げさに揺れ・・・・
微笑はそのまま一同にゆっくり語りかける。

「━━━━・・・・・あとでどうやって戻れるのか話をしよう。すぐ戻る」
「あ、じゃあ私も戻」
「大丈夫だよ、エリン。ここに居てくれ。着替えだけだから」

一緒に戻ろうとした妻エリンにきっぱりを宣言し、アレックスは普段は見せないような早足で庭へと出て自宅方面へ。
その動きだけでアレックスが無理矢理その動揺を押さえ込んでいるのが丸分かり。
申し訳ないダイアナは頭の気持ち悪さが頭痛に変わりつつある。

「・・・・アレックス、大丈夫かなー・・・ああ、もう。どうしようー・・・イアンも本っ当にごめんね」
「ま、もう起きちまったもんはしょーがねえな。これであいつも少しは器のでけえ男になれんだろーよ」
「女の身体になって男の器ってどういうことよ。あのひとにトドメ刺したのはあなたよ!
 自分だってダニエルちゃんとソックリじゃないのっ、バカっ!」

エリンはアレックスを追いかけた。
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「・・・・イアン、だいじょぶ?」
「ま、いーさ」

イアンは軽くそう言って、そのままいつものようにダイアナの腰に手を回しキスすらしてみせた。
するとダイアナのほうがまるで知らない女性にされているみたいで、
ついつい照れ笑ってしまいイアンもそれが狙いかのように大きな笑顔を返す。

すっかり女性に変貌をとげたイアン、”威風堂々いつも通り”を続けているが
内心まったく動揺していないはずがないだろうとアンドリューが精一杯のフォローの言葉をかける。

「・・・・あの。イアンさん、確かにすごい綺麗です」
「だろ?さすが俺だよ」
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イアンはニヤリと笑ってみせた。








一見、古風な様式ではあるがセキュリティーは万全のアレックス夫妻宅。
ぴ、とアレックスの指紋を問題なく読み取って庭の扉が開いたところで、彼は運悪く執事モナと出くわす。

「っわ!?な、なに!?アンタ! ・・・じゃなかった。どちらさまでしょうかっ?!」
「・・・・・・モナ、何も言わないでくれ」
「へっ!?あっ、あの・・・・あれっ、待って、待ってください!」
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あたしの知らないひとだし、でも指紋認証で通過してるし、っていうかあたしのこと知ってるし、・・・と
執事モナがアタフタアタフタとしている隙にアレックスは自分達の主寝室がある2階へ向かうため、早足でエレベーターへ。
この正体不明の紫髪の女性に執事モナは『元公爵の本邸に侵入者だ!』とようやく考え付いた。

「待ってください、勝手に入らないでください!」
「モナ。何も言うなといっただろう、放っておいてくれないか」
「なっ、なんであたしの名前知って・・・・・あ、アレックスさんの身内?・・・のかた?でしたっけ?アレ?」

執事として雇ってもらっている身である以上、モナはネット等で過去の記録を辿りに辿り、
直接面識はなくとも”アレクサンダー・サウス公爵”の関係者の顔と名前はしっかり暗記してある。
一番最初にすごく頑張って覚えた!

「・・・・・・・・」
「あのー・・・まずお名前を教えてくださいませんか・・・」
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・・・しかし、どうも見覚えがない、・・・・でもこの紫色の、髪。
随分な美人だから暗記漏れしなさそうだし。

「モナ。そこをどくんだ」
「でも、・・・・お名前を答えてもらわないと、あたし。どけません」
「・・・・・・・・」

すう、と大きく息を吸い、2呼吸分だけアレックスは待ってやった。
それでもモナは意地でもどかず、最後に吐く息は苛立ちで微かに震えた。

この、サウス家第12代当主である俺が住まう屋敷で・・・ 主である俺が使用人のお前に名乗れと?
この嘆かわしい哀れなる姿で?
モナの戸惑いへの思いやる余裕もなく、とうとうアレクサンダーの自尊心が八つ当たり同然に小爆発を起こす。

「下がれ、と言っている!」
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怒鳴られたわけではない。
しかし毅然たる命令のその凄みにモナは喉奥で「ひ」という悲鳴のような音を立てて、逃げるように通り道から退いた。
エレベーターの扉が閉じた直後、「えっ、あ、ああああ!しまった!!」とアワワワ。
階段で追いかけようにも先般のエリンの落下事故以来、通行止めロープを張ってしまっており、跨ぐのに再びアワワワ。

「あの!」

やっと2階に到着した執事モナが声をかけた直後、バタン!と大きく寝室の扉が閉められてしまって血の気が引く。
だってだってすっげ怖かった、すごい怖かった!
見ず知らずの人からの命令だったけど従わずにはいられないくらい怖かったんだ!

「うっわあん!やべえよぉ━━━━!!どうしよう!」
「モナ!?どこ!?」

追いかけてきたエリンが2階の廊下を見上げてる。
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もしかしたらアレックスさんには異母妹ダイアナのように異母姉とかいるんだろうかと
執事モナは縋る気持ちで半泣きで彼女に呼びかけた。

「エリンさん!すいません、いま何か知らないひとが来て勝手に寝室に入っちゃって、あたし止められなくて!」
「それ、アレックスよ!」
「へっ!!?いや、女のひとですよ!?スラッと背が高めで、こう髪が紫で、長くってですね」
「だから、それがアレックス、な・の!!」

ひく、と執事モナの頬が引きつる。

「まーた記憶どうにかなっちゃったすか」
「違うわよっ!ダイアナとアンドリューがやっちゃったのっ」

隣家のアレックスの異母妹ダイアナが発明家であり、
色々しでかしたという思い出はもうすでに聞かされていたが最初こそ冗談だと思っていた執事モナ。
ところが先日のエリン夫妻の双子を初めとする4人が『へんてこな機械』へ飛び込んだと思ったら姿を消してしまうという、
ありえない光景を目の当たりにしたところでやっと事実だと飲み込めたのだ。
s3-12 (45)
「・・・・・え、うそっ。マジですか!?」
「マ・ジ・よ!!」

のんびりとしたチャイムが響き、エレベーターがエリンのために再び1階へ着いたことを告げた。
もちろんエリンは永久階段使用禁止なのである。








「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

鏡の己の姿を、再び祈るような気持ちで見つめる。
自分が頬を触れれば鏡の中の女性が同じ動作を返し、顔を近づければ彼女も同じように近づいてくる。

・・・・近づいてくる。
近づいて・・・・
ごん、とアレックスはその額を強くぶつけた。
s3-12 (47)
痛みがある。
悪夢ではないのか。
本当に女にされたのか。
なんてことだ。









一方ドアの向こうでは寝室の中に入れず、エリンとモナが耳をそばだてている。
寝室は全くの無音・・・・静寂。

「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」

チク
タク

チク
タク

廊下の壁時計が余計に静寂を際立たせる。

チク
タク

チク
タク

チク
タク

「ア、アレックスさん、・・・死んでたりとか、ない、・・・ですよね?」
「何を言うのよ。そんなことあるわけないでしょ」
s3-12 (73)
「エリンさん、入らないんですか?」
「入れるわけないでしょ、私に一番見られたくないんだから」

夫アレックスから寄せられる愛を存分に自覚しているエリン、そして執事モナは心から納得する。


チク
タク


チク
タク



チク
タク


チク
タク


チク
タク



チク
タク



瞬間。



















「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!」


爆発したのかと思うほどに、モナとエリンの耳の鼓膜が麻痺した。

アレックスは恥辱と無念と自尊心がゆえ人にはぶつけられぬ憤怒を大爆発させ、
自分のクッション(ここでエリンのものを決して使わないところが彼足る所以である)でベッドを殴り、殴り、殴り!殴りに殴る!!

「何で俺が、俺が俺が俺が俺が!!!!俺が!!!!!」
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それでも我慢できず、
さらに枕でベッドだけじゃなく床をも殴りに殴って殴って殴って叫び続けた。

「あの野郎!!だっれっがっ姉だ!誰が姉だ!誰が姉だ姉だ姉だ!」

あの野郎、ふざけやがって!誰が姉だ!
大体あいつが薬をかけずに水をかぶるなんてことしなければ、こんな目にあわずに済んだのに!

ベッド、床、ただし小物が置いてある場所だけは避けつつも、
アレックスは殴りに殴り、殴り、殴り・・・・続ける。



時間にすればそんなに長くはない。
ぜえぜえぜえと肩で息するようになってそれは収まり、クッションから零れた羽毛が部屋中に舞う。

「・・・・・・・・・・」

羽毛が、わずらわしい。
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数回それらを払うように片手を宙で振ったのち、
アレックスは定位置に収納してある寝室用の掃除機を出してブチギレの証拠隠滅を始めることにした。






すぐ外で盗み聞きしていたエリンとモナはといえば、四つんばいの状態で寝室から遠ざかった。
そのまま一階へ降り、やっと十分な距離をとれたところで、
執事モナは腰を抜かさんばかりにビビっている。

「ア、アアレックスさんが、ここここ壊れ、こわ、こわこわ、怖い、こわこわこわ、壊れ、こわ」
「大丈夫だから落ち着きなさい!!・・・あのひとにはやっぱりショック大きかったみたいねえ」

「大丈夫なんですかっ!?ホントに、アレ!すごい、声、あれ!」
「逆の立場だったら正直私なんかは面白いって思っちゃうけど、アレックスはねえ・・・
 元々男らしくないって見られるの大嫌いなひとだから。ホラ、顔立ちが優しい感じでしょ。
 それでナメられたり、若く見られたりしすぎるのとか大キライなのよ」
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若く見られたい女と逆よね、とエリンは軽く告げた。
それでも執事モナは実に(アレックスの頭を)心配そうな目をしているのでエリンは笑いとばす。

「今も証拠隠滅するために掃除してるくらいなんだからヘーキよ!カッコつける余裕があるじゃない!」
「・・・なるほど」

納得したモナのもとへ、また見知らぬ女性が姿を見せた。
なんとも目を引く、色香が匂い立つような濃い顔立ちの美女がバスローブという姿なのでモナはそれにもびっくり。
零れんばかりの━━━ エリンをも上回る(そもそもエリンもすごいのに)、その肢体にも圧倒される。

「おう。どうだ?あいつの方は。壊れたか?」
「あなたね。私でもあんなのは初めてよ。寝室にお篭りして大声出して、・・・・結構すごかったんだから!」
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ぶっ、とイアンは笑いを漏らして、くくくくと低く笑う。
しかしエリンはそんな彼(とやはり表記するしかない)を睨みつけ、

「よくもアレックスに薬ぶっかけてくれたわね。アンドリューは事故だけど、女性になったのはあなたのせいでもあるのよ」
「んなもん、どーせあいつも飲んでたんだから一緒だろ。こっちはあいつのせいで飲ませれたんだ。
 知らずに公衆の面前で海だのプールに入ってたら、大声程度じゃ済まなかっただろうよ
 カントリークラブのサウナじゃなかっただけありがたいと思え。あいつ水風呂好きだろ、ジジイだから」

「ホント口ばっかり回るんだから!それにしてもあなたは随分余裕があるみたいじゃない」
「・・・・いつかは俺も何かされるだろーとは思ってたんだんよ。んな覚悟くらい、とっくの昔にしてる」

でなきゃアイツと結婚なんざできるか、とイアンはわざとらしく顔をしかめて吐き捨てた。

「・・・・・・・・・あのー・・・  こちら、あのー・・・・・まさかとは思うんすけど・・・・」
「どうだ、モナ。突然現われた正体不明の美女に驚いただろ」
「うっわー・・・・マジっすかー・・・・・」
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その口振りと会話内容で、すぐに長い茶色の髪の女性がイアンであることが分かってしまった。

「イアン、ダイアナのほうは離れて大丈夫そうなの?」
「誰に訊いてんだ。平気に決まってんだろ。・・・あとな、エリンお前、服貸せ」

「ええ? 元々ある自分の服で過ごせばいいじゃない。メンズなんてでかいんだから」
「上はともかく、このケツがでかくて男モンじゃ歩けねえんだよ、ジャージも何もかも全部な!」

アレックスが去った直後、紳士服だと尻の回りが特に痛いほどにキツく、イアンは慌てて脱ぐ羽目になった。
他の服に着替えようとしたら、一番大きいジャージでも尻がバツバツで下半身に着れるものが何もなかったのだ。
そしてバスローブを羽織り、アレックスの様子を見てくることを言い訳にこちらへやった来た次第である。

「貸してもあげてもいいけど、どうせ一時的なんだしダイアナの服を借りなさいよ。・・・・━━━━・・・・あっ」
「・・・・・」
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ボンとしたエリンを上回る胸に、キュと締まったウェストはともかく、さらにボンと出ている臀部。
それはスラリとした体型のダイアナとは完全に対極で、
絶対に彼女の服は入らないだろうとエリンはやっと気付いた。

「やっとわかったか。戻るまでバスローブでウロウロしてるとダイアナが『自分のあるよ』とか言い出すだろ。
どうせすぐ戻んだ。俺もここでついでに借りた、ってことでいいだろ」

俺のほうが出るとこ出てるからお前の服は着れないなどと、妻ダイアナには絶対に言えない。

「・・・・・スカートか、ワンピースは?ダイアナのでも入るでしょ」
「んな女モン着れると思うか!!っざけんじゃねえぞ!」
「いまは女でしょ。大体私の服だって女性モノよ」
「ほーう、そういえばお前も女だったな。忘れてた」

なによっとエリンが怒り、いつものように軽口を言い合いながらも再びイアンも連れて主寝室へ。
いつもならしないがノックをキッチリして、少し遅れてきた「どうぞ」とアレックスの返答を待ったのち入室した。

「あらまあ」
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なんとアレックスはまるで子供のようにシーツにくるまっていた。
そこまで落ち込んだかと心配したエリンに、アレックスは暗い顔で理由を告げる。

「・・・・服がないんだ、エリン。どうも・・・自分の今までの服だと・・・」
「女のケツがデカくて男モン入んねえんだろ!!そのくだりはもう俺がやったんだよ!」

イアンがツッコんだところで事態をちゃんと飲み込めた執事モナが呟く。

「そんなに違うモンなんすか?イアンさんもアレックスさんも身体大きいのに」
「マジで全然入らねえぞ。ファスナーが上がんねえんだよ。なんでこんなにこう!出てるんだよ」

イアンは自身の見事な丸みのヒップを振り返り、腰骨を手のひらでパンと叩いてみせた。
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「女性は骨盤が違うとか言うものねえ」とエリン。

「アレックス。なっちまったもんはしょうがねえだろ。とりあえずエリンの服着ろよ。
 誰も『嫁の服着やがって、この変態野郎』とか言わねえから」
「・・・・・じゃあ言うな、イアン」

アレックスは暗い顔のまま、イアンを睨んだ。






クローゼットから両名分のパンツスタイルの服を提供したエリン。
”男性陣”2名から『ピッタリしたのはイヤだ』だの言われ、しまいこんだままのものを引っ張り出した。

するとイアン、少しだぶつくウェスト周りを伸ばしたかと思うと、そのまま無言を押し通す。
一拍置いて、そのイアンの行動の意味を理解したエリンはムカーッという気持ちのまま
子供のように彼の背中をどついた。

と、それぞれが首を傾げたり妙にソワソワと落ち着かない様子を見せている。
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イアンは屈伸を繰り返し、アレックスすらズボンを左右に揺らし・・・・
そういえば少し前からそんな様子を見せていることに思い当たり、執事モナが「大丈夫ですか?お2人とも」と声をかけた。

「あー・・・・・・・・・なんか・・・」
「・・・・・・・・・・・・」

イアンが珍しく所在無さげな声でアレックスに呼びかける。

「股がスースーする。・・・・よな?」
「・・・。ああ」

モナが不思議そうに頭の周りに?マークを沢山浮かべる。
あら、とすぐに合点がいったエリンは親切に捕捉説明してあげるにした。

「やあね!要するにチ×コがなくって心許ないってことよ、モナ」
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「へっ!?あっ!ああ~!なるほど・・・・ ってエリンさん・・・・」
「そんなにあるなしで変わるもの?アレックス」

ズバリでモナに教えてあげた後にエリンが目をキラキラさせて尋ねるがアレックス、苦笑して答えない。
それは妻よりも恥じらいがある女性同然で、実に皮肉な状況である。
なのでイアンがズバリ教えてやった。

「全然違うぞ。むしろ俺からすりゃ何だよコレ。ちょっと動くだけで揺れて気持ち悪ィ」

といってイアンが顎で示すのは自分の胸。
豊かなそれは水が入った風船のように少しの挙動で縦に横に斜めにと揺れに揺れる。

「ノーブラならそんなものよ。明日にでも買っちゃいなさいよ、イアン」
「んなもん誰がつけるか。バカが」
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「あのねえ。真面目な話、その大きさだと垂れちゃうわよ」
「どーせすぐ戻んだ。んなもん着ける位なら舌噛みきって死んでやる!」

断固たる決意のイアン。
そしてエリン、ふと考え込む。

「でも股の間に物があるなんて、すごく変な感じだけれど・・・・あなた達男の人には当たり前なんでしょう?」
「・・・。そうだね」
「ふーん・・・」

小学生の女の子のようなエリンにアレックスは相槌くらいしかうてない。
そこで”ひらめいた!”とばかりに、なんとエリンはクローゼットから靴下を取り出して適当に塊にしだした。
モノがあるのが分からないなら試してみよう!

「ちょっちょちょ待って!エリンさん、それはダメっすよ!!公爵家ご当主の奥方がなんてことするんですかっ!はしたない!!」
「だって気になるんだもの。バカね、イアンもいるのにここではしないわよ。ちゃんとトイレでやるから」
「だ━━━━!!そういうことじゃないです!公爵夫人がなんてことするんすか!ダメですって!」
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忠実なる執事モナが命を張ってエリンを止めにかかる。
離してよ、いやダメでしょとワチャワチャ揉み合いながら2人はバスルームへ。

「・・・。公爵夫人つか・・・・・・」
「ま、どこの国も王族だろうが聖人じゃないからな」

幼少から親に連れられて外遊する機会もあったアレックス、妻の行動を止める気力はないらしく
遠い目で呟いた。






ダイアナを待たせぬようにと、再びイアン宅。
この性別を変えてしまう薬の被害にあったことをなんとか飲み込んだ男2名、やっとその解毒について話を聞くこととなった。
が。珍しくダイアナは、どうやったら2人が戻れるのかという点についての説明をせず婉曲に話をしている。

「・・・リズちゃんから借りた漫画の影響で作ったのは分かったよ、ダイアナ」

相手は妊婦、そしてダイアナということもあり、アレックスは生来の根気のよさで最後まで聞いて肝心要のことを尋ねる。

「俺たちが元に戻る薬は?どこにあるのかな」
「・・・ないの・・・・」
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「・・・・・・・・・・・」
「今のは聞き間違いだよな、ダイアナ」

「水かぶって、お湯かぶって性別が変わるの・・・・面白そう!って思ったんだけど、あたしが作れてたのは途中の・・・
 水かぶってのところまでで・・・お湯かぶって元の性別に戻るっていうところまで完成してないの。
 それが完成してないから、その・・・解毒薬も・・・ない・・・」

イアンとアレックス、今度こそ本当に動揺して立ち上がった。
この場で一番冷静なのは「あらら、そういうことなの」とだけ呟くだけのエリンだったりする。
s3-12 (61)


「あと1週間で完成はできたんだよ!?でもお腹に赤ちゃんいるから危険物の取り扱い止めたほうがいいから
 開発凍結して、アンドリューに危険物廃棄に出してもらおうとしてた途中でね、その・・・さっきのことが」
「本当にすみません・・・・!手近なガラス瓶だったから使ってしまって・・・」

アンドリューは溶鉱炉に飛び込んでしまいたいと思うほど小さく小さくなって謝る。
もちろん事態が解決するまで『アイルビーバック』はしない覚悟である。

「じゃあ、お前が赤ん坊産むまで・・・いや、待てよ。産んでもお前が母乳とかあるよな、ダメだ。暫くはやるな」
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最悪の事態に最悪に動揺しながらも、まだ見ぬ我が子を慮るイアン。
ダイアナも申し訳ないながらも頷くしかない。

「でも、そうなると赤ちゃんが1歳とか過ぎるまで・・・作業再開できないことになっちゃうんだけど・・・」

つまりヘタするとダイアナが出産して母乳を止めるまで・・・2年近くこのまま?嘘だろう?
アレックスは再びあの寝室に戻って大声で叫びまくりたい衝動に駆られる。
今度こそ我を失って多分小物などもなぎ倒すだろうが、もういいだろう。
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しかしダイアナが笑顔で男2人を最高に勇気付ける言葉を放った。


「でも解決策はちゃんとあるよ!!ひとりだけ助けてもらえる人がいる!
 ちょうど今週から休暇だっていってたし、お願いしたらきっとその人なら薬作ってくれるよ!多分
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「今すぐ呼べ!!いくらでも払う!」   「いくらなら来て貰える?!」

ダイアナの小声の「多分」を聞き流し、アレックスとイアンの声が重なった。














そして、その救世主の電話が鳴る。

「おお、どうしたダイアナ。体調は落ち着いたのか?わたくしは今日から夢のサンリットタイズでバカンスだ。
 お前が薦めてくれたホテルのロイヤルスイートでな」
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長期バカンスのための荷物のもとで、彼女の忠実なるシムボットが電話中の彼女を見つめる。

「オーナー、お迎えが外に来ていますぅ。車の中でお話ししましょう~?」
「まだ靴が決まっていないのだ。車は少し待たせておいてくれ。━━━━ それで、ダイアナ。何を作ったって?」

暫く彼女は耳をすませてダイアナが作った発明品の説明を聞くと、ふふっと笑いを零し履いてるヒールを足の指だけで脱いだ。
琥珀色の肌にぴったりのサンダルを試す。実に美しいじゃないか。

「つくづくお前は面白いことをする娘だ」

すると電話口の向こうで賑やかな女性達が2名、騒ぎ立てている。どうも言い争っているようだ。
声からするとダイアナの友人というには少し年上のようで興味をそそられた。あの娘の知り合いは美人が多い。

「もう少しお前の発明の話を聞いていたいが、わたくしはこれから空港だ。続きは機内でゆっくりスカイプでも ━━━ なに?」
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愛する弟子の恐縮した声と、それによって起きてしまった事件と依頼内容。
それらすべて聞き終えると、まるで美しい悪役のような笑い声が響き渡った。

「はーっはっはっはっはっは!!面白い!!
 つまりはお前の周りで先ほどから騒いでいるのはサウス公爵とイアン・グレンツか!」

タラ教授の通話中に登場した五つ星セレブの名前に、シムボットは目を丸める。
一体どういう事態なんだろ?

「ダイアナよ、夫に代わりなさい。 ━━━━ やあ、しばらく。あなたと直接話すのはあなた方の式以来か。
 今回は災難だったようだな、イアン・グレンツよ。しかし言っておくが、わたくしの頭脳とバカンスはそう安くはない。
 安売りする気もないぞ。わたくし自身のバースデーデートも兼ねていたのだ」
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すると即電話の向こうで提示されたオファー額にタラ教授はニマーっと顔を緩めた。

「それはそれは。実に素晴らしい。いいだろう、このまま空港にゆく。次に公爵にも代わっていただく。
 ━━━━ お久しぶりです。このたびの事態、心よりお見舞い申し上げる。それで今グレンツ氏とは・・・ああ、お話が早い。
 光栄です、サウス卿。それではのちほどお会いしよう。あなたの素敵な奥方にお会いできるのも楽しみにしている」

”のちほど?” その話の展開に、シムボットちゃんはおろおろ。
だってあと3時間にはサンリットタイズに向かう飛行機に乗るはずだったのに。

「アルテイシアよ。これから我々はサンセットバレーへゆく。しかもプライベートジェットでだ!」
「ええ~っ!?だってオーナーってば、サンリットで誕生日のデートのお約束も入ったじゃないですかぁ!」

聴覚などはシムボットアンドリューと同じく人間並みにしているアルテイシアと呼ばれたシムボットは
通話内容も分かっていないので「だめですぅ、だめですぅ!」と真っ向からぷりぷり大反対。
彼女もまたシムボットでありながらダイアナの功績によって自律思考ができる。

「合わせて六千万ドルの仕事だぞ。わたくしは結婚にも興味はないし、あの男にそこまでの価値はない」
「ろくせんまんー!?すごいぃ~!!」
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すごい金額に目をまんまるくした。のち、「あっ、それでもぉ・・・」とタラ教授の助手であり秘書である彼女はぐじぐじ。

「だめでぅす・・・先にお約束してたのにぃ・・・・」
「サンセットバレーではわたくしのマーガレットも待っている。金も愛もそこにあるのだ。行かぬ理由がない」

タラ教授は弟子ダイアナの母マーガレットを想い、最高に上機嫌。
この名前が出てしまったら止められないとシムボット・アルテイシアはふーっと長いため息をついた。

「・・・お断りのお電話する私が辛くなっちゃいますぅ・・・」
「だからわたくしがするといつも言っているだろう。繋いだらこちらに転送するのだ」
「オーナーの振り方はひどすぎるからダメですぅ!男性っていうのはナイーブなんですぅ!!」
「そうは言うがな、アルテイシアよ。
 セックスの採点とその意見交換なぞこういうときにでもなけれはできないではないか。互いの後にも大いに役立つ」
「そっれっがっ!ダメなんですぅ!!
 お相手はェ、・・・エッチ、・・・の、せいでっ!振られたとしか思えないですぅ!」

頬を染めながらアイルテイシアはこの度旅行当日に振られることになった不幸な男性へ
電子脳内よりぴっぴっぴ、と電話をかけた。

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「しかし男と言うのは実に愉快なものだな、アルテイシア。
 ダイアナが子を産み育てる間くらい待てばよいものを、2本のペニスを取り戻すためにあんな値段をつけるとは。
 そもそも男は自分の存在価値をペニスに置きすぎなのだよ。まさに司令塔だな」

「本っ当、信じられないくらい下品ですぅ・・・んもー」

顔をしかめまくってアルテイシアの呟いた口癖は、間違いなくダイアナのそれである。





→第13話









第11話 彼女の答え Set a thief to catch a thiefⅧ

←第10話


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意外にも、そこはサンセットバレーの住宅地の一角。
ただしアレックスが拘ったのであろうイタリア風の、いかにもアンティークな住居があった。

「こういう場所とはね。移築させたの?」
「かわいいだろ?海岸沿いは空きがほぼ出ないからね」とアレックス。

1階の一番奥の空間がアレックスの作業スペースで、玄関ですぐ油絵の具のにおいが鼻に迫る。
つい最近まで描いていたと分かる新鮮さにエリンの口元が緩み、
迷いなくそちらへ向かってゆく。
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記憶がないエリンにも、こうして変わらず自分の絵を楽しみにされているというのは
アレックスの画家の部分を充たしてくれる。
イーゼルに置かれている真新しい彼の絵を見た瞬間、エリンはつい素で「あっ」と声が出た。

(戻ってる・・・・)

かつて自分がアレックスの実家に潜り込んでいたころアレックスの絵に才能に惹かれた。
しかし共に彼の実家を去り、自分の元で描かれたアレックスの絵はどれもエリンにとっては芳しくなく・・・
排他的で寒々しく隠れ家に飾る気もしなかった嫌いな作品ばかりだった。
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でもいまのアレックスは本来の温かみを取り戻し、自由に伸びやかになっている。
壁に雑然と重ねられているのは様々な技法を試した習作だろう。
彼が得意としている風景画だけじゃなく抽象画まであるがどれも楽しげで・・・、
アレックスの中にあった壁のようなものを乗り越えられたのだろうと理解ができた。

しかしエリンにはその壁というのが
アレックスが全てから逃避し、エリンへの想いゆえ彼女とも一線引かざるを得なかったことに由来していたということまでは
まだ思い及ぶことができない。

じっくり見入っていたエリンに、「どう?気に入らない?」と、
実際そうであっても恐れもしなそうなアレックスの軽い問いがかかる。
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「ううん、気に入った。でもコレまだ途中でしょ」と、エリン。
「うん。前に旅行にいった場所なんだけれど描いてみようかなと思ってね。
 ただ正直色々新しいこと試しすぎて崩れてきちゃってる気もしてもいるんだ」

「そんな感じ。楽しくて仕方がないみたいね。とくに雲のところはまだ迷ってる?」
「ははは、わかっちゃうよね。そうなんだ。何回か倉庫にしまっても取り出して描き直しちゃうんだよ」
「そう」
「・・・・━━ 俺の絵はもう嫌いじゃないのかな?」

エリンはびっくりした。
隠してるつもりだったが 『妻エリン』はそんな無神経な事実までアレックス本人に告げてたのかと心底呆れる。
しかしアレックスはそんな目の前のエリンの考えが分かって首を振りながら、
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「直接聞いたわけじゃないけれど昔から分かってはいたよ。昔・・・じゃないか。君にとっては、ごく最近かな。
 君は画廊で売るっていう体裁を保っててはいても一度も隠れ家に飾ってはくれなかったからね」

「私、嘘がヘタ?」
「好き嫌いに関しては今も昔も分かるよ。言葉がなくてもね」

そのアレックスの言葉に、暗に『いまの君は俺のこと好きだろう』という含意もあるのがわかり、
大人の男の顔をしている彼にエリンはどきりとさせられた。
その余裕のまま、ゆっくりとアレックスは尋ねる。

「でも俺はあの頃の絵の何が嫌だったのか、いまだにちゃんとした理由を聞けてないんだ。教えてくれるかい?」
「・・・。何枚も描いてもらったけど、どんな季節でも、どんな風景でも物悲しいくらい寂しくて。
 気分が沈む絵だから嫌いだった」
Screenshot-10.jpg
アレックスはエリンの回答に深く納得しつつ、
「”だった”、なら良かったよ。自分では何かを変えたつもりはないんだけどなあ」と笑い飛ばす。

エリンは昔を思い出す。

かつてアレックスを”お兄様”などと口先だけの敬称をつけて呼びつつ、
もっとあなたの絵を見たいのだと迫った日が懐かしい。
若かった自分が偶然見つけた、とっても綺麗な才能がこうして開花してるのだ。
見つけた己を誇らしく思う。
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目の前の未完成の作品は伸び伸びして楽しそうで、
アレックス本人と同じように押し付けがましくない温かさが溢れてる。
この才能の片鱗をあの日アレックスの実家で忍んでいたときに見つけ、この温かさにエリンは心底惹かれた。
あの高揚が甦る。

「ずっと見たかったのは、そう。こういうの」

そうエリンは呟くが直後、顔が強張った。
気付いてしまった。

「アレックス。私の元で描いてる・・・描いて”いた”絵が、あんな風になっていたのは私のせいね?」
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このまえの夜、かつてエリンが彼の実家に潜り込んでいた頃から彼は自分に惹かれてたと明かした。
そのあいだ、裏稼業で何度心配させ、彼の恋心を何度踏みつけた?
自分はどれだけ好き放題をし続けていただろう。
その長いあいだ、アレックスが押し殺していたものが彼の絵に影響しないはずがない。

「散々あなたに・・・・・自由だとか、好きなところに行っていいとか、絵を描けとか言ってたくせに、
 肝心のとこで足を引っ張ってたのは私だったってわけだ。ばっかみたいね私」
「そんなことはないよ、エリン。この話はよそう」

「信じられないほど大馬鹿。ほんと、私どれだけ」
「いいから。やめろ、エリン」
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滅多にでない強い口調でアレックスが止める。
エリンは言われたとおり自虐の言葉を飲み込むが、
自分が見つけた才能を助けたつもりになって調子づいていた幼すぎる自分を深く恥じ入る。

「そんなことどうでもいい。昔のことだ」
「あなたにとってそうでも私には違う」
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もう10年近くになるほど昔に終わったことなのに、エリンが今のこととして傷つくなどアレックスには辛い。
自分のことで苦しむことないのに。

自分は妹のダイアナのように時間を戻せない。
エリンが自己嫌悪に完全に埋もれてしまう前にアレックスは明るく笑いかける。

「誰にだってやり直したいってことはあるよ。
 でも間違えない人生なんて誰にもない。そうは思えない?」
「・・・・・あなた、そんなに切り替え早かった?」
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「それも人生の醍醐味だと思えるようになったんだよ。遠回りも人生。・・・・老けたのかな?」

エリンはやっと少しだけ笑い、「私達は遠回りしすぎてる気もするけど」と言う。

「じゃあ昔に戻ってみようか?エリン」
「・・・・ どういう意味?」


アレックスの実家でエリンがキャサリンなどと名乗っていたころ。
気弱な少女を演じているなかで垣間見えたエリンのその強さに興味を引かれ、
憧れ、惹かれた。
s3-11.jpg

エリンの隣にいるため『部下』などという居場所に自分を押し込めてからは
恋心は雄の征服欲と独占欲とで歪み、屈服させたいという思いまで孕んだ。
代わりの女でそれらを押さえ込むほどに、
それはそれは歪に醜く醜く・・・・。
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でも一番最初に抱えていたものはとても単純なものだ。
アレックスはあのころに立ち戻って剥き出しのきもちをそのまま取り出す。

「俺は君が好きだ」
「・・・・」
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それはあまりの飾らない、
三十路もとうに過ぎた男には幼稚な口説き文句だが、当時ならばこれが一番ふさわしい。
妻である彼女と日々を送り、愛していると思うだびに言い続けてはきたが、
もともとあの青い日に芽生えてたものはこれだ。

「ずっと伝えたかった。エリンでもキャサリンでも、名前なんか何でもいい。俺は君が好きだよ。
 俺の家で、君がスピーチをしてみせたあの夜から俺はずっと君が好きだった」
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対して、エリンまでつられて当時に振り戻された心地にされる。
お嬢様ぶるために化粧もろくにしないでいた、少女と大人の女のちょうど境目のころを思い出し、
エリンが赤く染め上がった。

「エリン。あの家もこの街も出て、君がしたいことは何でもしよう。
 でももう盗みはするのはだめだ。ついさっき俺のことでなってたみたいに君がひどく傷つくのを見たから二度とさせない。
 他の楽しいと思えることを見つけよう。一緒に」
「あっ、えと・・・・・・」
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エリン、顔を染めてまだ言葉が出ない。
このような中高生のような告白の問答、このエリンはされたことがない。

「そうね、あの」
「ん?」

若干もじもじとした様子を見せるエリン。
彼女の中のこういう少女のままの部分があることをアレックスは元々知っている。
ああ、なんて可愛らしいと思いつつも、「そちらは好きだって言わないんですか?オーナー」と助け船半分で大いにからかう。

「本ッッ当、憎たらしい男ね!!どれだけ猫被ってたってのよ、アレックス!なーにが『オーナー』よっ!!」
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人差し指でアレックスの胸板を弾きながら強気に言い返す。
『妻エリン』とは違う、このエリンの姿も記憶がない昔の彼女だからこそ見れるんだろう。
恥じらいを仮初の怒りで隠したエリンの姿に、またアレックスは笑う。

「こういうのは男から言うものだから。でもそっちが言わないなら」
「・・・・なら、なによ・・・」

エリンが子供っぽく弱弱しく呟き、
アレックスは自分を弾いてきた攻撃的な腕を剥がしにかかる。

「言わなくていい」
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優しく重ねるだけのキスから始まり━━━━
きっと彼の人柄そのままのように慈しむようなものだろうと考えていたこのエリン、
再度どれだけ自分がアレックスという男を知らなかったのか思い知らされることになる。

剥がされたエリンの腕はそのまま部屋の柱に強く押し付けられ、
足の間にはアレックスの足が入り、二度ともう逃がさないと張り付けるかのような体勢で
穏和とは程遠いキスで襲われる。
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恐ろしいほどに感じる箇所を知り尽くされてるキスが本当に自分達が夫婦だった事実を一番思い知らせる。
どれほど自分の身体を知られつくしてるんだろうか?
上顎のとある場所、エリンが一番良い箇所を舐め上げられながら息に嬌声が小さく混ざり
柱に寄りかかってずるずる下がってく。

すると一度その最高のキスが取り上げられてしまった。
なんでなのかとエリンが惚けつつ目を薄っすら開けると、アレックスが「腰あげて」と指示をしてきて
何も考えずに従うと彼が自分のカーディガンをエリンの下に敷く。

「汚れちゃうからね」
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ほわりと優しい声で言われてエリンも微笑む。
そしてキスが再開すると、また柔らかさの下のアレックスの男の本性が露になる。
破かれたのかと思うような勢いでエリンの服のサイドファスナーが一番下まで一気に下げられ、
エリンは一瞬身体を強張らせるくらい驚いた。

内心アレックスはエリンのこの服の構造に苛ついてる。
黒のオールインワン。流行の型らしいが腰元まで下げると立っていればストンと足元まで簡単に脱げてしまう。
あのさっきのバーでエリンが言い寄られていた事実とこの服のことを合わせて考えるだけで
脳がチリチリと焦げそうになる。
唇を重ねながらエリンの服をずるり引っ張るように脱がした。

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一息ついて、その邪魔な服を後方へ放ると
それはテーブルを揺らして絵筆立てを派手に床に落としたがアレックスは無視する。

あ、とエリンの方が一瞬気をそらされたのに持ち主の方が無関心だ。
視線をアレックスに戻すと目の前で開襟したシャツの隙間から見える胸板に、
このエリンは彼が着やせするタイプであることを初めて知る。

「言っておくけど散々我慢させられたから好きにさせてもらう」
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少し苛つきながらアレックスが低く呟くので背中がぞくぞくする。
いつもするときアレックスはこういう口調なのか、
それとも記憶のない自分は妻ではないからなのか・・・我慢させすぎて怒りに近いほど飢えてるからか。

次々見せられるアレックスの雄の顔に興奮させられてる。
脇の下に手を入れられて膝立ちにさせられ、エリンは柱にまた押し付けられた。

無防備な下着姿にさせられて、エリンは自分自身をアレックスに知り尽くされてることがますます分かった。
胸を弄られるのは飽き飽きしてる、というのがエリンの本音。
胸が大きいと自分の欲の赴くまま胸を弄る男ばかりだった。
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ありきたりにキスから始まり、すぐに目立つ胸を散々弄って下腹部へ・・・ではなく
アレックスは臍から腹部を上って胸の横のエリンの弱い所をくまな触れてゆくので
全身を軽く震わせながら簡単に声が出た。

胸そのものを無視するわけではないが、
それよりもアレックスは深い胸の谷間の心臓のうえに少し長めのキスを落として通り過ぎる。
欲望一辺倒のようで、合間合間に心を包まれる。

そのまま顔に近づいてきたアレックスから鎖骨そして首筋と唇で愛でられ続けて
温かい愛情にエリンはとっぷりと浸りきる。
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のも束の間。
油断しきってたところに、なんと二の腕にがぶりと容赦ない歯を立てた痛みをもらいエリンは「いったぁいっ」と叫んだ。
前戯でするレベルの痛みなんぞでなく、
見事に歯形もついててムードもふっとんでエリンは怒る。

「ちょっとっっ!今のは痛いっ!」

そのまま上目にアレックスは無表情にエリンをねめつけ、歯型のうえにキスするが目は反省していない。
次からは流石に加減されたが、暫くエリンの悦ぶ悦ばないを無視して二の腕から肩口へアレックスが噛みあがる。
エリンは少々おそるおそる「・・・・アレックス・・・・まさか、あなた怒ってる?」と尋ねた。

「怒ってないわけないだろ。なんであんな場所に行った?」
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なるほど。男漁りにいったと思われてるわけだ。
彼としては、ああいう場所に出掛けたことは昔を連想させて許しがたいようで
最後のお仕置きにがぶり、痛みはごく軽いが噛み付いたままアレックスは彼女の答えを待つ。

「なんでだろ。わたし、居場所がなくて、・・・知らない人のほうが楽かなって・・・」
「他の男のほうが?」
「他の男?・・・・気持ち悪い」

そのエリンの言い方は心底嫌悪感に満ちていて、アレックスはやっと噛み付いていた口を離した。
妬いて怒ってるというより彼は本当は悲しんでると分かる。

「わたしのこと変えた責任は取ってくれるんでしょうね?」
「エリン」
「・・・・・最初からあなたのとこ行けばよかったね」
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「本当だよ。辛いなら、すぐにどこにでも連れていったのに、どうして最初に俺のところに来ないんだ」

アレックスが辛そうに言うので、「ごめん」とエリンは自然と言ってしまう。
そうして真夏の夜の室内で玉の汗をかきながら営為はすすみ、
とっくに理性など投げ捨てた頃合にアレックスが熱い声で告げる。

「言っておくけど俺は持ってないよ」
「そりゃそうでしょ、夫婦だったんだから。どうせ子作りしてたでしょ」
「こづ・・・まあ、去年から自然に任せてるよ」

その直接的表現に、アレックスはちょっとだけ我を取り戻して苦笑い。
しかしエリンは臆することもなく、むしろ煽る形で腹でアレックスを擦り上げながら艶美に微笑む。

s3-11 (62)
「焦らされるのはキライ」とエリンは宣言すると少し腰を引いて足を開き、
手など添えもせずに動きと足を絡ませてアレックスを自分の中へ押し込んだ。

「・・っ、エリン」

支配的で嗜虐的で、献身的で、なんて淫猥な行為だろう。
エリン、これだけは言ってやりたい。

「そもそも挿れる直前になって言い出すとか、あなた相当ズルイくない?」
s3-11 (66)-0
アレックスの腹の奥の狡さも全て内包し、余裕で微笑む。

そのまま彼に見下ろされる態勢のまま、
彼を見下すような顔つきでエリンがさらに腰を奥へと進ませていけば
アレックスが眉を寄せて息を吐きながら睨むような顔で快感に夢中になっている。

どれだけ我慢してたかの想いのたけを吐き出すかのようなキスをされたあとに、
動物的な快感のまま動いて幾度となく態勢を変えるが、
互いで場所を探ることも必要なく全てが好い。
s3-11 (40)
気持ちいいだけじゃない、
アレックスの絵の中にもある温かさのなかに浸るかのように愛おしまれる。

満たされて夢中で汗だくになりながら再び態勢が変わり、
挿入とは別の・・・・腰が抜けそうになる感覚が後ろに突然走り始めて
嬌声混じりにエリンはまた叫ぶ。

「ひゃ、あ、・・・・っ?!ちょっと?!!ちょっと!?待って待って待って待って待って!」
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「なに」

性欲一色のアレックスの声は硬い、相当に余裕のない声色。
だがエリンにとっても事態が事態なので臆しない。

「そんなところやめて!」
「でも好きだろ?」
「っ、うそ!?そんなの私、・・・・絶対絶対うそっ!うそよ!!」
「そんな嘘つかないよ。別に普段も挿れなんかはしないけど」
「・・・うそぉ・・・・」
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唇に強い赤を宿してる昔のエリンがこんなにも動揺してる姿は、現在の体位も手伝って
アレックスの男の支配欲の暗い部分を最高にくすぐる。昔の自分が見たいと願っていた、この姿。もっと見たい。
止める気はさらさらない。

そのままアレックスが弄る指先を止めずにいると、
へなへなとエリンの腕の力が抜けて床にへばりついて腰を上げてるだけの姿になった。

「いっ・・・ぃ、やあ・・・・・絶対うそ!!ひゃ・・や・・・私が覚えてないからって、したいことしてるでしょ!」
「まさか。俺のほうがよく知ってるだけだよ」

そのまま彼はエリンの理性の拒絶は完全に無視し、いつものように優しく微笑みながら事実だけ伝えた。

「ほら、腰が動いてる」
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あの昼間の優しいアレックスの姿が偽物だとは思わないが、
この宵の彼との差異はどうしたことか。
エリンにイニシアティブがあったのも挿れるときくらいだが、それだって彼に手のひらで転がされたようなものな気がする。

支配されて、縛られて、逃れられない。
一番自分がされたくないことのはずが、それが堪らなくいい。
もはやエリン、言語能力がゼロの状態にまで叩き落されて嬌声しか出なくなった。









「アレックス・・・・いま何時?」
「さあ?」

すごかった。
夫婦だから?アレックスがすごい?もはやどっちでもいいし、両方かもしれないがすごかった。
汗をかきすぎて肌のべたつきすら流れサラリとするほどで、
先程のクラブで入場で押された手の甲のスタンプも消えてしまってる。
終わったあとのアレックスはまた柔和で優しく、乱れた髪を整えてやりながら彼女を抱き寄せている。

「それでエリン、どこに行きたい?すぐに手配するよ」
「・・・・行ったところないとこ・・・アジアでも中国ら辺はまだ・・・」
s3-11 (87)
「じゃあまずはそこだね」

アレックス達の新婚旅行先は中国だったが、それもこのエリンにはなかったことになってしまっている。
しかし寂しさはない。
もう一度最愛の人間と恋をやり直せることにアレックスは幸せを感じている。

それはこの街にいる家族━━ダイアナやイアン、アンドリュー、
そして友人も含めて沢山の人間を切り捨てることになるが、それでいい。
思い出したら戻ればいいし、
思い出せなくても自分だけは唯一無二の家族としてエリンを決して追い詰めない。縛らない。
でもエリンをひとりにはしない。

「・・・アレックス。ちょっと。離して」
「どうして?久しぶりにこうできてるのに」
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それでも無理やり離れようとするエリンに、
鈍いアレックスは不思議に思いながら離す気などなく改めて抱き寄せる。
すると観念したエリンが「トイレっ」と叫んだ。

「おや。それは失礼」
「最ッッ低の公爵ねっ!爵位返上して大正解よ、この変ッ態!」

開放されたエリンの強い捨てセリフに、
あっははははとアレックスは大笑い。

s3-11 (92)
素足でぺたりと歩いてゆくエリンがふらり一瞬揺れた気がして、
危なっかしいなあとアレックスが思い及んだ瞬間。

「あっ!?」

ずるっ!
アレックスの目の前で、間抜けなポーズでエリンが宙を回転してゆく・・・・
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ごん!!
エリンが床にすっ転んで後頭部を打った音にアレックスはあんぐり口を開けて、次の瞬間彼女の名前を叫んだ。







で。






エリンが欠片だけ憶えていた、8月28日。
その日もサンセットバレーは快晴。
予定通り・・・・無事、記憶を取り戻したエリンと、
アレックス、そしてイアンも共に来年プレオープン予定のエリンが館長となっている美術館に集う。
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残念ながらダイアナ、そしてアンドリューはダイアナのつわりが早々に始まってしまったため欠席だが・・・
その日は正式な復帰第一作をとうとう描き終えたアレックスの作品が納品された日で
記憶を失っていても、その日付を忘れられないほどエリンが熱望していた日だった。

「ダイアナも今日は来たがってたけどな。悪いな、アレックス」と、イアン。
「俺はいつでもいいよ。あとで顔だけ見に行くよ。つわりっていうのは随分辛いんだろ?」

「薬も飲んでるし、横になってりゃ吐くのは平気らしいが、頭が車酔いみたいなのがずっとあるんだと」
「えっ?吐くだけじゃないのか?」
「俺も知らなかったよ」

そして話題は記憶を取り戻したエリンの件に。
s3-11 (71)
「この日に間に合わなくても良かったんだけどな、あいつド根性みせたか」と、
イアンは記憶を取り戻したエリンのことを笑う。
言われたアレックスものんびりとした笑みを浮かべながら、

「とにかく傷が開かなくてよかったよ。もう一度頭を打って戻る、っていうのはあまりないらしいんだが・・・
 運がいいんだか悪いんだか」
「お前のアトリエで、床に転がってた筆にすっ転んだってつってたよな?珍しく片付いてなかったんだな。
 職場散らかすタイプでもねえだろ、お前」

ぎくり。
そこに気付くとはイアン、やはり鋭い。

「まさか『昔のあいつ』とここぞとばかりにヤりまくって、筆立てひっくり返してたとかじゃねえだろうな」
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「あっはっはっは、まさか!!そんなわけないだろ!」

アレックスは話題が話題だけに涼やかに嘘をついて笑い飛ばしてまでみせた。
完璧な嘘のはずが、イアンは「うそだろ、図星かよ」と笑いながら呟く。

「!? なんで分かった!?」
「引っかかったな。マジで図星かよ!!信じらんねー、お前!!スカしてるくせに本当そういうの抜け目ねーよな!!!」

ぶっはっはっはっはっはとイアンに崩れ落ちる勢いで大笑いされて、
アレックスは首を振りながら「イアン、もう少し話題を選べ」と悔し紛れに言うしかなかった。

するとタイミングよく帰ってきたこの美術館の館長エリンが現れてくれた。

「じゃあ、始めましょう」
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館内はプレオープンを控えて、まだ作品を運び込んでいる期間であり閑散としている。
100%出資者のイアンの来訪にもかかわらず、あえてエリンは他全員のスタッフを入れていない。
館長エリンの厳命により特別に館内には3人だけ。

「お前が俺でも来たいと思える美術館の答え、見せてもらおうか。
 正直外観も内装も悪くないが驚くってレベルじゃないな。奇抜なもんでも建てるかと思ったけど保守的な感じだよな」

イアンは誤魔化しのない現段階の感想を伝える。

「取り扱うジャンルが多岐に渡るなら、少しそういうイメージも残したほうがいいから。
 でも屋外と2階は空間美術━━━インスタレーションアートを飾るのよ。
 例えば部屋いっぱいの風船とかで表現したり・・・説明よりも実際行ってもらえばわかるわ。
 ここみたいに置いてある作品を見る、じゃなくて、その作品自体の中を鑑賞者が歩いて楽しめるの」
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「ちょっと昔にどっかで10万個の白い風船で雲みたいなの作ってたのは読んだな。アレか」
「ロンドンのコヴェントガーデンなら、そう。まさにあれがインスタレーションアート。
 特に小さい子供がいるような層は美術館から縁遠くなりがちなんだけれど、屋外エリアは子供の来館も問題ない構成にして
 ちょっとした公園みたいに開放するの。屋外だけの入園ていう料金も低めで設定してあるわ」

金払ってでも管理徹底されてる公園で遊ばせたい層やら、
小さい子供に芸術教育させたい層に目をつけたかとイアンは頷く。特に質問はない。
が。

「良いけど珍しくもないな。田舎の屋外美術館じゃ、インスタなんとかじゃなくても同じコンセプトはあるだろ」
「そうね。でも都会だからこそ有料でも良い公園って重宝がられるのよ。ただ美術館としての売りは1階に展示するわ」
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イアンの厳しい評価もエリンは予想通りとでもいうように笑顔で同調する。
そして連れて来られたのは一番良い場所のはずなのに置かれている変哲もない、フツーの3つの現代アートっぽい作品。

「まずはこの3つを見てみて、どう?」
「現代アート、だろ?絵と、彫刻な。で?なんだよ?」

はっきりとガッカリ声でイアンは眉根を寄せる。
このイアンは有名な絵画にも食指が動かないのだ。
古い歴史があるわけでもない、明らかな新しいものには一層興味がわかない。

「見覚えはないかしら?」
「はあ?俺が?・・・?・・・」
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美術館に縁遠いイアンの目を一番引くのはやはり真ん中にある絵。
昔のエリンを髣髴とさせなくはないが、まさかそんな理由で美術館に展示しないだろう。

「まさか『あたしにそっくりな絵をあたしが説明するのが売りなのよ』とかじゃねーだろーな。んなもん認めねーぞ」

イアンが意地悪く言うと、
エリンの仕事中だからと少し距離を置いていたアレックスが「イアン、おしい」などと言いながら笑いを噴出した。

「あ?惜しいってなんだよ」
「よく見てみると分かる。たぶん。知ってるよ」
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「アレックス!しーっ!黙ってて!」
「はいはい、ごめんね」

アレックスにヒントを貰ってイアンも気付く。
真ん中に飾られている昔のエリンぽい絵じゃなく、左に飾ってある絵は言われてみれば確かに見覚えがある気が・・・。
しかし美術館なぞに縁遠い自分が一体どこでこれを見たのか━━━━
気付いた瞬間イアンはぎょっとして目を剥いた。
そしてエリンが「気付いた!?気付いたわね!?」と同時にいたずらっ子のように笑う。

「お前、これお前が昔盗んだやつじゃねえか!!」
「ピンポーン!大当たり!!ここにある3つともそうよ!!それがここの目玉!」
「はあ!?なッ・・・・ばッ・・・・・」
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何馬鹿なことしてんだお前と言いたいが、驚かされすぎてイアン珍しく言葉にならない。
後ろでアレックスがあっはっはっはと何と笑っている。
そしてエリンが何を売りにするつもりなのかも気付いてしまった。

「お前、盗まれたことのあるモンをここの展示の売りにするつもりか!!」
「そう!私がやったやつ以外でもね。誰だってちょっと一度は見てみたいでしょう?
 昔ニュースでやってたような盗まれたものがあったら、その理由だって絶対知りたいはずよ」

それは感性を磨こう、作者に時代に触れようといった通常の美術鑑賞とは真逆で、
人間のいやらしい野次馬根性に訴える。
かつての盗品を売りに、だと不謹慎が過ぎるが、確かに今までにない層への集客効果は期待できる。

「・・・っ・・・」
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「といっても一時的な騒ぎで終わるかもしれないけれどね。
 ただ、そもそも私は『あなたが来たいと思える美術館にしろ』とは言われたけれど流行らせろとは言われてないもの。
 ハッキリ言って美術館は儲からないわよ」
「そこを突くか。確かにココで稼ぐつもりなんざ最初からねえよ。けどな」

イアンが難しそうな顔で夫妻を睨む。
先程笑ってたアレックスは早々にそれから逃げるようにわざとらしく笑顔をしまい、一方でエリンは余裕たっぷりに

「でも正直なところ、実は私がなんでこれを盗んだのかって本当に聞いてみたくはない?
 特別にあなたには”館長が自ら”解説してあげるのに」
「・・・・・・・」
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確かに正しくあろうとしてはいるイアンではあるが
エリン達が盗みを働いてたと知る前に、『なんでこんなもんが盗まれるんだ?』という意でなら美術に興味を惹かれたことはある。
不謹慎だが腹の底では・・・聞いてみたい。

「・・・いっとくけど認めたわけじゃねえぞ。悪いことは悪い、それは変わらねえんだからな」
「わかってる。でもこれでこのコたちも陽の目を見ることになるの。私たちなりの贖罪だっていうのも分かってもらえない?」
「・・・・。続けろよ」
「大体美術品の窃盗ってのはハッキリ言っちゃえば裏社会で『通貨』として使われるのが殆どで━━━━」

そのままエリンは美術品を愛すべき者として『盗品市場』を憂いつつ熱く語った。
経済的価値と、美術史においての価値はどうなのか。
正直美術がやっぱりわからないイアンは同調はできなかったものの、知的好奇心はしっかり満たされた。
・・・悔しいが楽しいと思わされたレベルで。

「・・・・ほかの、お前が盗んだ奴にも同じよーに理由があんのか?」
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「もちろん。それぞれ全然違うのがあるの。次に展示品の入れ替えがあったら来てくれる?」
「・・・。ああ」

流石に諸手を挙げて「いいとも!」というポーズはとれないイアンだが
その返答だけで、当初彼がエリンに課した『俺が見たいと思う美術館にしろ』という注文は見事クリアされたこととなる。
瞬間、エリンはそれはそれは嬉しそうに小さく自分自身に可愛らしく拍手した。

そして今日のもうひとつのメインイベント(だからダイアナも来たがった)へ。
美術館エントランスの真正面、サンセットバレーの風景画が掲げられている。

「アレックス、こいつのタイトルは?」
「決めてない。とりあえず13番って呼んでる」
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そうあっさりと答えたのは画家として、この正式な復帰第一作をとうとう描き終えたアレックス。
「タイトルがない?思い入れもねーのか」とイアンはニヤリ笑いながら、からかう。

「別にタイトルはなあ・・・・色々な漠然としたイメージはあるけれど、それを一言で表すのは苦手なんだ。
 そちらの”館長様”から依頼があったのはサンセットバレーを、ということでしたので」

凝りに凝って考えるタチかと思いきや、アレックスの回答はそんな茶化しを入れるほど軽い。
館長様と呼ばれたエリンはご機嫌でにこにこしている。

「描いてるの東側だな。”サンセット”バレーなのになんで西側じゃないんだよ?」とイアンは問う。
「・・・・海から見ているかたちにしたくてね」
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「?なんでだよ」

そこへエリンが会話に入りたがり、「イアン、あなたが一番見てる景色でしょう?」と笑顔で告げた。

「・・・これ、俺に合わせて描いたのか?アレックス」
「君の美術館だからな。一番見てる景色は海の中から観てる光景だろうからね」

「・・・マジか。・・・・。・・・・・・お前が?」
「お前が、は余計だ。イアン」
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これにはイアン、素直に感動してしまう。あのアレックスがエリンに頼まれたとはいえ自分のために復帰第一作を描くとは。
大昔の、あの自分達の初対面を思い出せば余計に。

「でもなんで俺に合わせた?俺の美術館だからって、・・・・商業的な理由で描くタイプじゃあないだろ?お前」
「しない。イアン、俺は芸術に興味がないってひとはね、まず観てみるっていうことすらしてないことが多い気がしてるんだ。
 だからまずは君が見慣れてるものなら観る気にはなるかと・・・・きっかけになればいいと思ってね」

アレックスは続ける。

「そもそも芸術は高尚で難しいものなんかじゃないんだよ。昔から貨幣代わりだったし、神話モチーフにしたポルノでもあった。
 流行りのただの装飾や、写真代わり、信仰のためだったり・・・ずっと生々しい、人間の続いてきた生活に密着してるものだ。
 だから俺は鑑賞するという点では昔のひとの、そういうものを見るのが好きでね。
 500年後の人達が今のトランスを聴いてるようなもの、って言えばいいかな。
 絵の楽しみ方なんて決まってないんだから間違い探し程度に思って観てもらえばいいよ」
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「・・・・・・・・・お前が今、トランスっつったか?」
「・・・。そこに引っかからなくていい、イアン。トランスくらい知ってる」
「冗談だよ。・・・間違い探し、ときたか」
「やってみるといいよ」

元々好きなものには饒舌になるアレックスだが、『お美術』にそういった割り切りがある奴だとは知らなかったイアンは目を丸める。
クラシックだの、絵画だの・・・もっとお高く好いているのだと思っていた。
するとエリンはわざとらしいコミカルな苦々しい顔をしながら、

「そうそう、難しく考える必要なんてないのよ!アレックスなんか裸婦画が好きなんだから」
「人間が理性で作ったものが本能に訴える部分があるのが面白いって言っただけだよ。エリン」
「だから要するに昔のエロがスキってことじゃない。でしょ?」
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エリンが言ったところで、すかさずアレックスがエリンの脇腹をくすぐるかのように手を伸ばし明るい声が響く。

記念すべき作品を贈られたとあってはイアンは確かにまじまじと観る気になる。
間違い探しか。
そしてアレックスの思惑の通り、イアンは子供時代からサーフィンをしながら見てきた
サンセットバレーの光景を思い出しながら彼に尋ねた。

「こりゃ、朝。だよな?」 「決めてないよ。どっちにも見えるようにしてるから」
「ほー・・・・この空の感じは秋に近い冬か?」 「決めてないよ、雪はないけれどね」

しばらくイアンは無言で絵を隅から隅まで見てゆく。

「うそつけ、木に葉があ・・・あー、このあたりは夏の花入れてんだな。つか建物が、ないな。少ないだろ。
 昔の写真から描いたのか?」
「いいや。山の麓にある比較的新しいものは邪魔でね。取ったよ。色が派手なチェーン店とかも好きじゃないから描いてない」
「・・・・。風景画だろ?好き勝手に削るとかアリなのか?」
s3-11 (108)
「そんなルールないだろ?」

盲点を突かれてイアンは押し黙る。
絵から少し距離をとり、イアンは自分の頭の中にある稜線を思い出しながら、またアレックスに尋ねる。

「・・・この山、小さくないか?」 「そのあたりはここのラインまで収めたかったから小さめにしてる」

指導されてなくともイアンは自然と近づいたり遠ざかったりと絵の鑑賞を続け・・・・
そのままなんと『芸術と絵画』をテーマに1時間以上も会話を続けることとなった。
「たしかに朝か夕方か微妙な感じだけど朝だな」と鑑賞者イアンが断言し、
「だから面白いんだ。受け取り方が皆本当に違う」と作者アレックスが笑う。

「・・・・エリン。どう見える?」
「そうねえ・・・・」

芸術は日常の延長だ。男達が明るく笑う中、エリンはじっとアレックスの絵を眺める。
s3-11 (107)
何かが始まりそうな朝の光、何かを終えて一息つく夜の始まりのようでもある。
その曖昧さがとても好き。
どちらでもいいよと包み込んでくれる彼と同じ。

家の温かさ、家族の温かさ。
全てが始まった街。
この街を捨てるなんていう選択をしなくて、本当によかった。

「これは・・・私のふるさとの絵ね」





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我が愛しのサンセットバレー。







→第12話






第10話 別人 Set a thief to catch a thiefⅦ

←第9話



ふとエリンは献身的な執事モナにむかって言う。

「それにしてもモナ、あなた随分よく色々してくれてるのね。感心するわ」
「そりゃあもっちろん!なんたって人生丸ごとエリンさんに助けられたようなもんですから。
 結構貧血がひどかったんですけど、おかげでちゃんとした食事ももらって治療もできてるし。あたし何でもしますからね!」
s3-10 (1)
「・・・。ありがとう」

それはモナの純粋な本心なのだろう。
だからこそエリンにはイラッとしたものが湧く。
執事モナはあくまで『記憶があるエリン』には大恩があるだけで、そのお返しに『このエリン』に尽くしている。

でもエリンの自覚としてはハッキリいって『記憶がある自分』なぞ他人同然(なんといっても覚えてないのだから)
その『他人』の恩恵でこういうことをされてるだけってこと。
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このモナの目には、”この自分”が映っているわけじゃないのだと思い至るとエリンの心は冷え冷えとしたものになった。







記憶をなくしたエリンとアレックス、そして執事のモナも含めて何とか平和にやり過ごせている中、
フラストレーションを溜めに溜めてる人物がここにひとり━━━━

「~~~~。・・・・エリン、元気そう~~~~~」
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記憶の無いエリンがケガして以降まだ1回も顔をあわせてもないダイアナである。
庭でくつろいでるエリンをこそっり見守るダイアナの顔は不機嫌そのもの。
見舞いも遠慮しているが当然とっても心配している。

アレックスはエリンの回復を優先させて記憶を取り戻すことを二の次にしていたが、当のエリンはすごく元気そうだ。
っていうか、庭で酒まで飲んでる!
しかも執事モナとあんなに仲よさそうに話している!!
記憶なくしていたエリンにとっちゃ”初対面”だった執事モナとああなれたのなら、
自分だって同じようになれたはずなのに。
s3-10 (3)
そもそも。
そもそも一番最初にサンセットバレーでエリンと仲良くなったのは自分だったし
歳の離れた友人として━━━ いまは義理の姉妹として同性であることも手伝って、実兄のアレックスよりも仲良しだったのに。

執事モナに対して嫌う気持ちにはならないが、実は隠れて兄譲りの面なのか━━━━ ダイアナの焼きもちは増すばかり。
長くエリンに会えてないダイアナとしては、ジリジリジリと不満が溜まっているのである。

「『かーちゃん、あんまりそんな顔ばっかしてるとブスになっちゃうぜ!』」
「・・・・うるっさい!」
s3-10 (4)
「うお、こえー。なー、かーちゃん怖いな~~?」
「『かーちゃん、こわーい』」

子犬ディランを拾ってから超絶デレンデレンの犬好きイアンは
時折こうして勝手に犬にセリフを当てる遊びをしてくる。
当の子犬ディランも理解しているのかは分からないが、必ず笑顔なのがまた憎たらしい。

「イアンは平気なの?隣なのに、家族なのに全然会えてもないんだよっ」
「スタンガン食らいたくねーもん」
s3-10 (5)
イアンは茶化したものの、実際にあのエリンを目の当たりにした者としては急な関わりをもつのは止めた方が良いと
彼なりの結論が出してしまってる。
さらに個人的に少々専門家だのに当たっても、長期戦になる可能性が高いという見解を受けたからなおさら。

対して”頭脳は明晰”なダイアナも理解はしているが、あの『昔のエリン』を目の当たりにしてない。
しかも記憶してるエリンは子供のダイアナには最初から優しかったものだから・・・・感情がそろそろ押さえがきかない。

「お医者さんも落ち着いたら少しずつ昔の話をしたり、物を見せたりしたほうがいいって言ってたのに。
 アレックスもアルバム見せたって言ってたけど ぶつぶつぶつ
s3-10 (6)
「んなもん、医者によって見解はまちまちだろ」
「そうだけどっ。・・・・お母さんもマークも皆そう言ってさ。
 あたしだけワガママみたいに言うけど、何が正しい治療法なのかだって分からないのにっ」

ダイアナの実母マーガレットもマークも、現在のエリンの事態を知って勿論大いに心配はしているが、
やはり年の功というのか長期戦の構えらしく・・・・それはますますダイアナの苛立ちを煽っている。

「俺らが焦ったって治るものでもねえだろ?なら考えるだけ無駄だよ、パンプキン。一緒にそのへんでも歩くか?」
s3-10 (8)
「~~~~行かないっ。理屈が聞きたいわけじゃないのっ。イアンの意地悪!」

正論なんかとっくに分かってるとイライライラを隠しもせず、
ダイアナはぷんぷんと家の中へ。
イアンは子犬ディランと見つめ合う。

「あいつ、随分イライラしてんなー?」
子犬ディランも同意、とばかりに「ンフッ」と鼻息を強めに吐いた。
s3-10 (7)
イアンは「さて、どうするよ?相棒。お前の力が試されるときだな」と言って、
ちいさな彼にとりなしを任せることにした。





しまい込んでたアルバムを引っ張り出して、懐かしい昔々を振り返る。
s3-10 (11)
出会った当時はエリンの過去を何も知らなかったから、
歳が離れてる割にゲームだの子供っぽいものでもエリンと楽しく遊んだ。
そういう意味では同い年の友達のようにも感じてたと思う。

でもサンセットバレーに来る前のエリンは、あちらこちらを旅して回ってて・・・
この国内の方々で盗みを働いて、イタリアの隠れ家を拠点にふらふら放浪していたという。
だから記憶がないエリンは、・・・このサンセットバレーにも自分達にも愛着なんかないエリンは、
ある日ふらりと居なくなってしまいそうでダイアナはそれが怖い。
s3-10 (12)

泣きそうな気持ちになりながらダイアナは鼻を啜る。
すると、ぽてぽて歩きの子犬のディランがやってきて、落ち込んでいるダイアナなど気にもせず。
ダイアナの足元で遊べ遊べとじゃれついては勝手に盛り上がってゆく。

「あん!あん!あん!」
「ディラン遊びたいの?」
「あんあんあんあんあん!」
「んもー・・・・ いっしょに行けばいいんでしょ、行けばー」

子犬のディランはダイアナの手に「あびゃびゃびゃびゃ」と壊れる勢いでじゃれつくので
ダイアナは苦笑しながら彼を抱き上げた。
s3-10 (9)









イアンは波乗りをするというので子犬のディランと共に海岸散歩から帰るとエリンとかちあって、
つい「あっ」と声が出た。

「! ・・・・あなたアレックスの、妹・・・、よね?」
s3-10 (13)
エリンのこちらの反応を探るような目つきと、他人行儀な確認はさっくりとダイアナの心に刺さる。

「うん、エリン。・・・ダイアナだよ。気にしないでダイアナって呼んで」
「よろしく。その子はあなたの犬?」
「この前、浜辺で拾って・・・ディランていうの」
「そう」

互いに探り探り。会話が途切れるかと思われた瞬間に「あん!あんあんあんあん!あんあんあん!!」と、
子犬のディランが初めて会うエリンに大興奮して吠えまくり始めた。

「コラ!ディラン、ダメ!メッ!ごめんね、ちょっとまだ躾の途中で・・・イアンの言うことは結構きくんだけど」
「まだ分別が付かない子供だからじゃない?」
s3-10 (15)
興奮しすぎてエリンの手に噛み付きそうになりつつ・・・
エリンは「おとなしくしなさい」と高圧的に言って子犬のディランを撫でてみせた。

「ダイアナ?・・・あなた、も。私の古い知り合いなのよね」
「! うん、あたしがイアンよりも先にエリンと仲良くなったんだよ」
「いま時間があるのなら昔の話を聞かせてもらえる?」

エリンからの思わぬ申し出に、
ダイアナの笑顔がぱあああと光り輝き「もちろん!!うちに来て!」と声を張り上げる。

それからダイアナはアルバムを引っ張り出し、
自分達の出会いから色々遊んだりしたことなど求められるまま少し興奮気味に話した。
s3-10 (17)
「テレビゲーム、ねえ・・・」とエリンはしみじみと繰り返す。
「エリンが仕事始めちゃったし、最近はあんまりしてなかったけど一緒に暮らしてたときも時々やったよ。
 あと最近は乗馬しにカントリークラブに行ったりしてるかな」

「ふうん。あなたも乗るの」
「元々はエリンに教わったんだよ!とかいっても障害とかすごいのはできないんだけど」
「そりゃそうでしょ。そもそも私だって人に教えられるほどじゃないはずだし」

意識的なのかわからないが話し始めてからずっとエリンはこの調子で、どこか突き放すような口調だ。
s3-10 (16)
初対面のときのエリンは自分にもうちょっと優しかったんだけどな・・・と、ちょっとダイアナはやりにくい。

「えっと・・・エリン、何か食べる?」
「ありがと。その間これ、見させてもらうから」

エリンがぱらぱらとアルバムを捲るたび、
自分のしらない自分、アレックス・・・・イアンに、ダイアナの写真が現れる。
写真の中の自分は、いまのエリンにとっては気持ちが悪い写真ばかりだ。
私?全然違う。誰よ、これ。
こんなの、同じ顔した他人だ。
s3-10 (19)
結婚式への参列とはいえ、
”いかにも”の真珠のネックレスに、花とリボンで飾られた”いかにも”の帽子にもぞっとする。

エリンは気分のまま、前に後ろにとアルバムを捲るが気味の悪さは募るばかりだった。
「それは、エリンの前の家でビーチパーティしたときの写真だね」とダイアナが戻る。

「前の家?」
「いまエリン達が住んでる家は建替えしたんだよ。
 前の家はもうちょっと庭が広くって・・・アレックスが言うには”元々エリンの一人暮らし用”だったらしいけど、大きかったよー」
「・・・・・・」

━━━━自分で言い出したものの聞きたくもない。お腹いっぱい、って感じだ。
改めて出されたブラウニーはとりあえず1つだけ摘み、エリンは席を立つ。
s3-10 (22)

「日も暮れてきたし、そろそろ出るわ。色々ありがと」
「えっ、あ・・・うん。エリンもきっと怖いって言うか・・・こういうのって複雑だよね」

「・・・。まあ、そうね」
「皆も心配してるし、待ってるよ。早く記憶戻るといいね。
 医学知識とかは、あたしも偏ってることしか知らないんだけど助けられることとかあれば何でも言ってね」

玄関先でダイアナが心をこめてそう言うと、エリンはにっこりと美しく笑い返した。
s3-10 (23)




ここにいる人間全員が、”この私”は一時的なものとしか捉えてないんだろう。
同じ顔してるってだけで『他人』エリンの人生を引き継いで生きてけってこと?
ふざけないでよ。

エリンの顔から偽物の笑顔が消える。

あの見舞いの花も結局『他人』宛。
このサンセットバレーにいるべき理由なんて”私”にはない。
s3-10 (20)
誰でもいい。互いに知らない誰かの方がまだ心地いいと、エリンは道で手を上げてタクシーを拾った。








離れのアトリエから戻ったアレックスはまず執事モナにエリンの所在を尋ねると、
「3時前にダイアナさんちに行って・・・まだ戻ってないですよ」という返答。
s3-10 (29)
そんなに長く?正直あのエリンが今のダイアナと長時間話し込むとは思えない。
違和感にアレックスは眉をひそめつつ、すぐに受話器を手に取った。

エリンが記憶をなくして以来、分かりやすく落ち込んでいたダイアナが『はいはーい、アレックスどうしたの?』と明るく出る。

「ダイアナ、エリンはまだそっちに?」
『とっくに帰ったよ、40分くらい前かな。いないの?』
「・・・どこかに出かけるとかは?」
『聞いてない』

話しながらアレックスはパソコンで自宅の防犯カメラの映像を呼び出す・・・エリンは家に戻らずにタクシーを拾っている。
s3-10 (38)
財布にパスポートさえあれば世界の裏側だろうがどこへでも行くエリン、
そのためアレックスはしっかりパスポートだけは確保しているが胸がざわつく。

「エリンと何か話したかい?」
『特別なことは別に・・・庭でエリンと会ったら昔の話を聞きたいって言うから昔のアルバム見ながら、お茶しただけだよ』
「・・・・。ダイアナ、しばらくエリンをそっとしておくっていう話だっただろう」

ぴきん、と兄妹の空気が珍しく凍りつく。

『・・・・。エリンが自分から言い出してることをわざわざ断ってまですることじゃないと思うけど』
「断るべきだ」
『そもそも、アレックスが言うしばらくっていつまで!?』
s3-10 (26)
アレックスの声音が明らかに不機嫌になったところでダイアナが先に爆発する。

『ケガもすっかり治って、お酒まで飲んでるくらいエリンも普通の体調になってるのにアレックス何もしてないよね!
 むしろいつも通り、昼間は家に居ないでアトリエに行ったりしてるし!
 エリンが皆のこと忘れちゃってるなら、皆とエリンを繋げられるのはアレックスだけなのに、どういうつもり?!』

皆エリンを慕う人間たちは直にエリンの様子を見れないだけに深く心配している。
でもアレックスはそれら全てを完全にシャットアウトしているのだ。

「ダイアナ。他人がどう思おうと、エリンの治療方針は夫である俺が決める。勝手に足並みを乱されるのは困る」
『他人!?勝手!?あのね、あたしだってエリンの家族だよ、忘れた!?
 助けたいと思ったら行動だってするし、間違ってると思ったらハッキリ言うの!もう子供じゃないんだから!』

「誰も子供だとかそんなことは言ってない!必要ないと言ってるんだ」
s3-10 (34)
『必要ない?そうだろうね!アレックス、一度でもあたしや他の人にエリンのことをどうするかってこと相談してくれた?
 してないよね、誰にも!人間誰でも間違うってことがあるんだよ、どうして何でも自分で決めちゃってるの?!』

「何が一番いいのか、彼女のことを一番よくわかってる俺が決めると言ってるんだ。
 現に今日君が会ったエリンは君が知ってるエリンだったか?全然違うだろう、子供の頃の君を接してたはずのエリンと!
 子供を相手にしていたのとは訳が違うんだ、何も知らない君に相談して一体何を判断できるというんだ!」

アレックスもまた、ダイアナの痛い点を突く。ここまで来ると双方ともに引き下がれない。
大体家族というおぼろげな概念だけじゃない、
ダイアナとしては自分とイアンに利があったとはいえ、エリンを何物にも縛らせたくないという兄の想いのために、
公式に公爵の地位の相続人にまでなったという経緯がある。
激怒というレベルにまでダイアナの血が沸騰する。
s3-10 (28)
『おい、ダイアナ?お前誰と話してんだ?』というイアンが尋ねる声が遠くからした。
そんな夫イアンの問いかけも無視して、

『その何も知らないあたしがエリンのために何したか知ってるくせに、いざとなると蚊帳の外に置くの!?
 あのままエリンのこと放っておいたら、簡単に町から出てっちゃいかねないてことまでアレックスは考えてる?
 家族や友達のことを教えてあげて、思い出させようとしてあげて一体何が悪いの!
 アレックスってば全ッ然何もしないで・・・そうなってもしょうがないって最初っから諦めてるみたい!』

一呼吸もつくことなく、凄まじい怒鳴り声とともにダイアナは電話を叩ききった。
結果言われっぱなしになったアレックスも怒りの震える溜め息とともに、物に八つ当たりしないこそすれ
不機嫌に通話を切る。
s3-10 (36)
受話器越しでも兄妹ケンカの応酬が丸聞こえだった執事モナが、少し離れた場所でわざとらしく指示を待っている。

「・・・モナ。俺はエリンを探しに外に出る」
「あたしも出ます!心当たりの場所はありますか??!」
「いや、探す人間はいるからいいんだ。俺もそこに行くだけに済むから。どうもありがとう」

アレックスは携帯を取り出しながら紫の夕闇の中へと出た。
もうエリンの行方をつかむための対策は、警備長のロンがエリンの過去の経歴を知ったことで確実なものになっている。
10数分もすれば分かるだろう。

s3-10 (40)
”あのままエリンのこと放っておいたら、簡単に町から出てっちゃいかねない”
”そうなってもしょうがないって最初っから諦めてるみたい!”

実にダイアナのこの鋭い指摘に、アレックスは反論する言葉を実は持っていない。






そしてアレックスと怒鳴りあいになったダイアナといえばカッカと怒りを沸騰させ続けてる。

「随分アレックスとやりあったな、ダイアナ」
s3-10 (41)
「だってすごい勝手なんだもん、全部一人で決めちゃって・・・エリンから昔のこと訊かれても話しちゃダメなんだって!
 あたしがいけないんだってさ!」

イアンとしてはアレックスの考えも理解できなくはない。
そして心情的にはダイアナの味方をしたいイアンだが、それよりもこのダイアナの尋常じゃない様子の方が気にかかる。

「まあ、まずは落ち着け。別にあいつも本気でお前のこと責めてるわけじゃなかったんだろ?
 何言われたんだかはわかんねーけどケンカの言葉を全部マジに受け止めんなよ。お前も随分なこと言ってたんだからな」
「~~~いいの!誰かがアレックスのこと怒らないとっ!だから昔、エリンに流されて泥棒とかしちゃったんだからっ!」
s3-10 (42)
「・・・・まあ、確かにそいつはごもっとも」と、イアンは半分茶化すようにイアンは低く唸って見せた。

しかし、このダイアナの怒りの鋭いこと鋭いこと。
この怒りっぷり。
まるで沸騰したヤカンだと思いついたところでイアンはふと気付き、ダイアナの顔を触る。

「・・・ なあに?」
「あ。やっぱりか。お前熱あるっぽいぞ」
「えっ うそっ」
「たぶんあるぞ、これ。お前、風邪引くと途端にワガママ虫になるんだよな」
s3-10 (43)
知ってるのは同居したことのあるダイアナの実母マーガレットと自分と”息子”シムボット・アンドリューくらいだろう。
心身ともに健康のダイアナなので回数は多くはないが、
小さな頃から母子家庭で『しっかりした良い子』で育ったぶんダイアナは体調を崩すと子供返りする。

原因が分かり、「いつからイライラしてたんだー、お前はー」と、イアンは諌めるモードから転じて手放しで甘々モードとなった。
促されてダイアナは喉を見せたあとは耳で測る体温計でササっとチェックされる。

「お、37.0℃ジャスト。さすが俺。喉は腫れてないけど自覚なかったのか?だるいとか食欲ないとか」
「う・・・ない・・・、うーん・・・家のなかだとちょっと寒かったくらいかも・・・」と、
体調のおかしさを自覚させられたダイアナは途端にしぼみ始めた。

「散歩させんじゃなかったな、ごめんな。医者呼ぶレベルじゃないし、今日は薬飲んで様子見るか」
s3-10 (45)
よくよく見れば、熱っぽいのか目もうるうる潤ませながら「うん」とダイアナはおとなしく幼児のように頷いた。

イアンはしまってあった常備してる市販薬を手に取り、
一応説明書きを読みつつ「水持ってくるから待ってろ」と冷蔵庫へ。
━━━━ その説明書きのある箇所が目に入ると彼の動きは止まり、何かを思い出そうとするように宙を見上げた。

「・・・? イアンどしたの?」
「ダイアナお前、先月いつ終わったっけか」
「? ???  ・・・・あっ・・・・あー!!」

そういえば今月”来て”ない。それも10日近く!
女性特有の身体のリズムが毎月一定のダイアナは、まん丸の目をますます丸めた。
s3-10 (44)
ダイアナとイアンの子供は未来からやってきてないので、すっかり頭になかった。
もしかしたら、エリン達の子供・・・レオやラフィよりも先に産まれてるという可能性を。








タバコの匂いは嫌いだが、こういう場所じゃあしょうがない。
s3-10 (46)

エリンがカウンターに着いてすぐ、自分の財布を開けずに酒が出てくることに安心する。
幾人かの男たちの会話をするりするりとかわしているうちに、
見目も羽振りもよく遊び方も心得てそうな男が自然とトーナメントを勝ちあがってエリンの真横をキープし続けた。

「━━━━」
「━━━━」

仕事の話だとか旅行の話だとか、
表面的ですごくどうでもいい話をしているうちに男がより一層近づく。
s3-10 (47)
楽しく笑えばさらに近づき、エリンの腕をさりげなく、かつ自信ありげに触り始める。
こんなのも、いつ通り。
初対面だけれど互いに予定調和で進める、お約束の展開。
もう少ししたら、くだらないことで笑いあいながら店を一緒に出て、そのまま流れで━━━━のはずが。

ひきつづき旅行話をしながら男に肩を抱かれた瞬間、反射的に背骨を舐められたような嫌悪感が走ってぞっとした。
気持ち悪い!

「・・・・ちょっと?こういうのは、止めて?」
「え?ああ、そう?ごめんね」
s3-10 (49)
雰囲気を悪くしないように男は笑いつつ、一旦引き下がってくれてエリンは心の底から安堵した。
男は引き下がっても笑顔のまま再度エリンの身体を捕まえるタイミングを図っているのが視線で分かる。
会話の内容など元々心になぞ届いてもないものだったが、ますますエリンの中に入らなくなる。
代わりにじわじわと満ちるのは、自覚した途端に増え続ける嫌悪感だけ。

女として見られてる視線なんか慣れているし、自分の魅力は自分はよくよく知っている。
だからこそ、なんでこんな品定めされるような目と、いかに触ってやろうかという手になぜ身体を晒していなきゃいけない?
・・・・あの結婚しているというアレックスですら一度もこんな自分を軽んじるようなことをしてこなかったというのに。

瞬間、男は自分の言った冗談に合わせて大きく身体を揺らし再度エリンの肩を抱いたところで、
「ちょっと!」と反射的にエリンは怒って突き飛ばした。
s3-10 (50)
初対面の男にどうしてこう安く見せる・・・見られる必要がある!?

「!? なんだよ、いきなり!何なんだよ!」

明らかに靡いてた態度だったと自覚はある。
しかし嫌悪感とあと、信じられないことに恐怖感すらも抱えながらエリンは高らかに叫んだ。

「・・っ・・・・ ほんの少し喋った程度で、こんなことされる覚えはないわ!」

安い汚い店だったなら男とこじれて宜しくないトラブルに発展する可能性もあったかもしれないが、
幸い相手は大いに呆れたというジェスチャーをしつつ、エリンを二言ほど罵るだけで店の向こうへアッサリ消えてくれた。

そしてエリンはすぐ後ろにの気配に驚いて振り向く。

「エリン!大丈夫かい?」
「・・・・アレックス」
s3-10 (51)
たった今の騒ぎを見かけて急いだのか、アレックスの息が少し速い。
けれど自分が着くまえにエリンが男を追い払ってしまって、
怒ってるような戸惑ってるような複雑な表情のアレックスながらエリンは本当に・・・本当に心から安心して
震える喉でため息をついた。

「・・・平気」
「怖かったろう」
「・・・そう。そう、なの」

ここで怒りに任せて先程の男のところへ行くような男ではないアレックスにも、エリンはさらに安心した。
酒のせいだけじゃなく、心臓がひどくおびえたまま大きく揺れている。
s3-10 (52)
見知らぬ街、見知らぬ家、見知らぬ他人たちに放り込まれて、
『記憶があるエリン』に縛られず、目の前の自分だけを唯一見てくれているのはアレックスだけだ。

それだけじゃなく寝室を共にしているのにもかかわらず何もされていないことによって
自分は女としてもアレックスにどれだけ尊重され大切にされていたのかが分かってしまった。
されたといえば純粋なおやすみのキスだけ。

「エリン?」
「━━━━ あなたのせいだからね!私がこうなったのは!!」
s3-10 (56)
支離滅裂な言葉を吐き捨てながらも、アレックスの胸元を軽く殴る・・・・が、
そのまま彼の服を掴んでしまった。

エリンの中の弱さ。
アレックスにだから見せられるそれに、その心のうちをわかってるよというように微笑む。

「・・・とりあえずこの店は出よう、エリン」

ああ。
もう隠すのも無理だとエリンはうつむいて、搾り出すように言う。

「あの家は、もうイヤ。あそこは私には関係ない場所だわ」
「・・・そうだね。行くのはもうよそう。行く必要もないんだよ。エリン」
s3-10 (54)
帰るという表現すらアレックスは使わなかった。

あの家は『別のエリン』の家であって『君』のものではない。
何者にも何物にもエリンを縛らせたりはしない。
たとえ血を分けた妹や親友、数々の友人達からの親愛を全て踏み躙ることになろうとも、
エリンがそれらに縛られたくないと言うなら、その通りにする。

アレックスは優しく微笑んだまま、「出よう」と店を出た。
s3-10 (59)
見知らぬ街、見知らぬ家、見知らぬ他人たちから開放される感覚にエリンの心は軽くなる。
縛られるのも押し付けられるのも大嫌い。
でもアレックスとの繋がりだけは断ちたくないと思う。

「それで、・・・・どこに行くの?」
「サンセットバレーだけど俺の離れだよ。アトリエなんだけれど、誰も中には入ったことがないんだ。・・・・”奥さんも”ね」

別人のことを話すかのように、『記憶のあるエリン』をそう表現したアレックスに、
ふ、とエリンは微かに笑う。

「ゆっくりできるならどこでもいい。あなたの絵も気になるし」
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「興味があるのは絵だけ?」
「まさか」

着いて2人になってしたいことをもう互いに分かってるのもいい。
そんなに子供でもない。
アレックスは車のキーを開けながら「ところで1つだけ訊きたいんだけれど」と続ける。

「そこに君を連れ込むっていうのは世間でいう不倫にあたると思う?」
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記憶をなくしてから初めて、エリンは心から大いに笑った。




→第11話










第9話  男の女の矜持 Set a thief to catch a thiefⅥ

←第8話



病院に到着したエリン。
傷口の異常はないが確かに感染症にかかってはいた。
ただ風邪の可能性が非常に高いうえ重篤でもなく、喉の痛みも対症療法で改善して、もはや症状は発熱だけ。
s3-9.jpg
「入院入院」を連呼するアレックスの要求は、エリン本人(と医師たちの大いなる同意)によりキッチリ却下された。




「おかえりなさい、エリンさん!改めて、あたし執事のモナです。今月から雇ってもらった新米なんですけど」

エリンは「よろしく」と頷く。
昨日スタンガンを投げつけてしまった彼女に謝りたい気持ちはあるがアレックスの目がないところで言いたいエリンである。
彼も『かつてのエリン』のそういう部分を察しているので、妻エリンをモナに託して書斎に向かった。

「エリンさん、熱出ちゃったんすよね。寝室行きましょう」
s3-9 (2)
2階に上がる階段には『永久使用禁止』とばかりにロープが張られており、エリンは片眉を上げた。
ここが自分が落ちたという階段だろう、間違いなく。

「エリンさん、あのー、・・・・ダイアナさん達が様子が気になるとおっしゃってましたけど、お見舞いナシな方がいいですよね?」
「隣に住んでるとかいうアレックスの妹と昨日の男?そもそも会うつもりないから。断り方はあなたに任せる」
「了解っす。・・・まあ知らないひとっすもんねぇ・・・」

執事、というわりには油断すると端々で言葉遣いがよろしくないコだ。
エリンには意外だった。あのアレックスが、こういう執事(しかも若い女の子)を入れるとは・・・・
そうか。自分の知ってる彼とは違うのかとぼんやり考えていると、
執事モナがわざとらしい小声でささやく。
s3-9 (1)
「つかエリンさん、マジモンだったんすね。まさか自分んちのとはいえ、あんなすっごい金庫見つけて開けちゃうなんて。
 コソドロ程度だったあたしとは違った、ガチな感じだったんですね~!」
「え?」
「あたしが部屋出てった隙に、金庫を開けちゃうとか正直カッコいいって思いました」

執事モナが意味していることを理解して、エリンは自分に驚いた。
つまり『同業者』の人間を、執事として雇ったのか!・・・・つまり彼女も一味なのだろうか?

「あなた、私の仲間?・・・だった、の?」
「うえっ!?ちっがいますよ!エリンさん、結構昔に引退してたらしいし、そもそもあたしは金庫とかナニソレって感じっす。
 ちょろ~っと、まあ・・・置き引きくらいだけで・・・」
「そう・・・よね。あなた若いし」
s3-9 (3)
「・・・つってもあたし、エリンさんの歳いまだに分かってないんすけどね」

自分が『現役の泥棒』だったころじゃ、この執事モナは高校生以下だったろう。
2人はそのままアレックスとエリンの寝室へ。


「調子に乗ってエリンさんちのモンに手を出したんすけど・・・そのおかげで、すっげーいい仕事貰っちゃいました!
 貴族のお屋敷で執事なんて、施設のセンセーたちも報告したら無茶苦茶驚いて自慢だって。
 こっち側がエリンさんのクローゼットで、逆の鏡の裏側がアレックスさんの分です。洗濯物は━━━━」

かつてはどん底にいきそうだったモナが簡単に寝室とその奥のクローゼット部屋の説明をしだす。
しかしエリンは彼女が口にした、『貴族のお屋敷』の部分が大いに引っかかった。
そしてここには隠されもせず、かつてアレックスの実家からエリンが盗んだ、エリンの母親のドレスもあった。
s3-9 (5)
「・・・・アレックスは結局サウスの家に戻ったっていうこと?」

エリンの記憶では『公爵家のアレックス』は死んだ偽装工作をしてやり、その後はずっと部下として共にいた━━━━
そこで止まってる。
以降は何がどうなったのか。アレックスと自分が結婚していると知らされはしたものの、まだ何も知らない。

「え?ああ、そうですね。昔ニュースで、ガキのあたしでも知ってるくらい大騒ぎになってましたよ。
 アレックスさん、船の事故でしたっけ。死んでたはずなのに実は生きてたっつって戻ってきたんですから。
 んで何年かしたら結婚したいひとがいるから公爵やーめたって。まあ、あたしも詳しくはネットでこの前調べたんすけど」
s3-9 (4)
エリンとしては当然情報は出来るかぎり知りたい。

「エリンさん、着替え手伝いましょうか?熱があるときはとりあえず横になって休んだ方が良いですよ」
「着替えの手伝いは平気、注射打ったし。それよりネットができるもの・・・・パソコンかタブレットはある?」

「あー・・・・エリンさんの携帯、階段から落ちたときに壊れちゃったんですよね。まだ新しくしてなくって。
 エリンさんが仕事でよく使ってたノートPCはありますけど・・・パスワード覚えてないですよね?
 それとも、そーゆーのも破れちゃったりするんですか?ハッカーとかみたいに!」
s3-9 (7)
「ムリね。私は別に万能なわけじゃないの。ちゃんと事前に色々調べて、準備に何週間もかけたりしなきゃムリ」
「へー・・・・やっぱすっげ。でも、あれ?じゃあ、ここの金庫はなんで開けられたんすか?」
「なんとなく分かっただけ」

これもまたエリンには気持ち悪かった。
ノートPCはログインを試してみたものの、映画のハッカーじゃあるまいし先に進めそうはない。
一方タブレットはエリンの指紋だけでアッサリ開いてくれた。
s3-9 (8)
「それで、今の私の仕事って何?」
「お隣のイアンさんがすっごいお金持ちで、エリンさんはそのお金で美術館を作ってたんです。
 確かプレオープンが年明けだったっけ・・・先週から絵の搬入が始まってたけど、部下のひとたちで対応できるから
 最近のエリンさんは家で結構ノンビリしてたんですよ」

「美術館・・・わたしが・・・」
「ええ。エリンさんは美術館の館長サンなんすよ、名刺ももらったす!
 いままでかなり忙しかったから、来月いっぱいまで休暇にしたって言ってました。冬からまた忙しくなるからって。
 それでも時々、ついでに様子見には行ってましたけどね~。このまえ建物だけ見たら、すっげ大きかったです。
 世界中から色々集めたって言ってましたよ」

世界中の・・・・
あの隣の男に雇われているのかということはともかく、『美術館の館長』だという事実にエリンは正直気持ちが高揚する。
s3-9 (11)

「もうサイトもあったんで見てみたらどうです?」

エリンはあとで絶対にそれについてもネット検索しようと思う。
ふと思い立って『記憶を失う前の自分』が起動させたままのアプリがないか、タブレットを確認する。
スケジュールアプリが入力途中だったらしいが中途半端だ。

『入力をつづけますか?』と尋ねられたが何も情報は入ってない。
でもなにかスケジュールを入力しようとはしていたらしい・・・エリンにはすごくその日付が引っかかった。
なんだろう?
考えながらエリンはさっさと服を脱ぎ捨て、夕暮れの海を見つめた。
s3-9 (12)
その後ろで執事モナが「おぅわ!」などと驚いていたがどうでもいい。
・・・・8月28日・・・・。

「8月28日になにがあるか、あなた分かる?」
「えっ?さあ??イアンさんの誕生日は終わったしな~・・・・あたしがその日付に頼まれてた用事とかはないですねえ」

また『イアン』?ホント図々しいわね。
イアンの人柄など認識してないのにも関わらず、話題に出ただけでぴったりの感想を浮かべてしまうエリンである。
発熱があって病院にいったほどだったので自らパジャマも着た。

「・・・モナ」
s3-9 (13)
「はいっ!」

記憶を失ったエリンに初めて名前を呼ばれ、びしっと執事モナの背中が強張る。

「昨日は悪かったわね」
「! ああ、いいえ~。あたしは全然大丈夫です!」

8月28日・・・すごく、そう、とてもすごく・・・・
大切な日だった気がする。
s3-9 (14)







とりあえずエリンは体調の回復するまではと大人しく家で休みつづけた。
傷の消毒は毎日医者がやってくる。
ある日、ふと気が付くとアレックスが軍手をした執事モナと庭でなにやら話し込んでいた。

『夫』だかなんだか知らないけど結局こういうのはアレックスの仕事なのねとエリンが思いきや、
アレックスが執事モナと何かを相談し、どこかへ電話をしだした。
s3-9 (46)
すこし風向きが変わり、「困ってるんだ」とアレックスが本当に困ってる声で話しているのだけは聞き取れた。

「?」

・・・・これは『隠れ家』のように、アレックスが世話している庭じゃないんだろうか?
エリンにはどこに電話をかけているのかも見当も付かない。
s3-9 (49)

ビーチハウスはどこも高級住宅街の割りに土地は小さい。
こじんまりした庭は石畳と噴水はあれど、なんだか発展途上というか・・・ちょっと素人くさい庭だ。

エリンはそれを丹念に作りあげたのが自分自身だとも気付かずに、
「・・・・・まあ、悪くはないけど」とぽそり呟いた。
s3-9 (47)

それにしてもケガをして1週間以上━━━━誰からも自分に見舞いの花すら届かない。
どうせ誰のことも覚えちゃいないが、『記憶をなくす前の自分』は公爵様と結婚して奥方サマとして引きこもってたのかと
エリンはそんな自分を軽蔑していた。

とはいえ、知らない人間の訪問応対をして知らない人間から物を贈られるというのも、かなりゾッとするが。
そんなの誰かの都合に振り回されるなど、エリンが一番嫌悪するものだ。
たとえその『誰か』というのが、『記憶をなくす前の自分』自身のものだとしても。
s3-9 (45)
潮風がテーブルの上に飾られてる、庭には生えてない白いバラの香りをふわりと巻き上げた。






そのままエリンは体調の回復に集中し、
またアレックスはエリンが閉塞感を感じずに済むように距離をとりつづけて数日が過ぎた。
アレックスはエリンが記憶をなくしてからはずっと別室で休んでおり、
その夜もいつものように翌日の着替えをクローゼットに取りに来た。

とうとうエリンの頭の傷も無事抜糸された夜。

「アレックス、あなたがサウスの家で何をしてたのかを読んだわ」
「・・・。昔のニュースとかかな」
s3-9 (16)
「そう。あと私が作ってる美術館のことも。あなたの言うとおり、あの隣の男が知り合いっていうのは本当みたいね」
「まさか疑ってたのかい?嘘なんかつかないよ」とアレックスは苦笑い。
「訊きたいことがあるから、座って」

するとアレックスが当たり前にベッドに腰掛けてくるので、
「ずうずうしいわね」とエリンは若干片目を歪めて言うものの彼は笑って流した。

「訊きたいことっていうのは?俺は・・・記憶のことよりも、まずは君の体調を優先にするつもりでいるんだけれど」
「熱はとっくに下がったし、傷も平気。そもそも私が決めることよ。それともあなた答えないつもり?」
s3-9 (18)

「わかった、わかったから。そう突っかからないで、エリン。体調が平気ならいいよ。それで?」
「なんで私とあなたが結婚したの?」
「・・・━━・・・ えっと、・・・・。ストレートすぎて逆に・・・びっくりした」

はははと今度は少し照れ気味にアレックスは笑い、

「仲間なんかじゃなく、家族になりたいと思ったからだよ」
「あなた、私が好きなの」
「もちろん。でなきゃこうならないよ」とアレックスは笑顔のまま、さらりと認める。
s3-9 (19)
「そうなったのって、いつから?」

そこで初めて、アレックスは少し言いよどむ。
完全に昔のままのエリン━━━ 互いの絆を確認しあう前の『昔の彼女』に明かすのは少しだけ躊躇がある。
改めて愛の告白をしているみたいだ。
そんなアレックスに、エリンは追撃する。

「アレックス。私は元々あなたの家で妹同然に」
「妹だなんて思ったことはない」
s3-9 (22)
嫌悪感に近い声音でアレックスはすかさずその言葉を止めさせた。
確かにエリンは半年ほどアレックスの実家にいたが、とんでもない。
実の妹ダイアナがいるだけに、かつてのエリンがいたときから抱いていた感情の違いはアレックスにとって明確だ。

「俺は昔から一度も君を・・・妹だとか、そういう目で見たことはないよ」

それはアレックスの実家に居候していた時、エリンをクラブから力ずくで連れ帰されたときから、だったのだろうか。
あのあと怒鳴りあいにまでなったものだ。

「━━・・・ じゃあ、最初からだっていうの?」
s3-9 (17)
「・・・・・。そうだね」

そこで初めてエリンが沈黙する。
あのケンカ以降、部下などとしていたときも、アレックスには一切自分のやることすべてに口を出すことは許さなかった。
・・・・夜に遊び、男と出ることも。
さすがにこの事実はエリンには気まずい。

「あなた散々私と一緒にいたのに平気だったの?」
「・・・・。悪いけれど、そういう話ならしたくない。他に訊きたいことは?」

アレックスから笑顔が消える。
怒っているというよりも、その隠さない妬心の気配にエリンもつられて少し黙った。
s3-9 (20)
エリンはこうして全然知らないアレックスの顔を何度も見せられている。
その柔和な雰囲気のなかに時折鋭さが見え隠れする。

「私は、あなたのことを全然分かってなかったみたいね。・・・・でもやっぱり違和感があるのだけど」
「ん?」
「この家に来てからのあなた。私のところにあまり顔を出さなかったわね。
 体調は心配してはいるみたいだけど、そもそも記憶を取り戻そうとしてないみたい。それはなぜ?」
「・・・・・・」

アレックスに笑顔は戻らない。
代わりに真っ直ぐにエリンを見つめ、何も言わないままのアレックスの手がエリンの胸元に伸びてくる。
s3-9 (23)
驚かなかったといえば嘘になるが、そのまま押し倒してくるというなら別にいい。
元々男としてのアレックスは『悪くない』という認識はあったのだしと、頭の片隅で冷静に女の計算をするエリン。

しかしアレックスは「外れかけてるよ」と呟いて、開きかけていたエリンのパジャマのボタンを閉じる。
さらには「よし」などと、子供にでもするかのようにぽんぽんとボタンの部分を軽く叩いた。
エリンはあっけにとられて、「は!?何?!」と素っ頓狂な声まで出てしまった。

「閉じ込めるような真似はしたくないから」とアレックスが呟く。
「はっ!? あなた何の話してるの?」
s3-9 (24)

「エリン、俺はね。君が、俺の家に来る前にどうやって育ったか・・・それをどう思っていたのかも全部知ってるんだよ。
 ━━━確かに今の君が、家族や友達のことも分からなくなってしまったのは悲しいことだけれど、
 すぐにどうにかできるものでもないなら追い詰めたり、・・・・閉じ込めるような真似はしたくないんだ。絶対に」

一瞬息ができなくなると思ったほど、重い衝撃が腹のそこからエリンの中にせり上がる。
暗い暗い、ひとりだけで抱えていたはずだったエリンのひみつ。
閉じ込められていた子供時代。
エリンはその混乱を処理し切れず、手近なアレックスに当たるように吐き出す。

「子ども扱いしてみせてるのも、同情でもしてるつもり!?」
s3-9 (27)
「子ども扱いもしてないし、同情もしてないよ。でも理解はできてる・・・できてたと思うよ。よく色々話をしたから」

ベラベラと何を話したというのか!なんて弱い!そしてありきたりな女なんだろう。『記憶をなくす前の私』は!
自分自身への怒りにエリンはくらくらする。
そこでエリンはハッと気付いた。

「あんなに実家を嫌ってたあなたがサウスの家に戻ったのも、私に関係があるの?」
「・・・・・・」

アレックスは答えない。宣言したとおり嘘はつかないが、エリンのために戻ったとは認めない。
そうして恩を着せるようなことを彼が口にしないゆえに、その事実を素直に受け入れられるがエリンの口調はついキツくなる。

「アレックス!どうしてそんなことまでしたの?!」
「全部失くせたらいいと思ったんだけれど、既に起きたことは消さないから。残ってるものだけでも全部失くしたかったんだよ」
s3-9 (25)
「・・・・━━━━・・・・。・・・・・そう・・・・・」

そのまま長く長く会話は切れて、元々寝室で控えめにかけていたBGMが耳に入る。
こういう長い沈黙のときにはありがたいとエリンはそっと思う。
アレックスも立ち去りもせず、窓の外の夜に目をやった。

彼が自分のためにした(さらに自分のためにそうであることすら認めない)という彼の愛情に対して、
ちょっとだけ、エリンの心の中の針が動いた。

「アレックス、こっちで寝て」
s3-9 (31)
さきほどの『したいなら受け入れてやってもいい』と軽く考えていた程度だったものが、
若干エリンが能動的となる程度には彼に近づいた。
誘われたアレックスも少し驚いて目を見開いたが、
明らかにまだエリンは完全に愛情を彼に向けているわけでもなく・・・それが分かりきっているだけに表情は冴えない。

「エリン。・・・・そういうのはいいんだよ」
「ちょっと。あなた私が好きで結婚したんでしょ。その私がいいって言ってるのに拒否するつもり?」
「拒否とかじゃなくね。違うと思うんだ」
s3-9 (32)
「なにそれ。そもそも図々しくベッドに座ってきたくせにどういうこと?」

はーっとエリンが大いに呆れた様子で溜め息。
アレックスとしても、理由ぐらい察して欲しいものだ、と同じく溜め息をついた。
するとエリン。
ピンときたという顔で「もしかして勃たないとか?」と、同時になんと遠慮なくその手をアレックスの━━

「・・・・・・・」
「・・・・・・・エリン」
s3-9 (33)
つつつつ、もぞもぞ。
最初はまず場所を探るように、見つけたらエリンは遠慮なく可愛がるようにちょっこっと撫で続ける。
あは、とエリンは明るく笑った。

「ちゃんと勃つじゃない!」
「・・・・・。エリン・・・・・ 話ができないから。やめなさい」
「話すことなんかもういいって。溜まってるんじゃないの?それって一応私のせいになるのかしら」
「エリン!」

エリンの手が、とうとうべりっと剥がされる。

「なに?!あの若い執事雇ってるから間に合ってるってこと?」
s3-9 (26)
「な、にを・・・馬鹿なことを!あんな子供に・・・俺は興味なんか元々ない!」

思いも寄らない嫌疑に、珍しいながらアレックスが声を荒げた。
執事モナは子供という年齢でもないが彼にはよほど範疇外らしい。

「大声出さないで!それでどうするのよ、寝るの、寝ないの!?」
「寝るよ、寝ればいいんだろう!ただし」

アレックスは真っ直ぐにエリンを睨む。

「何もしないよ。ただ本当に寝るだけ」
s3-9 (34)
これにはムッカー!と分かりやすく気分を害したエリン、
「あっ、そう!」と言いながら叩く勢いで寝室の明かりを落とした。
こうしてアレックスの男としての矜持と、エリンの女としての矜持が真正面からぶつかることとなった。

「・・・・・・」
「・・・・・・」

エリンは身体をびっとりという表現ぴったりにアレックスに寄せる。
上掛けの中では足までアレックスに乗せた。
s3-9 (35)
「アレックス。私、何もしない男とベッドで横になる趣味なんてないの」
「・・・。そう。でもしないよ」

アレックスは対峙しているのがエリンだというのに、非常に珍しくイラついている声音を隠さない。
記憶が昔に戻っているとはいえ、
こうして他の男共の存在を匂わせられるのは簡単にアレックスの気分を害する。
有象無象の男と一緒にくくられたくなどない。

「何でガマンする必要があるの?」
「・・・・・。その理由が分かってないからだよ」
s3-9 (40)
「・・・・ ヘンな宗教でも始めた?」
「そう思いたければどうぞ」

胸元をいつの間にやら開けたエリンが、さらに身体を寄せる。

「したいくせに」
「おやすみ、エリン」
s3-9 (39)
エリンに恥かかせないよう最小限に。
背中を向けるような拒否の姿勢はみせない。
でもアレックスは仰向けのまま頑として動かない。

するとエリン、今度は「なによ、臆病者」と罵った。
臆病者?

このエリンにここまで誘われてるのに、誘いに乗らないでいられる男が世界にどれだけいるというのだろう。
アレックスもまた溜め息。

「やっぱり分かってないね、おやすみ」
s3-9 (41)
アレックスはとうとう目を閉じてしまった。








どん、という衝撃と共にエリンは薄っすら眠りから覚めた。
自分の肘がアレックスの腕か肩にぶつかったらしい・・・

(あれ、いつのまに・・・普通に寝てた?)
s3-9 (42)
他人と一緒に寝たことなど”記憶には”ないが、結局自分はアレックスの横ですっかり寝てしまっていたらしい。

数秒してむくりとアレックスが起き上がる気配に、
エリンはすぐに目を閉じる。
あふと欠伸のようなアレックスのため息と共に、
エリンのお行儀の悪い肘が掴まれて、エリン自身の横にお行儀よく収められた。

さらにアレックスは先程エリンが自ら開けたパジャマのボタンをまた閉じてやる。
s3-9 (43)
「おやすみ」

寝ていると思っているらしいエリンの額にいつものようにキスをして、
エリンの頬を撫でると寝ぼけている彼はすぐに眠りへと戻った。

するとエリンもまたアレックスの体温に引きずられて再び眠りに付いた。








「・・・色々と花飾ってくれてるけど、そのピンクのバラは特に綺麗よね」
Screenshot-62.jpg
「! ですよねですよね!これ、毎日届けてもらってるんすよ!」
「へえ、あなた意外に濃やかなのね。わざわざ花屋から取り寄せててるの?」
「いえ違・・・・あッ!しまった」

”言ってはいけないことをもらしてしまった!”とでもいうように、執事モナがマンガのように口を押さえる。
分かりやすぎるリアクションに、エリンが容赦なく「なによ」とツッコむと・・・

「あ~・・・アレックスさんと話していたんですけど内緒にしようって言ってて、その」と、ごにょごにょごにょ。
「言いなさい。ハッキリしないのはキライ」
Screenshot-63.jpg
このエリン、中々キツい。
あうあう、と執事モナは気まずそうに白状しだす。

「えと・・・エリンさんは覚えてないと思うんすけど園芸家のマークさんていうひとが、お友達にいて。
 あたしもビデオ通話とかで話したことあります。で、エリンさんはそのひとに庭のこととか習ってたんですけど・・・
 その人から毎日お見舞いで届いてるんです」
「ふーん。・・・・え?私がガーデニング?? マーク?」

友人のマーク、といわれても、このエリンには『軍人のマーク』とは繋がらない(現在のマークは既に退役しているが)
そもそも自分がガーデニングなどと・・・。あ、とエリンは繋がった。
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「時々アレックスが庭で誰かに電話してるけど、その相手は『マーク』?」
「あ!そうっす!!エリンさんの庭だから変えないけど、世話はしないといけないですから。
 ただ、あたしらじゃ雑草なのかハーブなのかすらもサッパリ見分けつかなくてって」
「ふーん・・・手間掛けてるわね。ありがと」

正直この庭に愛着はないが、エリンはそう思う。

「いえいえ!そういうの進めてくれたのも全部アレックスさんすから!
 あっ、で。このバラなんですけど、その・・・アレックスさんが言うには、知らない人から次々お見舞いが来たら
 疲れちゃうからって・・・マークさんにもOKもらって、しばらくは内緒にしようとしてたんす」

お義理でも自分に対して見舞いの類が一切ないことで、てっきり『記憶があるという自分』は引きこもりってたのかと邪推し、
そんな自分を情けないと思っていたのだが、そうじゃないらしい。
・・・・意外にもエリンはほっとした。
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「言ってなくてすんません・・・」
「別にへーき」

対して執事モナも秘密を明かして胸のつかえが取れたらしく、
次々と知り合いだのから寄せられたという見舞いの花々について明かしだした。

「ほかにも色々なところにあるお花とか、お友達からたくさん届いてるんですよ。
 このバラだけじゃなく、こっちの小さなヤツもそうですし!」
「・・・ああ、そういうこと」

家の中の花が飾るにしても、どれもこれも色も高さも随分とバラバラで雑多な印象があったが
全てエリンへの見舞いで寄せられたものだったということか。
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「お散歩してたおばあちゃんがフラっと、そこのブーケ来て持って来てくれたりとか。
 エリンさん顔広いから噂回っちゃって回っちゃって!全部うちらで事情話して受け取っちゃってましたけど」
「顔が広いねえ・・・」

「ちなみに昨日の夕飯のお肉のでっっかい塊も、お隣のイアンさんからなんですよ。血を出したなら入れろって!
 たぶん、また月曜と木曜に届くと思うっす」
「・・・・・・・・・」
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定期的に妙にバカでかい肉のブロックが届くのは、そういうことか。・・・・肉屋の定期便かと思ってた。
ふっとそこでつい、エリンは笑ってしまった。





ふと、エリンは自分への視線を感じる。
室内に首を振るとアレックスが自分を見ているのに気付くと、彼の方からそれはそれは柔らかく微笑まれた。
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アレックスに共に寝てもいいという『許可』を与えてから三晩経ったが
彼は随分な距離を保ちながら、随分な忍耐で結局なにもしてない。

そしてエリンに知られないようにしながら、エリンの周りを想像以上の手間を掛けて
記憶のない自分を追い詰めないよう細心の注意を払ってくれている。
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その事実に気付いたエリンもまた、自然と口角を上げて微笑み返していた。




→第10話



第8話 憎たらしい男 Set a thief to catch a thiefⅤ

←第7話




指定したホテルの一室にエリンはすぐに現れ、迎え入れると目を真ん丸にして叫ばれた。

「アレックス、どうしたの。その髪の色!」
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「・・・・・。まあ、それも全部説明するよ。入って」
「あなただけは髪いじったりしないと思ったけど。随分思い切ったんだ」

エリンが現れたということで、
もう部下を装うこともせずにアレックスは彼女の健康そうな様子に心から安堵しながら迎え入れる。
そもそも階段転落事故から意識を取り戻したエリンをその目でまだ見ていなかったアレックス。
頬に手を伸ばし、じっくり顔色を観察する。
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「顔色もおかしくないね。エリン、傷が痛むとか開いた様子はないかい?」
「・・・ちょっと。さっき電話でも大丈夫だって言ったでしょ。なんなのよ」

その馴れ馴れしさにアレックスの手を煩わしげにどけて、エリンは彼を睨む。
部屋の中に盗聴器だのはなくとも部屋の外にはもうエリンの行方を見失わないで済むよう万全が期されている。
エリンが現れた以上、そのためアレックスも嘘をつくつもりはない。

「エリン、色々説明する前に認識のすりあわせをしよう。
 具体的にいつからの記憶がない?たとえば自分の感覚では何年とか、そういう感じなのかな。何か飲む?」
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すると「そんなノンビリしたい気分じゃないけど、なにかお酒ちょうだい」とエリンは言い放つ。
そしてカウンターに着いたとたんにイライラした様子ながら、ゆっくり自分が把握できていることを語り始める。

「今は何年のはずなのにとか、そういうのじゃない。
 街でタッチパネル式の電話も見かけたけど、それがスマホだってことも知ってるしフツーに使うことだってできると思う。
 でも私がどこに住んで、昨日は何をしてて、先月は、いつもは何をしてたのかがサッパリわかんないの。
 ここまで長く髪を伸ばしたこともなかったはずだし、大体何でサンセットバレーなんかに住んでるの?!」
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そこまで言い終えると、酒なぞはいってない炭酸水が出されるがエリンは何も言わずに口をつけた。
この『部下アレックス』は酒を出すつもりがないらしいと、エリンはふんと鼻から息を吐く。

「なるほど。あとわかっていることは?」とアレックス。
「あなたと私で”色々なコ”を集めてるのも知ってる。でも次に何を盗もうかと準備してたわけでもなさそうだし、
 ・・・・なんか、感覚的にもう私の手口は通用しなくなってるくらい・・・多分もう何年も経ってる気がしてる」

つまりエリンの認識としては自分は現役の泥棒だが、
感覚としては泥棒としての自分はもう世間の最新テクノロジーに対応できないと分かってもいるのだ。
明らかに自分の認識と周囲がずれていて、それはエリンをどうしようもなく不安に不快にさせている。
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「あと極めつけはあなたの様子からいって、もう私たち”コンビ”は解消したみたいね。
 自分だけ世界から浮いてるのが分かってすごく気持ちが悪い。どういうことなのか知ってるなら、さっさと説明して」
「昔確かに関係は変わってたけれど、ある意味じゃコンビの解消をしてはいないよ」
「ふ・・・ん。そう?結婚指輪なんかしちゃってるのに。あなた、こんな夜に私のところに来ていいの?」

エリンは妙に冷めた目でじろっとアレックスを見つめる。
しかし昔と違って、そんな彼女にもアレックスは少しも引いたりもせず、むしろ懐かしい気持ちで静かに微笑みつつ見つめ返した。

「他に行くべきところなんかないから。俺と君のことについては、見てもらったほうが早いかな」

そしてアレックスが取り出したのは一冊のアルバム。
かつてエリンの誕生日に彼が贈ってからはスピードは緩まっているものの着々と冊数は増えている。
彼女はとりあえず適当に開く。

「何よ、こ   ━━━━」
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エリンの目に飛び込んできたのは白いウェディングドレスの蕩けるような笑顔で映ってる自分。
その横で白のタキシード姿で居るのは、目の前に居る紫の髪の ━━━━ 

「・・・・・・・」
「・・・・・・・」

しーんと静まり返った中、こんと軽い音を立ててアレックスはエリンの指輪を置いた。
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エリンが意識を失っているあいだに病院でMRIやらを受けるにあたり、貴金属は全て外さねばならず
彼がそのまま大事に預かっていたものだ。

エリンは信じられないようなものを見る目で指輪を見下ろしたあと、バタン!とアルバムを閉じた。
おそるおそる自分の左手薬指を確認する。
あきらかに長年そこに指輪をはめたままだったのであろう、くびれがそこにはあった。

「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」

エリンは無言のままグラスの炭酸水をあおり、アルバムを引っつかんで立ち上がる。
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「寝る」
「はい。おやすみ、エリン。頭、縫ったばかりだろうから絶対に濡らさないようにね。俺はあとで行くよ」
「・・・━━━━・・・」

同じ寝室で寝る宣言をアレックスにされて、エリンは口をぱくぱくぱく━━━━”ちょっと・あなた・なに・言ってんのよ”
そう言いたいらしいが言葉を紡げず。
頭の整理に時間がかかっているらしい。
アレックスがどうこうだとかいう以前に、私が、結婚!!!!?
何がどう転んだら、そうなるってのよ!?
s3-8 (7)
「・・・・・アレックス。念のため訊くけど、それって偽そ」
「偽装結婚でも税金対策でもないよ、エリン」

置かれたままの指輪を一切見ないようにしながら、エリンは再度宣言する。

「そう。寝る」
「はい。おやすみ」
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エリンは寝室があるだろうという方向へ見当をつけ、すたすたと歩いていった。

上階に向かったエリンの気配が離れたので、すかさず電話を手に取る。
万が一にでも会話を聞かれないよう、
アレックスはメールで『このまま宿泊するがいつ彼女が動いてもいいように見張りを続けろ』という指示を
警護長のロンに送った。









おちつかない気持ちで自宅待機していたイアン達も、無事アレックスがエリンと合流できたと知らされて一息。
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スタンガンを食らったイアンは念のためと軽いシャワーだけで済ませ、いつものようにくつろいでいるが
脇腹が小さくだが赤く腫れて痛々しい。

「ひりひりする?」
「ん、少しな。大したもんじゃねえよ」

「気絶しちゃうくらい痛かった?」
「あー・・・っていうよりも頭は驚いてんだけど身体が全然動かないって感じだったな」
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「・・・。こわかったね、イアン」

イアンの横に転がりながらダイアナはよしよしと彼の足を撫で、

「記憶がないって、こわいね。すぐに戻ればいいけど頭のことは単純なものでもないみたいだし」
「こういうのは考えてもしょうがないからな。・・・とりあえずケガして命が無事だっただけ良かったよ。
 病院についたときは面会謝絶だとか言われて、マジでもうだめなのかとか考えたくらいだったからな」

「・・・うん。そうだよね」
「時間はかかるだろうが俺らが焦っても、あいつが良くなるわけじゃないだろうしな。そう落ち込むなよ、パンプキン」
「うん・・・」
s3-8 (41)
エリンが自分達のことを完全に忘れてるのは変わりないので、ダイアナは分かりやすくしょんぼりしている。
ぼんやりテレビのニュースを流しながら、イアンはそんなダイアナの長い赤い髪を指先で弄んだ。

「・・・あたしが記憶なくしちゃったりしたら、どうなっちゃうのかなあ・・・・」
「お前は13のときから俺に惚れてんだろ?ちょっとくらい失くしても全然問題ないだろ。変わんねーよ」

冗談半分。
しかし本気も半分と分かるほど、ふふふんと自信たっぷりにイアンがそう言うので、
むぅとダイアナは少しむくれてみせるが完全に事実なのでどうしようもない。

「でもでもでも!少しはイアン焦るよね?ね!?」
「だから。問題ないつってんだろ」
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「でも焦るよね?」
「ったく、アホなことを・・・」

とか言いつつも、ちょい昔の・・・
サンセットバレーに大学卒業して戻りたての頃くらいの、
昔のダイアナに戻ってしまったら・・・などとイアンは目線だけはテレビに合わせたまま想像してみる。


『えっ・・・イアン・・・と結婚・・・したのは分かったけど・・・い、一緒のベッドでいきなり寝るの?
 ・・・・・・恥ずかしいよぅ・・・』
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若干語尾を延ばしながら、もじもじと身をよじるダイアナ。
ほほう。
若干カマトトぶってる感はあるが、実際に何も知らないというのが分かってるだけに
なるほど、悪くない。


『あっ・・・イアン、あ、あた・・・あたし・・・あ・・・・❤』
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焦りはしないようにするが、まあそういうことにはなるだろう。
余裕でそうなる。
なるほど、悪くない。

そしたらもう、そこから先はもう止まらないだろう(というよりも好き勝手な妄想なので止める気はない)
心はちょっとぶりっこ色のある処女のままながら、
身体はイアンが腕によりをかけて開拓した現行のダイアナのままとなると・・・そいつは一体どんなシャングリラか。

『あっ❤あっ❤ダメぇ、イアン、あっ・・・❤ だめ、あ・・・っ❤は、じめてなのにぃぃっ❤
 こんな、の、おかしく・・・なっちゃうぅぅぅ❤』
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やけに”初めて”を強調しながら、
それはそれはもう大いに悦ぶイアンの妄想の中の記憶喪失ダイアナである。
もちろんイアンの妄想なので、処女の割にしょっぱなからポルノばりのエロセリフ乱発状態だ。


「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
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「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・イアンさー、いま何考えてる?」

目の前のニュースでは原油安を取り上げているが、もちろんイアンの耳には入ってきていないので
イアンは「原油安について」とテレビニュースの字幕を棒で読み上げた。

「ふーん、原油安ね」

目線の先、むくりと盛り上がってきたイアンの下半身を冷めた目で見ながら、
ダイアナはベッドの上で膝立ちになって腰に手を当てる。

「あのさ!パンツ一枚で、今イアンが何を考えてるかとか全部バレバレって、ホントに気付いてないの?!」
「だから原油安だっつたろ。意思に反してこうなることだってあんだよ、男ってのは。女には分かんねーだろーな」
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「絶ッッッッ対うそだっ!!なんか変なこと考えたでしょ!イアン、テレビの方見てたけど他のこと考えてるのバレバレだった!」

ダイアナの指摘は図星である。
ぐぐぐぐ、と存在感を発揮するソレに、ぼそりとイアンが認める。

「・・・・どっちもお前だからいいだろ」
「!!! そっ、・・・そうだけどっ・・・・・そうじゃない━━!!」

数年越しになったが、
『パンプキン』ダイアナが、かつてのダイアナにちょっとだけ負けを感じさせられた瞬間であった。










「・・・・ある程度は見たかい?」
「!」
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シャワーを終え、ひとりベッドの上でアルバムを見ていたエリンに、別室でシャワーを済ませたアレックスが声をかける。
寝ると宣言したもののエリンの唇はまだ赤いままで、
アレックスが来ると言っていたためにメイクを外すことはしなかったらしい。

「ちゃんと髪は洗わなかったみたいだね。ガーゼ濡れてない?」
「・・・・・・・。知らない」
「じゃあ見てみよう。週末に抜糸するまで髪洗えないから辛いね。でも本当にそのくらいで済んで良かった」

アレックスが持ってきたのは結婚式を始め、
まだ留学を終えたばかりで髪の短いダイアナがいたりするような少しだけ古めの写真が入ったもの。
当然その中には『知らない男』のはずだったイアンが何とも仲良さげに何枚にも渡って登場していて、それを顎で示すエリン。

「この男。あなたも知ってるの?」
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「イアン。俺の妹━━━━ 赤毛の女の子がそうだよ。彼はその子と結婚したんだけど、彼は元々は君と仲のいい友達だよ」

アレックスに妹は居なかったはずだ。
しかしそれよりも驚いたこと・・・・エリンは「彼が?わたしの?友達?」とオウム返しに尋ねる。

「そうだよ、ケンカ友達って感じだけれど仲が一番いいんじゃないかな。
 すぐにじゃなくていいけど、次に会う機会があったら今日彼にしたことを謝━━━━」
「人の家に勝手に上がりこんで触ろうとしたからやり返しただけだし、謝るつもりも必要もないわ」

何も悪いことなんかしていない。
暴力への罪悪感を飲み込んで、ハリネズミのように刺々しく宣言するエリン。
しかし今やその強がりの嘘も分かりやすく見抜けてしまい、アレックスは穏やかにそれを流す。
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「それは違うだろう?うちと隣は家族同然の付き合いだし、君も知らなかったとはいえ結果的に誤解があったなら謝るべきだよ。
 幸い彼はたいしたことはなかったけど。・・・・まあ、勿論イアンも君を怖がらせたから、お互いにだね」
「偉そうに説教なんかしないで!」

「イアンはちゃんと君に謝っておいてって俺に伝言してきたよ。君は出来そうにない?5歳の子供でも分かることだと思うけれど」
「! な」

エリンが知っているアレックスとは全然違う。
いつもは(昔は、だ)少しエリンが強く出ただけで、すぐに口をつぐんだのがアレックスという男だったのに、
目の前の紫色の髪になった彼は柔らかくにっこりと笑いかけながらも実に効果的にエリンに説教をしてくる。
屈辱的な熱で、かかかかとエリンの頬が高揚する。

「アレックス、出ていきなさい!」
「その前に傷の具合を・・・ガーゼが濡れてないか見てみないと。頭の後ろを見せて、エリン」
「冗談じゃないわ、図々しい!あなたと結婚してよーがヤッてよーが、全部私が知らないことよ!
 あなたにそんな物言いされる覚えはないわ!」
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「・・・頭を見せるんだ、エリン。大ケガして病院に運ばれたことまで忘れてるわけじゃないだろう。
 自分の命に関わりかねないことまで、つまらない意地を通すのものじゃない」

話題がエリンの健康に関わることになった途端にアレックスからビリ、とした怒りが迸ってきた。
そんなものを彼から向けられたことのなかったエリンは、ついぎくりとしてしまう。
従順になどなりたくもないが救急に運び込まれたのは事実だし、化膿したら確かにコトだ。

「ここに座って」

アレックスがぽんぽんとソファに座れと促し、ぐぬぬぬという顔をしながらもエリンは座って下を向いた。

「抜糸するまで毎日消毒と診察に通う必要があるからね・・・・ああ、ちゃんと濡れてないね。髪はこのままにして寝るかい?」
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「・・・このままじゃないなら、どうやって寝るってのよ?坊主にでもするつもり」
「夏だし、頭が気持ち悪いなら温かいタオルで拭いたりできるよ。でも、した方がよさそうだね。・・・少し髪にまだ血が付いてる」

確かに真夏だしスッキリしたいけれども、このアレックスに従うのは腹が立つ。
沈黙のままのエリンに彼は静かに笑みを深めて「持ってくるよ」と言って、
洗面所から温かい濡れタオルを持ってすぐに戻った。
きっと血が付いてるんだろう箇所が丁寧に拭き取られてく。

「アレックス」
「ん?」
「言っておくけど、あなたとの結婚を認めたわけじゃないから。調子に乗らないで」
s3-8 (16)
冷たい声音でアレックスに言い放つエリン。アレックスとしても、この言葉にショックを受けないわけじゃない。
━━━━ が。そうか昔のエリンを目の当たりにすると、こういう感じなのか。
ついアレックス、笑いを「くっ」と小さく噴出してしまった。

「!?」

明らかに口先でだけで「ごめん」と軽く謝りつつ可能な限り控えめに笑う。

「何、なんなの!?」
「なんでもないよ」
「じゃあ何で笑うのよ、あなた失礼じゃない!」
「いやあ・・・・ 昔は君にそうでられると正直どう接していいか分からないから引き下がったものだったけれど、
 今こうして改めてみると中学生の甥っ子みたいだなあって思ってね」
s3-8 (15)
「・・・な、・・・・・」とエリン、再び口をパクパクパク。
アレックスが指す甥とはミシェルのことだが、このエリンには甥が誰なのかは分からない。
それより中学生の反抗期と同じと一蹴されて言葉が出なくなった。

あの影のようにぴったり自分に寄り添い、何でも従順だった『部下アレックス』は一体どこに!?
柔らかい立ち居振る舞いは変わらないが、これが本性なのだとでもいうのかというほど馴れ馴れしく・・・
結構な物言いをしてくる。

「ああ、そうだ違った。もう高校生なんだった。別に子ども扱いをして馬鹿にしているわけじゃあないからね、エリン」
「してるも同然でしょ!!」

s3-8 (18)
「してないよ。・・・・俺が最後に君を見たのは頭からすごい血を流して救急隊員たちに囲まれてる姿だったからね。
 君は記憶をなくしているし本当はこれから色々なことを考えていったりしなきゃいけないんだろうけれど、
 こうして普通に話せてるだけで嬉しいんだよ。本当に」

浮かれてるかな、ごめんね。
アレックスは嬉しそうに・・・そしてエリンが無事だったという幸せを噛み締めるように頭を拭き続けられる。
そういえば彼は自身の双子の兄を亡くしていたのだったと思い当たり、
エリンは今度こそ本当に何を言っていいのかが分からず黙ったままとなった。

それが終わるとアレックスから「寝たほうがいいよ、話は明日にしよう」と部屋の明かりを落としにかかる。

「一緒のベッドでなんか寝させないわよ」とエリンはぴしゃり。
「しょうがないね。初日だから。俺はサブの方で寝るよ」とアレックスは苦笑気味に笑いつつもあっさり受け入れる。
s3-8 (19)
しかしアレックスは自分が着ているパジャマとおそろいのものを抱えていた。

「・・・・なによ?それ」
「え? パジャマだよ。モナさんが・・・・君がスタンガン投げつけた執事の子だけど、君の分も部屋に届けておいてくれたんだ。
 寝相悪いんだから風邪引かないようにちゃんと着たほうがいいよ」

といっても記憶の失う前のエリンはネグリジェ派であり、これは執事モナが入院用で用意したものだったので
もともと普段は着ないものだったが。
風邪を引くからパジャマ着なさいという言葉は見事カッチーン!とまたエリンを煽る。

「誰が着るもんですか、そんなもの。なにも要らない」

そしてエリンは見せつけてやるつもりでバスローブをソファーに投げつけた。
ちょっとくらい面食らった顔をみせるだろうと、アレックスの間抜け面を見てやろうと思ったのだ。が━━━━
s3-8 (17)
「やっぱり裸がいいのかい?くれぐれも風邪引かないようにするんだよ」

最近はやっと着てくれるようになってたのになあ、などとエリンの眩しい裸体に臆することなど微塵もなく
心配そうに語りかけてるアレックス。
この裸が見えてないのでも言うのか!

「・・・・・」
「あ、そうだ。加湿器を持ってくるように頼もうか。ホテルは家と違って乾燥してるから」

それどころかにこにことしながら、ルームサービスの電話を目で探しにかかられてエリンは再度声を張り上げる。

「なにも要らないって言ってんでしょッッ!出てって!!!」










「だから言ったのに」
s3-8 (23)
かー、かーと軽いイビキをかくのは相変わらず。
本人も気付いてないし、泊まらない主義だったエリンの過去の男も知らないだろう、この姿。

かといって夜通し起きて都度都度、アレックスが上掛けをかけてやるのも
昼間エリンが何をするか分からない以上は寝不足になるような状態は避けたい。
とりあえず1回目、ということで上掛けをかけてあげようとアレックスはそっと寝顔を覗いた。
s3-8 (21)
今日エリンが運ばれたときは死んでしまうんじゃないかという恐ろしすぎる現実が迫っていたので
何よりもこの平和な寝顔を見れただけで嬉しい。

こうなるとエリンの眠りが深いのは知っているので彼女の下敷きになってしまっている上掛けを引っ張りだし、
ついでにエリンの身体も仰向けにして正しい上掛けの位置に戻してやる。

そこまでされても、まだかーかーイビキをかいているエリンにキスを落として囁く。

「おやすみ、イビキさん」
s3-8 (20)
イアンのことすら覚えてないとなると、今の自分とは実質一回りの歳の差か。
昔の君はいまじゃすっかり子供に見えるよ、エリン。
『若い子は』かっこつけてなきゃいけいようで大変みたいだね。

なんて可愛らしいひとだろうか。

そこまでアレックスが考えたところで、かあ、とエリンはイビキといっしょに寝返りをうって上掛けを豪快に蹴り上げる。
再びエリンはその上で寝てしまった。

「・・・・・」
s3-8 (24)
なるほど。夫婦のベッドで自分がよく蹴られるのはこういう仕組みだったらしい。













s3-8 (29)
喉が痛い。
記憶がある限り、こういう類の痛みくらいなら感じたことはあるが身体が重い気もする。
身体が熱いけど寒い気がする。

知らないサンセットバレーのホテルなんて居心地が悪い。
西海岸特有の強すぎる日差しのせいか、エリンは早くに起きていた。
s3-8 (25)
「おはよう、エリン。よく寝られたかい?」

そんなエリンの元へ完璧な身支度・・・でも知っている『部下アレックス』の佇まいでは全くないアレックスが入って来た。
これもまたエリンには居心地が悪い。
化粧をしてない顔を男に見せるのも最悪。

「エリン?大丈夫?」
「な"に"か"」

たったひとこと、そう言ってやっただけでアレックスが「エリン、喉が?」と目を丸めた。
すぐにその顔が引きしまり、携帯を手に車を呼ぶようにどこかに手配し始めた。
s3-8 (30)
エリンは「大げざ・・・止め"て"」と最小限の表現で言うが、用件を終えたアレックスは深刻な顔を見せたまま近づいて
何をするかと思えばエリンの額に手を当てて、ますます心配そうに顔が曇る。

「やっぱり熱い。昨日のケガから感染して熱が出たのかもしれないから、すぐに病院に行くよ」
「い"や"」
「エリン、いい加減にしないか。意地と自分の命、どっちが大切なのかくらい分かるだろう。
 車は2分で回させるから楽なものでいいから服を着よう。いいね」

本当は行かなくちゃ行けないのは分かっているのでエリンも言い返さない。
(”多少”失われてるらしいが)記憶する限り、発熱するような体調不良をしたことはない。ので結構・・・相当キツい。
超健康体でエリンは風邪ひとつ引いたことないという話を夫として聞かされていたアレックスも、すぐにそこには思い当たった。
叱りはするものの、怒っているわけではない彼は柔らかく呼びかける。

s3-8 (32)
「辛いね。楽に被って着るものをとりあえず着よう。ワンピースとかが楽かな」

勝手にすれば。
本当に子供扱いされてるようでムカつく。
ナメんじゃないわよと思いつつも、これ以上反抗するのもバカらしくてエリンはされるがまま。

アレックスによって(しかも平然と!)着替えさせられた。


化粧をする元気はなくともサングラスで外界を遮断しながら、
ホテルの車止めにゆくと知らない黒服の男たちが耳に無線イヤホンをして物々しくリムジンに乗り込ませられる。
s3-8 (34)
ずいぶん大げさな車用意しちゃって。そもそもこの男たちは誰?
記憶がないってだけで私を捕まえるために、どっからか人雇ってきたってわけ!?
自分の置かれてる状況が分かず、エリンは自分の想像にぞっとした。暗い過去を思い出して胸がざわつく。

捕まるのは・・・・閉じ込められるのは嫌。本当に本当に大嫌い。
けれどこの状態で逃げても簡単に捕まるだろうから治療だけは受けようと、心中のざわつきを押さえ込んだ。

「混んではいないようだから、昨日の病院まで20分もあれば着くだろうけど寝てるといいよ」

優しい口調でそうやって味方ぶるアレックスも憎たらしく映り、エリンは黙ったまま首を振った。
アレックスは苦笑しながら、

「随分大げさな車になったね。まあ確かに一番広いから、辛かったら横になるんだよ」
s3-8 (33)
だから私は子供でも赤ちゃんでもないってのよ。

なんなの、この扱いは!
昨夜からなにかと癇に障るこのアレックス。本当腹が立つ。
s3-8 (37)
エリンが強く強く睨んでやっても、アレックスはにっこりと微笑んでるだけ。
なんて憎たらしい。


車が走り出してアレックスがちょいちょいと車内の空調をいじると、爽やかながら温かめのよい風が出始めた。
途端に睡魔がやってきて、発熱にもアレックスにも負けてなるものかとエリンは懸命に戦ったが、
悔しいことに1分ほどで心地よい眠りに落ちてしまった。






→第9話






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